ニコラス・G・カー著『クラウド化する世界』(翔泳社、2000円、2008年10月9日発行)を読んだ。

クラウド化する世界
第6章まではクラウドコンピューティングを解説する本だとばかり思っていたが、第7章からトーンはがらりと変わる。
インターネット時代のネガティブな面を鋭くえぐり始めるのだ。
本書は最近のインターネットについて論じた本の中で、出色の名著かもしれない。
第6章までの内容はプロローグの最後の一節に要約されている。
「旧来の工業化時代には巨大な発電所電力を供給したように、我々の情報化時代においてはコンピュータプラントが動力を供給するのだ。この最新の発電機がネットワークに接続して、企業や家庭に膨大な量のデジタル化情報やデータ処理能力を供給するようになるだろう。そして、かつては自分の小さなコンピュータにインストールしなければならなかった、あらゆる複雑なソフトウェアプログラムを実行できるようになるだろう。そして、かつての発電機がそうだったように、コンピュータプラントもまた、それ以前の時代には考えられなかったほど効率的に運営されるだろう。コンピューティングを安価な汎用品に変えるだろう」
しかし第6章の最後で「我々の人工知能の草原は、新しいエデンの園の域には達していないと信じるに足る理由が、確かに存在するのである」として、クラウド化する世界の負の側面についても言及する。
第7章「多数から少数へ」では、「ユーチューブ経済では、誰もがタダで遊べるが、利益を得るのはごく少数だけなのだ」と指摘。大多数の米国人の所得が抑制されている主な原因はコンピュータ化だと言い切っている。
第8章「大いなるバラ売り」では、新聞の苦境を分析する。
「新聞は、全体として重要なのであり、単に部分を合計した以上の価値を持つ商品なのである」にもかかわらず、新聞がオンラインに移行すると、このまとまりはバラバラになる。「ほとんどの場合、読者は新聞の”第一面”を素っ飛ばして、検索エンジンやフィードリーダー、あるいはグーグルニュース、ディグ、デイライフといったヘッドラインアグリゲーターを利用して、個々の記事に直接飛びつく。たどり着いた先がどの新聞社のサイトなのか気付きさえしない」。
そして、「オンライン版では、大多数の硬派記事はその経済性を証明することが難しい。フリーライターに高品位テレビの評価記事をやっつけで書かせたり、さらに望ましいやり方として読者自身にタダで論評記事を書かせたりしたほうが、ずっと魅力的な収益を上がることができるだろう」という帰結になる。
ネット文化の広がりで「犠牲になるのは、平凡なものではなく、質の高いものだろう。ワールドワイドコンピュータが作り出した多様性の文化は、実は凡庸の文化であることがいずれわかるだろう。何マイルもの広がりがありながら、わずか1インチの深さしかない文化だ」
ネットが「深さ」に進まず「狭さ」にとどまっている状況をふだんから感じているので、この指摘はもっともだと思った。プロの書き手の「深さ」にはお金を払うべきなのだ。
本書はネットが狭さを助長するという側面にも言及する。
「人間は自分の見解を裏付ける情報を得ると、自分の考えこそが正しく、自分とは異なる考えを持つ人は間違っているのだと確信してしまう。裏付けとなる情報が増えるたびに、自分の意見への正しさへの自信が高まり、自信が高まるほどに、その見解は極端に走る傾向がある。そして、一つの考え方しかできなくなるのだ。インターネットは異なる見解を持つ人々を分断するばかりでなく、言い換えると、その違いを拡大する傾向がある」。
検索やフィードで自分の好きなものしか読まなくなれば、そうなるのは必然だ。例えば新聞は我慢して一紙を全部読むから意味があるのだ。知らない世界、違う意見との偶然の出合いに導いてくれるのが新聞だ。SNSで仲良しと語るだけでは新しいものは生まれない。
アマゾンなどのレコメンデーション(お勧め)についても触れている。
「短期的効果としては、我々はサイトの推薦のおかげで思いがけない項目に遭遇することもあるだろう。しかし、長期的には、クリックする回数が増えるほど、見つかる情報の幅は絞り込まれていく」
群馬にいる時は温泉三昧だったから温泉の本をよく読んだが、アマゾンに行くと、いまだに温泉の本を推薦する。レコメンデーション機能の限界を感じる。
著者は最後に「コンピュータシステムは根本的に人間解放のテクノロジーなどではない。それはコントロールのテクノロジーである」と断言する。
さすが『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』の著者。面白かった。
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