猪瀬直樹著『欲望のメディア』はアナログテレビ放送停波を控えた今こそ、読みたい本だ。
猪瀬直樹著『欲望のメディア』(小学館、1990年11月10日第一刷発行)を読んだ。
2011年7月24日、テレビのアナログ放送は完全停波し、デジタル放送に移行する、予定だ。
テレビの黎明期から、テレビが我々の生活に強い影響を及ぼすようになるまでの歴史(登場人物は、昭和天皇、ヒトラー、マッカーサー、高柳健次郎、正力松太郎、力道山、田中角栄ら)を著したこの本は、これからのテレビの姿を見通すために、まさに今、読むべき本だと感じた。
「テレビがこの島国の共同体へ新しく付与したものとは、よりいっそうのライフスタイルの画一化であった。全国民が等しく東京キイ局の発する電波を享受し、情報を共有することのみを指すのではない。むしろ問題は、情報という名で呼ばれる映像が日毎に異なってはいても、送られる内容が同じ図式で繰り返されることのほうに見出されるだろう。殺人事件も原発反対運動も宇宙遊泳もサッカーゲームも、つぎつぎとスピーディに裁断されて茶の間に送り込まれてくる。どの事件も等価で消費される。僕たちは実際に体験して得た情報と擬似的な体験を混同しはじめている」
「スティーヴン・スピルバーグは『テレビは自分にとって第二の両親のようなものだった』と語っている」
「昭和は地上波の時代だった、と総括できよう。既成のネットワークは、稀少資源としての電波が国家権力(郵政省)により分配されることで成り立つ免許事業であった。電波の排他的に独占利用権を認められた放送各社は、いま膨大な利益を手中に収めている」。
こうした地上波の独占状況は、放送のデジタル化による多チャンネル化と、インターネット(ブロードバンド)により放送だけが映像を流せるメディアではなくなったことにより、崩され始めている。
「テレビはいま、国家のゆるやかな統制と視聴者の直截的な欲望の双方に向かい合っている。極端な言い方をすれば、北朝鮮型の儒教的な統制経済主義と香港型の無原則な欲望資本主義のふたつのアジア的特質が巧みに棲み分け融合している」。
猪瀬はメディアと国家との距離を引き離すメディアとしてCS(通信衛星)に期待。「CSを活用するゲリラ的チャンネルの増加が、統制の枠組みを解体するひとつの突破口だった」と書いているが、CSチャンネルは過去のテレビ番組、映画を流したり、音楽のプロモーションビデオを見せたり、地上波で取り上げない娯楽番組を提供したりするチャンネルになっており、残念ながらゲリラ的なパワーはもはやない。恐らく統制の枠組みを解体していくのはインターネットの動画なのだろう。
猪瀬はまた、ハイビジョンが放送と通信のジャンルを融合させ、「テレビ」とは異なる役割を果たすことを期待している。いまのハイビジョンを見ている限りでは、ハイビジョン単独でそれだけの力があるとは思えないが、放送のデジタル化、デジタルネットワークの広がりが、放送と通信の融合を進め、我々の文化に少なからず影響を与えていくことは間違いないだろう。
「テレビ番組は齢を重ねるごとに確実に幼児化してきている。日本人は見違えるほど豊かになり、多様化したライフスタイルを模索しているはずなのに、テレビはますます貧しく、画一化しつつある」。それにもかかわらず「それでもテレビ局は空前の好景気に沸いている」と猪瀬は1990年時点で分析している。しかし、テレビ離れはその後、どんどん進んだ。テレビが内包していた危機は、テレビの独占状態が崩れるにしたがって表面化し始めた。
この本が出た1990年の1年前にNHKのBSアナログ放送がスタートした。しかし、2000年にスタートしたBSデジタル放送は、民放がテレビ広告市場で二匹目のドジョウを狙ったものの、BS受信機の普及の遅れなどで、惨憺たる結果となった。現在でも各社が150億円から350億円の累積損失を抱えている。
地上波のテレビはこれからも映像分野では強い影響力を保ち続けるとは思うが、独占的利益をそこからあげるのは難しくなった。ネットと折り合いをうまくつけた番組も出始めているし、NHKオンデマンドのような実験も始まっている。テレビを中心とする映像メディアとその見方がどう変わっていくかは、とても興味深い。
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