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神楽坂散歩

 約束の昼食まで時間があり、少し神楽坂を回った。
 神楽坂とは、どんなまちなのか。NPO法人粋なまちづくり倶楽部のパンフレットを参考にしよう(以下専門的な記述はすべてこのパンフレットによる)。
 ■▲神楽坂のまち・路地・歴史
 14世紀頃、群馬県赤城山南麓の豪族大胡氏が今の光照寺周辺の台地に牛込城を築いたのが神楽坂発展のはじまり。現在の神楽坂通り商店街の約4分の1の地域が、城を囲む石垣の郭(曲輪:城の周囲にめぐらされた囲い)の中となり、郭内には武器造りの職人が住み兵器庫のある兵庫町が造られました。兵庫町は、現在の寺内公園あたりにあった行元寺の門前町屋とともに、徳川家康の江戸入城時には新宿区で唯一、町の形をなしていた地区であったといいます。

 江戸時代、大老酒井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領した1628年頃、坂下には江戸城の外濠、牛込見附が完成し、両者をつなぐ約1kmの大老登城道が造られ、沿道は武家屋敷として地割りされました。これがほぼ現在の「神楽坂通り」です。また、矢来町の先、現在の神楽坂6丁目付近には多くの寺院が移転され、10軒もの寺が並ぶ通寺町、横寺町が形成されました。
 1658年には、牛込から和泉橋まで神田川が開通、現在の飯田橋駅北側の揚場町に津(湊)が開かれ、軽子坂
付近は多くの人と物資が行き交う場として賑わうようになりました。
 江戸中期になると、善国寺(毘沙門天)の「寅の日」、出世稲荷の「牛の日」の縁日の賑わいに、赤坂神社および行元寺前の岡場所(官許の吉原以外の私娼地)の賑わいも加わって、爛熟の江戸文化を謳歌する街となったのでした。

 明治期になると武家屋敷が撤去されて神楽坂は町人のまちとなり、今より急峻で階段もあった神楽坂通りは明治10年代に緩やかな坂道に変わりましたが、路地などの街割りは現在に至るまでほぼそのまま残されています。行元寺境内から発足した花柳界など、神楽坂の文化はこの江戸時代からの街割りの上で育っていったのです。

 明治28年、甲武鉄道牛込停車場(現在の飯田橋駅)の開設を機に、商店街や住宅地として急速に発展した神楽坂は、大正から昭和初期にかけては東京屈指の繁華街となります。特に関東大震災(大正12年)後、被害のほとんどなかった神楽坂には百貨店が3軒出店し、縁日は連日連夜大盛況、「山の手銀座」とも呼ばれ人が歩けないほどの賑わいを見せたのでした。
 また、この頃の神楽坂は、横寺町に居を構えていた尾崎紅葉の起こした硯友社や、坪内逍遥ら早稲田派文人の活動の舞台ともなり、まさに商業と文化の繁栄するまちとなっていきました。
 
 昭和に入り、戦前は花柳界の最盛期であり、新旧2つの見番に芸者置屋が166軒、芸妓数は619名を数えるほどになっていました。しかしその後開戦、戦争の長期化につれて贅沢や華美さが疎まれ賑わいは下火になっていき、ついに昭和20年の空襲で、神楽坂のまちは焼け野原となったのでした。
 戦後の復興は容易ではなかったものの、昭和30年代後半には花柳界はほぼ戦前の最盛期に匹敵するほどに復興し、第二の隆盛期を迎えました。高度成長期、鉄鋼関係など社用族や多くの政治家が料亭を利用し、花柳界を舞台に活発な活動をした時代でした。

 そして平成のいま、花柳界の規模が縮小するなど往時の神楽坂の姿そのままではありませんが、脈々と受け継がれる古典芸能や花柳界の文化、老舗の伝統に江戸のまちの面影、さらに新たな現代的魅力を加えつつ……「粋なお江戸の坂の町・神楽坂」は今も健在です。

 群馬県と縁の深い神楽坂。いま、最も好きな街だ。

 ▲神楽坂
 旧江戸城の牛込御門を出て外堀通りに出たところが神楽坂下。そこから正面の「神楽坂通り」を上り、毘沙門天善国寺を過ぎ、大久保通りを越えて地下鉄神楽坂駅あたりまでの一帯が、いわゆる「神楽坂」と呼ばれる界隈。
 坂の名前の由来については、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説がある。

 短い散歩、スタートは■毘沙門天(善国寺)
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 江戸中期の寛政4(1972)年に移転してきた日蓮宗池上本門寺の末寺で、神楽坂の中心として親しまれ続けている、
 江戸時代から後々まで、境内にある毘沙門天(寅の日)と出世稲荷(牛の日)の2つの縁日で賑わい、年に4回寅の日に本尊の毘沙門天像(区文化財)が開帳(一般公開)される。新宿七福神のひとつ。
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 狛犬ではなく虎。毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれている。
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 鳥茶屋本店の横の路地を入る。
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 和食の店とフレンチ・イタリアンの店が同居する神楽坂らしい光景。
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 =兵庫横丁 これも神楽坂の代表的な石畳の路地で、元は3尺程度の幅であった。料亭のほか、著名作家が逗留して執筆活動を行うことから、「本書き旅館」として知られる「和可菜」などがある。
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 少し歩くと、四季を感じながら会席料理が楽しめる「葉歩花庭」(はぶかてい)がある。
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 =本多横丁 名称はこの横丁の東側にあった徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年ごろに戻された。両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな坂である。
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 =かくれんぼ横丁 最も「神楽坂らしい」雰囲気を保っている路地のひとつ。石畳や黒塀、さりげないけれど趣向を凝らした建築などを味わいながらのまち歩きは、神楽坂ならではのもの。
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 天孝の天ぷら、食べてみたい。
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 路地にはいろいろな店がある。発見の喜びがある。
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 =芸者新道 明治時代にできた道で、以前は「ロクハチ」(宴会の始まる夜の6時と8時のこと)ともなると、お座敷に出る御姐さん達が一刻を争って近道に利用した。この通りの東端は傾斜が急になっているが、これがかつての神楽坂通りとほぼ同じ傾斜。
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 神楽坂仲通りを経て、神楽坂通りへ。創業明治22年、神楽坂の老舗中国料理店の「龍公亭」の前を通って―。
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 ■見番(東京神楽坂組合) 花柳界(花街)とは料亭があり芸者さんが行き来する地区や社会を指し、見番は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことで、正式名称は「東京神楽坂組合」。
 神楽坂花柳界の最盛期には700人近い芸者衆がいたが、現在は30人ほど。なお今日、東京には代表的な花柳界として神楽坂の他に、浅草、新橋、赤坂、向島、芳町がある。
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 別亭 鳥茶屋を経て―。
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 =小栗横丁 小栗という姓の武家屋敷が、この通りの両端にあったことから小栗横丁と呼ばれた。かつては片側(北側)に幅一尺ほどの小川が流れており、この地に湧水が豊かであったことの証である。通りに中程に銭湯・熱海湯があることから「熱海湯通り」とも呼ばれる。 
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 小栗横町から蕎楽亭のある通りを過ぎ、毘沙門天の裏あたりに行くと、ミシュラン★★の「石かわ」がある。
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 毘沙門天横から、神楽坂通りを渡り、神楽坂郵便局横の狭い路地を通る。ここには、ちょい干してっ平もあった。
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 左に曲がって少し行くと、小さな公園がある。 ■寺内公園(行元寺跡) 現在、超高層マンションが建ち寺内公園がある一帯は、明治40年の土地区画整理で西五反田へ移転した行元寺という広大な寺だった。江戸後期には寺の境内を町屋として年季貸しするようになり、家が立ち並ぶにつれて迷路のような路地ができた。また、境内の一部が遊興の場となり、そこから神楽坂花柳界が発祥した。
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 牛込神楽坂の歴史を語ってくれるベテランガイドの水野正雄さんに公園で出会った。今回、引用している資料は水野さんにいただいたものだ。感謝。この老人に出会ったら、運がいい。
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 大久保通りを渡り、坂をのぼって、今日、昼食をとるミシュラン★のラ・トゥーエルに向かった。

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