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高井鴻山記念館(長野県小布施町)

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 北斎館で画狂老人の作品を楽しんだ後、高井鴻山記念館(長野県上高井郡小布施町大字小布施805-1、026・247・4049)を訪ねた。

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 東門から入った。
 この記念館は、高井鴻山の隠宅翛然楼(ゆうぜんろう)など、現存する邸宅の一部を修復したもの。もと高井家は、間口30間(54m)奥行き80間(144m)の広大な屋敷に、本宅をはじめ蔵などが軒を連ねていたが、明治11年の火災その他の事情で多くを失った。

 パンフレットに高井鴻山、北斎と鴻山の関係について詳しく記述していた。
 高井鴻山とは・・・ 高井家のルーツから華やかで多彩な生涯
 高井鴻山 (文化3年~明治16年/1806~1883) 鴻山は幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学の教え知行合一の精神で"国利民福"の信条をつらぬいた人である。
 15歳から16年間、京都や江戸への遊学で、各界第一人者から多彩な学問や芸術を修め、自由で幅広い人脈を築いた鴻山は、父の死により高井家の当主となってからも、学問思想に情熱を傾け、佐久間象山をはじめ当時の日本史を彩った思想家や文人たちとの交流において、鴻山もまた日本の行く末を憂い、巨万の財力を惜しみなく使い、幕末の変革に関わったのである。
 また、江戸の浮世絵師葛飾北斎など多くの文人墨客を招き、小布施を文化の香り高い地に育み、飢餓には窮民を救い、維新では教育立県を強調し、東京や長野に私塾を開いて教育活動に専念したのである。
 高井家
 高井家は元和年間(1615~24)に浅間山麓の市村より移住。その後、六斎市を背景に北信濃きっての豪農商となり、飯山藩や京都・九条家などの御用達を勤め、小布施を拠点に、信州はもとより江戸、京阪、北陸、瀬戸内までも商圏とする大きな商いを展開した。そして、築いた巨万の財を惜しみなく困窮者の救済に当てた。
 鴻山の祖父は、天明の飢餓に倉を開き窮民を救ったので、その功績が幕府に認められ「高井」の名字と帯刀を許されたのである。
 このように高井家は、大実業家であると共に、慈善家としての家風も受け継ぎ、庶民のリーダーとして社会に深く関わってきた。この家風は鴻山の生き方の根底になっていたといえる。
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 北斎と鴻山 ふたりをめぐる人間模様
 江戸遊学時代に交流のあった画家・葛飾北斎(宝暦10年~嘉永2年/1760~1849)が鴻山を訪ねて小布施へやって来たのは天保13年(1842年)の秋。80歳を越えた老画家が、はるばる小布施を訪れた理由には諸説あるが、天保の改革の過激な取り締まりを避け、北斎芸術の良き理解者であり、経済的な支援者としても頼もしい鴻山のもとへ、身を寄せたと考えるのが妥当であろう。北斎はその後再三にわたって来訪し、鴻山が提供した「碧漪軒(へきいけん)」をアトリエに、数々の肉筆画の傑作や鴻山との合作を残した。鴻山は北斎を師と仰いで尊敬し、北斎は鴻山を「旦那様」と呼ぶ、折り目ある交流が続いたと伝えられている。

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 歩廊。
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 北斎の画稿のコピーが飾ってある。
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 画稿の絵葉書。色の指示などがあって面白い。
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 翛然楼。この建物は、鴻山の祖父作左衛門(宝暦3~文政9・1753~1826)の時代に建てられたものといわれ、鴻山はこれを「翛然楼」と名づけて書斎として使用していた。
 「翛然」とは、「物事にとらわれず思いのままに進退する」という意味がある。中国明時代の文人、陳文燭(ちんぶんしょく)の書斎「翛然亭」にあやかって名づけられたものと推察される。
 鴻山はここで、書画や読書に専念し、あるいは葛飾北斎をはじめ、訪れてくる文人墨客と語り合い、また佐久間象山ら幕末の志士たちと国事を論じたのである。
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 碧漪軒。碧漪軒は、天保13年(1842)、江戸からはるばる鴻山のもとを訪れた浮世絵師葛飾北斎のために、建てられたものである。
 「碧漪」とは、青いさざ波という意味である。室内の床の間落し掛け上部の壁は、貝がらの付着した船板が用いられている。
 北斎はここに滞在して構想を練り、絵の制作にあたったといわれている。
 建てられた当時の場所が明らかではないが、「碧漪軒」と書かれた額が残されている。
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 文庫蔵。鴻山は京都や江戸での修学時代はもとより、小布施に帰ってからも書物の収集に務め、学問に励んだ。
 鴻山の収書は、国学・漢学をはじめ、蘭学・歴史・地理・化学・本草学・生理学・天文学・数学等、学問のあらゆる分野にわたっている。
 この庫は鴻山の書斎「翛然楼」に隣接し、文庫蔵として使用されていたものである。
 ここには、万巻の書物が満たされていたと伝えられるが、明治11年の火災やその他の事情で、一部を残して散逸した。
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 翛然楼は室内も見学できる。写真は2階からみた外の風景。
 幕末から維新にかけて多くの志士が翛然楼へ鴻山を訪ねて国事を論じたとされている。特に佐久間象山とは交情極めて厚く鴻山を月に数度も訪れたといわれている。
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 翛然楼へは、多くの志士が訪れ国事を論じたと言われ、身の安全を考えてとっさの間に逃れる仕掛けを工夫した。一見押入れに見せて中に二重の床板を張りその中にかくれて下におり、逃げ穴を通って本宅と表の座敷へ逃れることができた。
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 正門。
 開館時間は午前9時~午後5時(4~9月は午後6時まで時間延長)。休刊日は年末12月29日~12月31日。
 入館料は300円

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