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白骨温泉(1) 湯元斎藤別館(長野県松本市)その1

 せきざわで席が空くのを待っている間、白骨温泉の主な旅館に電話をかけた。”1000円高速”の渋滞に巻き込まれるのはご免だ。月曜日から1週間、休みをとっているので、あわてて渋滞の中を帰る必要もない。
 しかし、どこも満室だった。諦めかけたが、老舗の湯元斎藤旅館の「別館」に最後の望みを託した。
 登別温泉に行った時も、老舗の第一滝本館系の滝本インに宿泊。第一滝本館の大浴場を何度も利用した。
 湯元斎藤別館(長野県松本市安曇白骨温泉4200、0263・93・2244)も、『湯元齋藤旅館』、日帰り施設の『煤香庵』のお風呂に無料で入れる。別館は意外にノーマークで、その割には泊るとお得なのだ。
 1室、空いているという。1泊2食で2万3000円。別館では一番高い部屋のようだ。しかし、日帰り入浴を受け付けていない老舗の旅館の湯も楽しめるチャンスだ!予約した。
 長野市内からクルマで3時間。
 注意しなければならないのは平成21年5月から平成24年11月末までの予定で、県道白骨温泉線は通年通行に向けての工事をしていること。工事期間中は通行止めで、白骨まではスーパー林道経由になるので、カーナビで行く場合は「乗鞍観光センター」経由でセットしよう。
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 道はすいていて、午後5時ごろ、旅館に着いた。

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 部屋に案内された。立派な部屋だった。
 ホームページによると、 「湯元齋藤別館は昭和8年(1933年)に5代目当主が賓客をもてなす為に湯元別荘として建てられました。木曽、飛騨の匠の入念な技がそこかしこに生かされたお座敷は無垢の材をふんだんに用い、70年の時を経た今、懐かしい空間として古き時代の日本の宿の雰囲気をかもし出しています。 平成7年(1995年)には改修を施し設備を刷新し、客室数11室(和室10室、洋室1室)として心をこめた丁寧なおもてなしを心がけております。 (何分にも古い木造建築ですので、音や声が響き易い点はご了承下さい。)」とのことだ。
 賓客をもてなすための別荘だったのか。豪華だ。(*^_^*)
 お湯について、ホームページの記述を引用しよう。
 「当館のお湯は、白骨温泉に数ある源泉の中でも古来より伝わる2本の自噴泉の1本であります湯元1号源泉を薬師堂の下より引湯しております。 52℃の源泉を250m引湯して浴槽にそそぎこむと40~42℃。ゆっくり入りやすい温度の掛け流しの湯が湯舟に溢れています。 もちろん飲泉も可能ですのでどうぞ飲んでみて下さい。昔から胃腸病に大変効果があるといわれており胃がすっきりして食欲が出たり、便通が良くなることを実感されると思います。 また外傷や手術後の傷も治りが早いです。関節痛、リューマチのお客様は翌朝、節々が楽になるのを感じていただけます。当館には小さな家族風呂があり、ご家族やお体の不自由な方などお気兼ねなくご入浴いただけます。また『湯元齋藤旅館』、『煤香庵』のお風呂を無料で御利用していただいておりますので3店舗の湯に浸かれるのが別館のお客様の特典です」。
 良いところに泊れた、と素直に思う。
 白骨温泉は、草津温泉ハップを白骨温泉の一部施設が使用していたことが2004年6月に発売された週刊ポストの記事で明らかになったことで、名前を知った。温泉偽装問題の端緒となる記事だったが、その後、伊香保温泉で水道水使ったお湯を温泉と称して営業している旅館があることが発覚。温泉偽装問題は群馬に飛び火する。
 とても”他人”とは思えない、白骨温泉だが、こんな事件が起こることが不思議なくらい伝統のある名湯なのだ。
 湯元斎藤旅館のホームページから「白骨の歴史」を引用しよう。
 白骨の歴史について
 白骨の歴史
 鎌倉時代、北陸地方と幕府を結ぶ最短コースとして、この地に鎌倉往還が開かれていました。この頃から白骨には湯が湧いていたと云われることから、その歴史は400年以上にわたることになります。
 湯屋ができたのは江戸時代に入ってからで、以来、明治・大正・昭和と山間のひなびた湯治場として栄えてきました。
 鎌倉住還から湯屋の開設
 北陸地方から当時の政治の中心であった鎌倉を目指す鎌倉住還は、その後も飛騨街道として元禄14年に造られた元禄国絵図に登場するなど、信濃と飛騨を結ぶ道として定着していたことをうかがわせます。
白骨には、この鎌倉住還の頃から湯が湧いていたと言われ、ここを往来する旅人が旅の中休みに湯浴みしていたかもしれません。やがて戦国の世になると乗鞍岳の麓に、武田信玄によって多樋銀山が開発されました。銀山とは言っても主鉱は鉛でしたが、鉄砲が普及しはじめた当時は貴重な軍需物資でした。ここでは鉛の精錬まで行われ、盛時にはかなりの町屋を成していたといわれています。
 銀山から峠を一つ越えて一里半の道のりの白骨温泉では、銀山の傷病者の療養が行われていたことでしょう。そして白骨に初めて本格的な湯屋を作り営業を始めたのは、元文3年(1738年)に松本藩から「白船制札」が下された湯元斎藤旅館の祖先にあたる、大野川村の庄屋であると言われています。
 白骨温泉の謂れ
 ここの地名は、地元に伝わる古文書によると「白船」「白舟」とあります。それは栃の大木を六尺ほどに伐って丸木舟様に彫った「フネ」と称するものを湯槽に用いていたところ、その内側に温泉の石灰分が白く結晶したところからそれを「シラフネ」と呼んだのが由来だと云われています。
明治になり吉田東吾の「大日本地名辞書」が発行されると、そこには「白骨の温泉、白船の湯という。」とあります。
 おそらくこれが白骨の呼称のはじまりであったのでしょう。その後「白骨」の名を広く一般に知らしめたのが、大正2年9月より新聞紙上に連載の始まった、中里介山の小説「大菩薩峠」でした。以来、地元でも「シラフネ」と呼ぶものが少なくなり、いつしか「白骨」の名が定着し今日に至りました。
 小説「大菩薩峠」
 中里介山先生29歳の大正2年(1913年)9月から都新聞に「大菩薩峠」の連載が始まり、同14年1月「無明の巻」からは東京日日、大阪毎日新聞に連載が続きました。そして小説は「他生の巻」で白骨を舞台に物語が展開するのでした。その中に綿々と描かれる白骨の場面は、介山先生が大正14年8月2日にわずか1泊で構想を得たものです。そのとき宿泊されたのが湯元斎藤旅館です。
 「大菩薩峠」の一節に「殊に、龍之介はここへ着くとまず第一に、「これから充分眠れる」という感じで 安心しました」とあります。「他生の巻」における机龍之介の姿は、うちに滞在中の先生のお姿を彷彿とさせるようだ。」と、先代は申しておりました。その後介山先生はなくなられる前年の昭和17年10月11日に再び訪れ、1週間ほど滞在されました。没後10年を迎えた昭和29年7月、東京作家クラブの提案で、白骨温泉旅館組合と諮って文学碑が建立されました。

 煤香庵のお風呂に入れるのは午後6時まで。お茶も飲まずに、すぐに入りに行った。

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Comments

日本の旅館はいいねえ。温泉も食事も。

Posted by: さいのめ | 2009.08.17 01:46 PM

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