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日本橋七福神めぐり~日本橋の奥の深さを知る その2 松島神社(大国神)~末廣神社(毘沙門天)~笠間稲荷神社(寿老人)~椙森神社(恵比寿神)~寳田恵比寿神社(恵比寿神)


 松島神社。ビルの1階が神社になっている。11時47分。
 
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 松島神社(大鳥神社)―大国神 中央区日本橋人形町2-15-2、03・3669・0479
 明暦の大火前、大鳥神社の周囲は歓楽街であり、人形細工の職人、呉服商人、歌舞伎役者、葭町の 芸妓傾城など、芸能関係や庶民の参拝が盛んでした。11月の酉の市がそのしるしです。

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 神社に掲示されていた説明。
 松島神社由緒
 鎌倉時代の元享(1321)以前、この辺りが入り海であった頃小島があり諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、正徳3(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住まいを構え町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
 明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
 大正5年6月10日松島神社と改称。
 昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。

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 阿。
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 吽。


 甘酒横町を通り過ぎ、駐車場を過ぎて右に曲がると末廣神社がある。正午。

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 末廣神社―毘沙門天 中央区日本橋人形町2-25-20、03・3667・4250
 勝運を授け、災難をよける神様として、400年以上前から信仰されています。末廣神社は、この地にあった葭原(吉原)の守り神でした。延宝3年(1675)、社殿を修復した際に、縁起の良い拝啓(末廣扇)が見つかったことから、これに因んで「末廣神社」と名付けられました。

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 神社でいただいた資料より。
 元葭原総鎮守 末廣神社御由緒
御鎮座 410年(慶長元年=1596年以前)
「末廣」呼称 330年前(延宝3年=1675年)
御祭神 宇賀之美多麻命(お稲荷様)、武甕槌命(毘沙門天)
御神徳 営業繁栄、勝運向上

 御由緒
 当社は慶長元年(1596年)以前に「稲荷祠」として現在の境内地辺りに鎮座。よって少なくとも今から410年以前の御鎮座である。
 元和3年(1617年)、遊女屋主人・庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、当時未開の沼地だった周辺地域を開拓し、江戸町1、2丁目・京町1、2丁目を定め、遊女町を開いた。これが「葭原(吉原)のはじまりとなり、町が活気づくにつれ、人々は当社を地主神・氏神として信仰した。
 明暦2年(1656年)、幕府は、江戸市街拡張のため葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、現在の浅草へと移転して「新吉原」が開かれた。
 葭原移転後は、難波町(現・人形町2丁目浪花会)、住吉町(現・人形町2丁目二之部町会)、高砂町(現・富沢町南部地区)、新和泉町(現・人形町3丁目東部南側)の4か町の産土神として仰がれた。当社の周辺には幕府に仕える役人の住宅が多かったことから、これらの崇敬も深かった。幕末期には、玉垣や幕、調度品などが多く奉納されている。
 旧社殿は、昭和20年3月10日未明のいわゆる「東京大空襲」で焼失。同22年に再建(総檜造り)されたものである。

 社号「末廣」の起源
 延宝3年(1675年)の社殿修復の際、本殿から中啓(末廣扇)が出たことから、氏子の人々が悦び祝って、これに因んで「末廣」の二文字を神社名に冠したものである。従って「末廣」と呼称されたのは、今から330年ほど前からである。

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 阿。

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 吽。


 笠間稲荷神社へ。12時15分到着。

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 笠間稲荷神社―寿老人 中央区日本橋浜町2-11-6、03・3666・7498
 日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷神社の東京別社は、江戸末期、笠間藩主牧野貞直公が本社より御分霊を奉斎人々に尊敬され紋三郎稲荷として親しまれております。寿老人は長寿、お導き、幸運の神様として運命を良い方向に切り開いて下さる福徳長寿の守護神です。

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 笠間稲荷神社のホームページによると、笠間稲荷神社東京別社の由緒は――。
 当神社は安政6年(1859年)の11月に、常陸の国(茨城県)にあります笠間稲荷神社より御分霊を受けて、笠間城主牧野家の下屋敷(現在の日本橋、浜町公園の一部)に建てられ、お祀りをされるようになったものです。
 もともとこの地は徳川5代将軍綱吉の寵臣牧野成貞公の拝領地の一部で、邸内には稲荷社がありましたが、延享4年(1747年)に牧野氏が笠間城主となったことが縁で笠間稲荷神社を篤く信仰するようになり、貞直公の時に御分霊を受けてこの社に合祀したのが起源となりました。
 昭和20年には戦災により被害を受け、復興には大変苦慮しましたが、同21年の12月に本社の援助により御本殿と仮社務所ができあがり、28年の9月にはご崇敬者のご尽力により拝殿の再建を見るに至りました。32年には社務所、33年には玉垣、53年には幣殿が完成して、今日に至っております。

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 寿老人は左に祀られている。

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 笠間稲荷神社のホームページは、「稲荷神社とおキツネさん」についても解説している。
 いっぱんに「お稲荷さん」と言えばキツネをイメージされる方が多いようです。キツネはあくまで稲荷大神のお使いであって、神さまそのものではありません。稲荷大神にとってキツネは、熊野神社のカラスや八幡神社のハト、氏神さまの狛犬などと同じように「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。
 これは中世の時代に、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが行われたことによるものです。
 キツネがお使いとして選ばれたのは、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。民俗学者の柳田國男も指摘しているように、日本人には古くから神道の原形として「山の神、田の神」の信仰があります。これは春になると山の神が山から里へ降り、田の神となって稲の生育を守護し、収穫が終えた秋に山へ帰って、山の神となるという信仰です。
 キツネも農事の始まる初午の頃から収穫の終わる秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる頃に山へ戻ります。
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 工事のため、見えなかったが、キツネの大軍団も。


 椙森(すぎのもり)神社へ。12時38分到着。

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 椙森神社―恵比寿神 中央区日本橋堀留町1-10-2、03・3661・5462
 恵比寿神は、商売の神、福徳の神として崇められています。当社は、遠く1000年余の昔の創建、江戸名所図会にも掲載されています。5月16日の例大祭には350貫の大神輿渡御(3年毎)、10月19・20日の恵比寿祭は市と共に有名です。江戸時代の富興業を記念して境内に富塚があります。 

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 阿。
 
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 吽。
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 神社にあった解説。
 椙森神社
 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもの(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
現在は日本橋七福神の恵比寿神としても信仰を集めています。

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 富塚について、神社にあった説明。
 当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建です。
 江戸時代には江戸三森の一つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に残されています。
 この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの富塚です。
 この富塚は、他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物です。今日では宝くじの元祖として多くの人々が心中祈願をしている様です。


 寳田恵比寿神社へ。問屋街を抜けていく。

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 12時50分到着。じっくり各神社を見ているので2時間かかった。
 駐車場に挟まれ、敷地は狭い。狛犬を置くスペースもないようだった。

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 寳田恵比寿神社―恵比寿神 中央区日本橋本町3-10
 宝田村の鎮守で、もとは皇居前にありました。祭壇の中央に安置してある恵比寿神像は慶長11年三伝馬取締役の馬込勘解由が徳川家康から受け、運慶作とも左甚五郎作とも伝えられています。
 1月20日初恵比寿、10月19日・20日には商売繁盛を祈る恵比寿講が開かれています。

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 神社にあった説明より。
 宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長11年の昔360余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田・祝田・千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内、楓山付近)、ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ、住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は、家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として崇拝者は広く関東一円に及び毎年10月19日「べったら市」20日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。

 由緒のある神社のようだが、荒れ方がひどい。両側の駐車場を買い取り、神社として再整備すればいいのではないかと思うのだが。

 いろいろな個性のある神社めぐりは楽しかった。
 昼食は幕末創業の「割烹 日本橋 とよだ」(中央区日本橋室町)で豪華に。

 ※来週は深川七福神めぐりに行く。

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