港七福神めぐり~新旧のコントラストが面白い その2 櫻田神社(壽老神)~氷川神社(毘沙門天)~大法寺(大黒天)~十番稲荷神社(宝船)
天祖神社から櫻田神社までは、紹介した地図では一度六本木駅に戻るルートになっているが、ほぼまっすぐ行く道があるので、地図で示した。
国立新美術館を右に見て。
六本木ヒルズ方向に進む。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「六本木ヒルズ(ろっぽんぎヒルズ、英称:Roppongi Hills)とは、森ビルが17年の歳月を掛けて行った六本木六丁目特別再開発計画の一環で建築された、超高層ビル『六本木ヒルズ森タワー』を中心とした複合施設である」「主な施設として、ゴールドマン・サックス、J-WAVE、・・・などの企業テナントや森美術館、東京シティビューなどの文化施設が入居する森ビル所有の六本木ヒルズ森タワー、テレビ朝日本社ビル、ハリウッド化粧品本社やハリウッド美容専門学校のあるハリウッドビューティプラザ、ホテル(グランドハイアット東京)、シネマコンプレックス(TOHOシネマズ 六本木ヒルズ)、屋外型イベントスペース(六本木ヒルズアリーナ)、住居(六本木ヒルズレジデンス、ゲートタワーレジデンスなど)、TSUTAYAやルイ・ヴィトンなどを始めとする多数のショップやブティック、レストランなどがある」。
テレビ朝日通りに行くには、地下通路を通らなければならない。
少し歩くと右手に櫻田神社(港区西麻布3-2-17、03・3405・0868)がある。長寿を授ける「壽老神」を祀っている。15時9分。
MINATOあらかるとによると、「櫻田神社は、1180年頃に霞ヶ関の地に建立されたといわれ、その後太田道灌が再興し、1624(寛永元)年に現在のところに遷宮しました」「華やかな六本木ヒルズのすぐそばに位置し、六本木通りからテレビ朝日通りに入り、けやき坂通りを左に見ながら歩いていくと右手に鳥居があります」「テレビ局が近い場所がら、芸能人がお忍びで参拝することもあるとか」「神社周辺はかつて陸奥白河藩阿部播磨守(はりまのかみ)の下屋敷があったところ。新選組の沖田総司の生誕地でもあり、総司の墓が近くのお寺にあります」。
ここでも資料をいただいた。
櫻田神社
御祭神 豊宇迦能賣大神(とようかのめのおおかみ)
御由緒
今を遡ること800余年、治承4年(1180)武蔵国の奉行渋谷庄司重国が、霞山(現在の溜池から霞ヶ関にかけての小高くなった一帯)に焼狩をしようとした前夜、その夢枕にご祭神のお使いの白狐が現われ、狩りを行えば必ずや祟りがあるであろうと告げた。重国はこれは正夢と、直ちに狩りを中止し、当時東国に力を持っていた源頼朝公にことの次第を報告したところ、同年11月霞山稲荷大明神として、現在の霞ヶ関桜田門外に社を造り祭るよう命を下した。
後の文治5年(1189)秋、頼朝公は奥州平討奉賽の祭りを行い、神供料として30貫の田地を寄進され、御神田と一般の田地との境界に桜の木を植えられた。この桜が、年毎に咲き誇り、人々が御神田を「桜田」と讃え、付近住民もその住地を桜田村と称するようになった。尚、この桜は当社御遷座にあたり「内桜田」現在の皇居吹き上げの庭に移されたと伝えられる。
時は下り、文明年間(1461~86)太田道灌公は当社の縁起を伝え聞き、直ちに神殿を改修再興され、地領の守護神として崇敬された。また、当時道灌公は太刀甲冑等を寄進され永く当社の御神宝として伝えられたが、「青山火事」により焼失した。当社は永く霞ヶ関に御鎮座になられたが、徳川氏入国以来、譜代大名屋敷が出来るにつれ寛永元年(1624)に現在の地に御鎮座せられた。
当社は幕末期から戦前にかけては、新撰組の沖田聡司や、明治の名将乃木希典将軍が、初参りに参詣した神社として知られ、将軍が当日着用した産着は現在赤坂8丁目に御鎮座になる、乃木神社に於て社宝として保存されている(非公開)。
また、戦前は硫黄島にて玉砕された旧男爵、西竹一帝国陸軍大佐も当社氏子であった。戦前までの当社大祭には、二階屋を優に越す鳳輩(昭和20年空襲による戦火にて消失)を、現在の新橋内幸町交差点付近(当時の氏子地)に設けられたお旅所まで牛に引かせ、丸二日を掛けて当社とその間を往復する盛大な神幸祭が斎行された。又昭和30年代中頃までは、神振行事のお神楽や、境内に櫓を立てて盆踊りの輪が夜更けまで続けられたが、その後の都市化や氏子減少により衰退してしまった。その後の昭和50年、仙台宮司や氏子悲願であった社殿改築も無事終了し、現在の装いとなった。
ネット上で資料を調べている時に、櫻田神社宮司のブログを見つけた。神社参拝の作法なども紹介していて、神社初心者にはありがたいブログだ。
壽老神はこの稲荷神社に祀られているという。
テレ朝通りを下り、警戒厳重な中国大使館の前を通り過ぎ、愛育病院前交差点(交番がある)を左。
仙台坂上交差点を左。
少し歩くと毘沙門天を祀った氷川神社(港区元麻布1-4-23、03・3446・8796)がある。15時44分。
MINATOあらかるとによると、「創建は諸説ありますが、万治年間(1658~61)に現在地より300mほど北にある一本松付近から現地へ移転」「江戸氷川七社の一つとして崇敬されてきました」「神社前の一本松坂を挟んで安藤記念教会、アルゼンチン大使館、パキスタン大使館、西町インターナショナルスクールが並んでいて、外国人の参拝者も珍しくありません」「鳥居をくぐるとすぐ右に大きな神輿が収められた神輿蔵があり、その左に立派な神楽殿が控えています。本堂は鮮やかな朱色で、背後にそびえる高層マンションとのツーショットが印象的です」。
『ウィキペディア』によると、「1990年代の人気アニメ『美少女戦士セーラームーン』で、火川神社の名で登場し、且つ同作品の主要人物の一人であるセーラーマーズ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことで有名である」。ふ~ん。
ここでも資料をいただいた。
麻布総鎮守 氷川神社 由緒
ご祭神(おまつりしている神さま)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
ご神徳 厄除け 災難除け 開運 商売繁盛 交通安全
境内末社
應恭稲荷
高尾稲荷
由来
天慶五年(942)源経基朝臣が勅命を受けて 天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征したときに 武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現、麻布一本松)境内二千余坪を勧請しました。経基は文武に秀でた人物で、鎌倉幕府の栄華を築いた清和源氏の祖です。社ちかくには 度重なる火災にあった一本松の松木をご神木とし、宮村町、宮代町、宮下町、鳥居坂町等といった社に関連した地名もありました。
江戸城を修築した太田道灌も 氷川神社を篤く崇敬していたことで関係がある人物です。
一本松の社は遠く富士山を眺望でき四方絶景であったため武将・貴族たちは鷹狩りで遠出をした時立ち寄り参拝しました。
萬治2年(1659)の時、方位の関係などで現在地にご遷座 しました。江戸時代以降も 祈願とともに 芝居や能も盛んにおこなわれています。天保3年(1832)のご祭礼の催行図も江戸のいきをにぎやかに表しています。江戸氷川七社の一社になっておりました。
明治、大正時代を経て 昭和19年(1944) 戦災に遭遇。しかし、千貫宮神輿庫、神楽殿、手水舎は 難をのがれました。
氏子区域(現、元麻布・南麻布・西麻布と麻布十番・六本木・青山の一部)には 多数の諸外国の大使館があり 国際色豊かな おやしき町のお社として広く人々に崇敬されて 現在にいたっております。
毘沙門天(港七福神) ご神徳 財運 勇気 勝運 学業成就
福をよび徳をもたらす七福神まいりは 室町時代終りから江戸時代と盛んに信仰されてきました。神社におまつりしてある毘沙門天はまずらしく 勇気と財福寿を授け与える神です。
善を積む人々の多くの願いを聞き入れ、それらをかなえてくれます。
少し歩くと大黒坂があった。次の大黒天を祀る大法寺(港区元麻布1-1-10、03・3451・6039)も近い?
大法寺に到着。15時55分。
MINATOあらかるとによると、「創建は1597(慶長2)年。山門を入って左には、お稲荷様が祀られています」「毎年2月3日の節分の日に開かれる『豆まき』は盛大。境内でにぎやかに豆まきが行われた後、近くの麻布十番商店街の年男を乗せた山車がパティオ通り、十番通りなどを練り歩く『豆まきパレード』が繰り広げられます」。
このお寺については説明文が貼ってあったが、達筆なので読み違いもあるかもしれない。
原文の画像は次の通り。
(画像をクリックすると大きな画像で見られます)。
港七福神 大黒天 縁起
当山は栄久山大法寺と号し江戸時代は赤門寺と呼ばれ、甲子の祭日には縁日が盛んで賑わいました。慶長2年11月(1597)、慈眼院日利上人によって創立されました。享保15年(1730)、日舜上人法華経三万部読誦の功徳によって不思議な大黒天尊蔵を感得されました。この御尊像は麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘像仏で伝教大師御作三神具足大黒尊天でありました。ある夜、この御尊像長左衛門の夢枕にが立ち「我れ汝の家にあること久し今法華経読誦の功徳により法華経守護の為め大衆に福寿を授けんことを誓い法華経読誦の地に往かん」と、長左衛門夢さめて翌朝、この秘蔵仏を拝せんとせしが、不思議にそのお姿なきに驚き近隣に法華経読誦の地を求め、一本松に到り日舜上人の法華経三万部読誦を知り、茲に我が家の秘蔵仏あることを不思議に思い上人に霊夢を語り、献納されたました。
時に当山五世妙乗院日亮上人 この尊像の霊夢を得て大衆に福寿を授けんことを誓い日舜上人より御尊像を拝受し永代当山に奉安し大衆帰依の道を開きました。
一本松は天慶3年(940)、六孫王源経基公が承平の初め平将門の反逆を察し東征の帰路当地も来り一本松に衣冠を掛け休息せられし処より「一名冠の松」とも呼ばれ江戸名所の一つとなりました。
・三神具足とは御尊像のお姿が大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸をあらわして居られる処からたたえられることになりました。
七福神をめぐって、最後の宝船へ。麻布十番の豆源本店の横を通り、道路を渡ったところに、宝船を祀った十番稲荷神社(港区麻布十番1-4-6、03・3583・6250)がある。
都営大江戸線の麻布十番駅の入り口がすぐ右にある。こんなところに神社があるのかと思っていたが、この神社が宝船を祀っているのは知らなかった。16時15分。途中、食事もしたが、スタートしてから5時間弱かかった。
MINATOあらかるとによると、「七福神を乗せた宝船の石造は鳥居の左側にあり、右側には火傷、防火のお守りとして昔から伝えられる『ガマ池伝説』を物語るガマ親子の石像が置かれています」「古池から突如大ガマが現れ、水を吹きかけ猛火を消したという伝説から、火の災難から守ってくれるといわれていますが、最近では『若ガエル、幸せカエル、落し物カエル、何でもカエル』などのご利益が信じられ、親しまれています」。
MINATOあらかると、書くことがないのか、七福神めぐりなのにガマのことばかり書いている。
こちらは神社と宝船にこだわろう。
資料をいただいた。
十番稲荷神社御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(商売繁盛・生活守護)
日本武尊(やまとたけるのみこと)(武運長久)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たぎりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
(宗像三女神 学芸 芸能 美貌)
十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)御由緒
十番稲荷神社は、もと末廣神社(旧坂下町鎮座)及び竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)である。昭和20年4月15日、空襲により両神社は焼失してしまったが、昭和25年6月 復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定された。その後両社は合併し十番稲荷神社と改称、平成9年3月29日に現社殿に建て替え、遷座祭が斎行された。
末廣神社(すえひろじんじゃ)御由緒
慶長年間(1596~1615)に創建され、元禄4年(1691)には坂下東方雑式に鎮座していたが、同6年坂下町41の社域に遷座された。
往古より境内に多数の柳があり「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して、扇の形を成していたことから「末廣の柳」と呼ばれるようになり、社名に冠され「末廣稲荷」と称された。その後、明治20年4月に「末廣神社」と改称された。
竹長稲荷神社(たけちょういなりじんじゃ)御由緒
創建は一説に和銅5年(712)あるいは弘仁13年(822)に慈覚大師の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請したと伝えられている。延喜式内社の稗田神社と目される古社である。その後、弘安2年(1279)に鳥羽氏が社殿を再建、そして寛永元年(1624)3月に永坂町に遷座された。
現存はしていないが社宝に広重作の宝船の絵があり、戦前は宝船の巡拝所としても有名であった。
十番稲荷神社のホームページでは「港七福神めぐりの沿革」を説明していた。
港七福神めぐりの沿革は、戦前の昭和8年発足の「麻布稲荷七福神詣」を始めとします。これは旧麻布区内の稲荷神社(境内社を含む)で構成されており、氏神(産土)様へのお参りの励行と、お稲荷様の現世利益の信仰、加えて市電とのタイアップによる地域振興を意図して発足したようです。その後、港区の観光協会の提案により、弁才天、大黒天をお祀りする寺院二ヶ寺を加えて、新しく「港七福神めぐり」がスタートしました。
宝船の石造は鳥居に向かって左側にある。神様たちの表情がいい。
十番稲荷神社と宝船(ホームページより)
当社は港七福神の内、「宝船」のおやしろとして知られております。「宝船」を入れて合計8ヶ所巡拝するのが特色となっております。
なぜ当社が「宝船」のおやしろとして、七福神めぐりの中に加わったのでしょうか?実は当社の前身である竹長稲荷神社(永坂町)が、戦前の麻布稲荷七福神めぐりの「宝船」としてメンバーに入っていたのです。因みにもう一つの前身、末広神社(坂下町)は相殿に宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)をお祀りしていたので、弁才天の巡拝所となっていました(末広神社の弁才天は、江戸時代の江戸百社弁天めぐりの一社として著名でした)。
竹長稲荷神社には、古くより安藤広重筆の宝船の画像が伝来していたようで(戦災により焼失、現存せず)それに因んで麻布稲荷七福神めぐりの頃は、竹長稲荷をお参りして、木のミニチュアの船を求め、各社寺にて七福神の木彫像を集めて歩く形式であったようです。
現在、お参りの方に押しております「宝船」の印影は、当時の竹長稲荷神社でお授けしていた御朱印のデザインをそのまま踏襲しております。
今日、めぐった順に振りかえる。弁財天。
恵比寿。
布袋尊。
福禄寿。
壽老神。
毘沙門天。
大黒天。
七福神めぐりを終え、更科堀井に向かった。
※来週は日本橋七福神めぐりに行く。
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