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割烹 日本橋 とよだ(東京・日本橋室町、日本料理)

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 日本橋七福神めぐりを終えてから、創業文久3年(1863年)という日本橋 割烹 とよだ(東京都中央区日本橋室町1-12-3、03・3241・1025)に行った。

 夜の会席料理だと、値が張るが、ランチメニューだと、店の雰囲気はそのままで、手ごろな値段でおいしい料理が味わえる、という店は多い。
 とよだのランチ(11:30~14:30)メニューは一汁三菜(3150円)、彩御膳 (3675円)、一汁五菜(5250円)、会席「志野」(7350円)などがある。カウンター席では、この他に弁当、定食があるという。
 
 彩御膳 (3675円)を選んだ。2階の掘りごたつスタイルの個室を追加料金なしで使える、一番安いメニューということもあるが、みかけもおしゃれでおいしそうなのが彩御膳だった。

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 一つひとつの料理が洗練されている。お酒に合う料理ばかりだった。
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 ビールに刺身。
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 ご飯とみそ汁。
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 デザート。

 のんびり時間を気にしないで過ごした。ぜいたくは休日の昼間にするものなのかもしれない。
 営業時間は11:30~14:30、17:00~22:00。日・祝定休。

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日本橋七福神めぐり~日本橋の奥の深さを知る その2 松島神社(大国神)~末廣神社(毘沙門天)~笠間稲荷神社(寿老人)~椙森神社(恵比寿神)~寳田恵比寿神社(恵比寿神)


 松島神社。ビルの1階が神社になっている。11時47分。
 
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 松島神社(大鳥神社)―大国神 中央区日本橋人形町2-15-2、03・3669・0479
 明暦の大火前、大鳥神社の周囲は歓楽街であり、人形細工の職人、呉服商人、歌舞伎役者、葭町の 芸妓傾城など、芸能関係や庶民の参拝が盛んでした。11月の酉の市がそのしるしです。

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 神社に掲示されていた説明。
 松島神社由緒
 鎌倉時代の元享(1321)以前、この辺りが入り海であった頃小島があり諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、正徳3(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住まいを構え町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
 明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
 大正5年6月10日松島神社と改称。
 昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。

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 阿。
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 吽。


 甘酒横町を通り過ぎ、駐車場を過ぎて右に曲がると末廣神社がある。正午。

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 末廣神社―毘沙門天 中央区日本橋人形町2-25-20、03・3667・4250
 勝運を授け、災難をよける神様として、400年以上前から信仰されています。末廣神社は、この地にあった葭原(吉原)の守り神でした。延宝3年(1675)、社殿を修復した際に、縁起の良い拝啓(末廣扇)が見つかったことから、これに因んで「末廣神社」と名付けられました。

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 神社でいただいた資料より。
 元葭原総鎮守 末廣神社御由緒
御鎮座 410年(慶長元年=1596年以前)
「末廣」呼称 330年前(延宝3年=1675年)
御祭神 宇賀之美多麻命(お稲荷様)、武甕槌命(毘沙門天)
御神徳 営業繁栄、勝運向上

 御由緒
 当社は慶長元年(1596年)以前に「稲荷祠」として現在の境内地辺りに鎮座。よって少なくとも今から410年以前の御鎮座である。
 元和3年(1617年)、遊女屋主人・庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、当時未開の沼地だった周辺地域を開拓し、江戸町1、2丁目・京町1、2丁目を定め、遊女町を開いた。これが「葭原(吉原)のはじまりとなり、町が活気づくにつれ、人々は当社を地主神・氏神として信仰した。
 明暦2年(1656年)、幕府は、江戸市街拡張のため葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、現在の浅草へと移転して「新吉原」が開かれた。
 葭原移転後は、難波町(現・人形町2丁目浪花会)、住吉町(現・人形町2丁目二之部町会)、高砂町(現・富沢町南部地区)、新和泉町(現・人形町3丁目東部南側)の4か町の産土神として仰がれた。当社の周辺には幕府に仕える役人の住宅が多かったことから、これらの崇敬も深かった。幕末期には、玉垣や幕、調度品などが多く奉納されている。
 旧社殿は、昭和20年3月10日未明のいわゆる「東京大空襲」で焼失。同22年に再建(総檜造り)されたものである。

 社号「末廣」の起源
 延宝3年(1675年)の社殿修復の際、本殿から中啓(末廣扇)が出たことから、氏子の人々が悦び祝って、これに因んで「末廣」の二文字を神社名に冠したものである。従って「末廣」と呼称されたのは、今から330年ほど前からである。

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 阿。

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 吽。


 笠間稲荷神社へ。12時15分到着。

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 笠間稲荷神社―寿老人 中央区日本橋浜町2-11-6、03・3666・7498
 日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷神社の東京別社は、江戸末期、笠間藩主牧野貞直公が本社より御分霊を奉斎人々に尊敬され紋三郎稲荷として親しまれております。寿老人は長寿、お導き、幸運の神様として運命を良い方向に切り開いて下さる福徳長寿の守護神です。

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 笠間稲荷神社のホームページによると、笠間稲荷神社東京別社の由緒は――。
 当神社は安政6年(1859年)の11月に、常陸の国(茨城県)にあります笠間稲荷神社より御分霊を受けて、笠間城主牧野家の下屋敷(現在の日本橋、浜町公園の一部)に建てられ、お祀りをされるようになったものです。
 もともとこの地は徳川5代将軍綱吉の寵臣牧野成貞公の拝領地の一部で、邸内には稲荷社がありましたが、延享4年(1747年)に牧野氏が笠間城主となったことが縁で笠間稲荷神社を篤く信仰するようになり、貞直公の時に御分霊を受けてこの社に合祀したのが起源となりました。
 昭和20年には戦災により被害を受け、復興には大変苦慮しましたが、同21年の12月に本社の援助により御本殿と仮社務所ができあがり、28年の9月にはご崇敬者のご尽力により拝殿の再建を見るに至りました。32年には社務所、33年には玉垣、53年には幣殿が完成して、今日に至っております。

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 寿老人は左に祀られている。

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 笠間稲荷神社のホームページは、「稲荷神社とおキツネさん」についても解説している。
 いっぱんに「お稲荷さん」と言えばキツネをイメージされる方が多いようです。キツネはあくまで稲荷大神のお使いであって、神さまそのものではありません。稲荷大神にとってキツネは、熊野神社のカラスや八幡神社のハト、氏神さまの狛犬などと同じように「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。
 これは中世の時代に、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが行われたことによるものです。
 キツネがお使いとして選ばれたのは、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。民俗学者の柳田國男も指摘しているように、日本人には古くから神道の原形として「山の神、田の神」の信仰があります。これは春になると山の神が山から里へ降り、田の神となって稲の生育を守護し、収穫が終えた秋に山へ帰って、山の神となるという信仰です。
 キツネも農事の始まる初午の頃から収穫の終わる秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる頃に山へ戻ります。
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 工事のため、見えなかったが、キツネの大軍団も。


 椙森(すぎのもり)神社へ。12時38分到着。

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 椙森神社―恵比寿神 中央区日本橋堀留町1-10-2、03・3661・5462
 恵比寿神は、商売の神、福徳の神として崇められています。当社は、遠く1000年余の昔の創建、江戸名所図会にも掲載されています。5月16日の例大祭には350貫の大神輿渡御(3年毎)、10月19・20日の恵比寿祭は市と共に有名です。江戸時代の富興業を記念して境内に富塚があります。 

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 阿。
 
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 吽。
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 神社にあった解説。
 椙森神社
 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもの(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
現在は日本橋七福神の恵比寿神としても信仰を集めています。

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 富塚について、神社にあった説明。
 当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建です。
 江戸時代には江戸三森の一つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に残されています。
 この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの富塚です。
 この富塚は、他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物です。今日では宝くじの元祖として多くの人々が心中祈願をしている様です。


 寳田恵比寿神社へ。問屋街を抜けていく。

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 12時50分到着。じっくり各神社を見ているので2時間かかった。
 駐車場に挟まれ、敷地は狭い。狛犬を置くスペースもないようだった。

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 寳田恵比寿神社―恵比寿神 中央区日本橋本町3-10
 宝田村の鎮守で、もとは皇居前にありました。祭壇の中央に安置してある恵比寿神像は慶長11年三伝馬取締役の馬込勘解由が徳川家康から受け、運慶作とも左甚五郎作とも伝えられています。
 1月20日初恵比寿、10月19日・20日には商売繁盛を祈る恵比寿講が開かれています。

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 神社にあった説明より。
 宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長11年の昔360余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田・祝田・千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内、楓山付近)、ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ、住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は、家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として崇拝者は広く関東一円に及び毎年10月19日「べったら市」20日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。

 由緒のある神社のようだが、荒れ方がひどい。両側の駐車場を買い取り、神社として再整備すればいいのではないかと思うのだが。

 いろいろな個性のある神社めぐりは楽しかった。
 昼食は幕末創業の「割烹 日本橋 とよだ」(中央区日本橋室町)で豪華に。

 ※来週は深川七福神めぐりに行く。

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日本橋七福神めぐり~日本橋の奥の深さを知る その1 小網神社(福禄寿・辨財天)~茶ノ木神社(布袋尊)~水天宮(辨財天)

 「新宿山ノ手七福神めぐり」「港七福神めぐり」に次ぐ東京七福神めぐり、第三弾は、「日本橋七福神めぐり」。

※ご開帳がある正月の日本橋七福神めぐりはこちら

 今回参考にしたのは、人形町商店街協同組合のホームページ「日本橋七福神巡りコース」の説明も簡潔でいいが、それよりも、「わが町、人形町」(現在はリンクが切れている)がいい。江戸時代の日本橋、人形町が良く分かる。

 その一部を引用する。
 「関八州の支配者となった徳川家康が江戸に下向してきたのは天正18 (1590)年のこと。早速城の再建と、街の造成に着手しました。当時、江戸城のある台地の東側には、平地と広大な湿地(汐入の干潟)が扇状に広がっていましたが、洪水のたび地形が変わる荒れはてた地域でした。江戸湊(東京湾)の水辺には16もの小島(向島、柳島、松島など現在でも地名として残っている)があり、ここを埋め立てれば、水上交通の便もよく、城に対する下の町(お城<(しろ>下<した>町)が形成されるとして、ただちに造成が始まりました。これが、現在の中央区全体と千代田区一帯の地域です。下町と言われる所以はここにありました」。
 「城造りと平行して進められた町の造成工事は、雨季の洪水に悩まされなかなか困難を極めたようです。堀割を掘って削り取った土を両側の土地に積み上げ、低地の嵩上げを行いながら整地するという一挙両得の方法で、掘割が縦横に巡らされて行きました。日本橋、京橋、神田周辺に昭和20年代まであった河川のほとんどがこの時に出来たもので、日本橋川はその代表、規模の大きな掘割でした」。
 「慶長8 (1603)年征夷大将軍となった家康は、名実ともに天下びとの威信をかけて、全国の大名に千石夫(千石に対して一人の人夫)を動員、豊島州崎の埋め立てという一大土木工事を急ピッチで推し進めました。これにより、浜町以南新橋あたまでの造成が完了し、ほぼ30数年で城下の町割りが出来上がりました。人形町もこの時期に産声を上げたのです」。

 今では想像もできないが、中央区や千代田区は埋立地の「お城下町」だったのだ。

 「江戸開府とともに、徳川幕府に忠誠を示す大名たちは次々と江戸に屋敷をおくようになり、人口は急激に増加してきました。また城の普請や、大掛かりな土木工事のために集められた人々も大挙して城下に入って来ました。人が増えれば、食料や衣料はじめ多くの生活必需物資の供給が必要になるのは当然のこと。そこで家康は、全国の商工業者に呼びかけ、『地代免除』という好条件で、江戸の城下に出店することを奨励しました。『地代免除』による商業育成の制度は、他に類を見ない徳川幕府独自のもので、『権現様御遺訓』として、江戸幕府滅亡まで守り通されました。 この時期、京都、大阪をはじめ伊勢松坂、近江八幡などの意気盛んな商人たちが続々と新開地江戸に集まり、日本橋を中心とした商業街が出来上がったのです」。
 「日本橋の北詰から江戸橋にいたる河岸にはたくさんの魚が運ばれ、魚河岸五町(長浜町、安針町、大舟町、本小田原町、室町)と呼ばれた江戸の台所。魚河岸は大正12 (1923)年関東大震災で築地に移転するまで、およそ320年、この地にありました。 また橋の東側一帯(堀留町、富沢町、大伝馬町、久松町、人形町など)は、絹や綿の着物をはじめ衣類全般を扱う繊維街が発展して行きました」。
 
 地代免除。これが江戸、日本橋発展の起爆剤となったわけだ。

 「江戸が開府され20年ほど過ぎた寛永元(1624)年、京都から江戸に下ってきた歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、中橋広小路(現在の八重洲口東より)で芝居櫓、猿若座(のちの中村座)を開いたのが江戸歌舞伎の発祥と言われています。次いで、泉州堺から来た村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、ともに人形町に歌舞伎上演の芝居小屋を建設しました。場所は現在の人形町三丁目と堀留町の辺りで、当時は堺町に中村座、葺屋町に市村座と、二つの町に大芝居あったことから通称二丁町とも呼ばれていました。周辺には人形操りの芝居をはじめ、説経芝居、浄瑠璃芝居から見世物小屋、曲芸、水芸、手妻(手品)と安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並び、大名から庶民まで身分を問わず多くの人々が、唯一の娯楽だった芝居見物を楽しんでいました」。
 「当時の大芝居見物は、芝居茶屋とセットになった一日がかりの遊興でした。劇業はほぼ2階建て小屋で、茶屋と桟敷が直結しており、まず、茶屋に上がって、昼間は(火を使う照明は許されていなかったので、夜の興行はなし)桟敷で芝居の世界にはまり、幕間には酒に肴、お茶やお弁当が桟敷に運ばれ、芝居が終わると茶屋の部屋でくつろぐといった優雅で贅沢な遊び。芝居はあらゆる流行の発信源であり、役者にあこがれ熱狂する人々の姿は、今では想像もつかないほど大変なものでした」。
 
 商業だけでなくエンターテインメントも多いに発展した。進取の気性をもった人々が江戸に集まってきたのだろう。

 「江戸の初期から、町中には武士を対象とした娼家が現れはじめ、麹町や鎌倉河岸、道三河岸の辺りに数軒づつ散在していました。慶長17 (1612)年,庄司甚右衛門の提案により、これらの娼家を一箇所に集め、廓を作り風紀を取り締まろうということになり、そこで生まれたのが江戸幕府公認の遊郭・吉原です。葺屋町東の葭や葦の生い茂っていた二町四方(約1万5千坪)の沼地が埋めたてられ、塀で仕切り一般の町屋とは隔絶された廓をつくりあげ、町中に点在していた娼家を移しました。はじめは葭原と呼ばれていましたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と呼ばれるようになりました。廓の内は5つの区域に分けられ、それぞれに町名がつけられていました。芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華、武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ、繁盛を極めていたようです」。
 「寛永9 (1639)年の『武州豊島郡江戸庄図』に、塀で囲まれた吉原が記されていますが、それによると現在の人形町通りから竃(へっつい)河岸沿いに元浜町川に出て、北に向かい富沢町の中ほどから西に曲がった一区画。明暦3年の大火で廓のほとんどが焼失し、この地での営業はおよそ40年足らずで、浅草に移ってしまいますが、吉原の大門に通じる街路の名残りとして”大門通り“の名称が今も残っています」。

 吉原は日本橋にあったのだ。江戸の文化や産業は、ほとんどが、日本橋で始まったのだ。

 日本橋への関心が高まったところで、日本橋七福神、スタート!


より大きな地図で 日本橋七福神 を表示

 日本橋七福神詣は、すべて神社で占められているのが特徴。狭いエリアに神社が集中しているので、巡拝は短時間で済む。
 スタートはどこからで構わないということだ。グループで回る時は、どの神社にも近い人形町駅に集まるのが正解ではないだろうか。いい場所がある。COFEE ロンだ。
 喫茶店を開く前に、ご主人の祖先が代々、様々な商売を営んできたという。人形町で11代続く。初代が天明元年(1780年)馬具屋を始め、次いで両替商を営んだ。唐物屋を経て、昭和40年にCOFFEE ロンを開いたという。
 営業は朝8時から。ただし、日曜日は休みだ。

 ロンでモーニングを食べ、小網神社から反時計回りで七福神めぐりをすることにした。10時40分、ロンを出た。
 ロンから小網神社までの道は地図で示す。

 ロンを出て右。最初の通りを右に行って、あとはまっすぐ。10時46分、小網神社に着いた。
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 小網神社―福禄寿・辨財天 中央区日本橋小網町16-23、03・3668・1080
 日本橋七福会のパンフレットが置いてあった。わかりやすい地図もあり、便利。神社の簡単な説明は以下、このパンフレットから引用。
 福禄寿は福徳金運長寿の神、辨財天は金運学芸の神で、東京銭洗い辨天でも有名です。当神社は、強運厄除けの総本社で、約550年前鎮座した古社です。5月の大祭には一之宮二之宮神輿が渡御し賑わいます。また、
11月のどぶろく祭は奇祭として有名で、強運厄除のみみずくも正月まで授与されます。

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 神社に置いてあったパンフレットによる詳細な説明。
 小網稲荷神社略縁起
 武蔵国豊島郡入江の辺に萬福庵と称し、観世音と辨財天とを安置する庵があった。この庵は、恵心僧都の開基により、その観世音と辨財天とは僧都の作と伝えられている。開基の年代は明らかではないが、僧都の当時を考えれば、およそ一千年前ということになろう。
 その後文正元年(1466)悪疫が流行して人々の困苦その極に達した。その頃、網師の翁、海上にて得た稲の穂を持って庵を訪れ、数日庵に過した。ある夜、開基の恵心僧都が庵主の夢枕にたち、翁を稲荷大神と勧請すれば、一村の悪疫消滅することを告げて夢より去った。夜明けて庵主は翁を尋ねたが、その姿を見ることができなかった。庵主はその託宣を村民に告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建し日夜祈願をつづけた。その後日ならずして悪疫静まり、人々の歓喜たとえるものがなかったといわれる。
 その後、領主太田持資公(道灌)は、神徳著しきことを聞き、庵を訪れ、神社に詣で、土地を寄付し、小網山稲荷院萬福寺と名づけたと伝える。
 その後慶長年問より、この地を当神社に因んで小網町と名づけ、当神社を氏神と崇めた。
 明治に入り、神仏分離の令により、萬福寺と分離、明治6年7月5日、村社に指定された。
 現社殿・神楽殿は、大正期、明治神宮造営の工匠長、内藤駒三郎宮大工一門により昭和4年に造営され、戦禍にもまぬがれ、現在、日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築である。特に、向拝に施された上り竜下り竜の彫刻は、見事なもので、強運厄除の竜として拝されている。社殿・神楽殿は、中央区文化財に登録されている。
 又、当社の二之宮神輿は、大江戸飾神輿と称し、大江戸飾神輿発祥の神社として知られる。

萬福舟乗辨財天社略縁起
 当辨財天は、その昔、当神社と同境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる萬福寿寺に安置されていた辨財天である。
 その後、明治初年、神仏分離の法令施行後、当神社と分離し、計らずも寺院は廃絶したため、明治2年(1869)当神社に移され、奉斉されるに至った。
 辨財天は、同寺院にちなみ、萬福舟乗辨財天と称え、現在、日本橋地区を中心に、神奈川、埼玉、千葉の近郊にまで崇敬を広げている。 又、東京銭洗い辨天とも呼ばれる。

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 正月は元日より7日まで「日本橋七福神詣」が行われる。当神社の辨財天および福禄寿は、第三の巡拝社に当り、宝船や色紙を受けて日本橋の八神社をまわる参拝者で賑わう。
 また、1月1日より7日までは「東京下町八社福参り(下町八福神参り)」巡拝社の一つとして多くの参拝者で賑わう。

 七福神めぐりだが、七福神の像などは見られないようなので、今回は、狛犬や狐にこだわる。 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると――。
 一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は左右共に角が無い物が多く、これらは本来「獅子」と呼ぶべきものである。
 阿吽(あうん、Skt:A - hum)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。

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 阿。

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 吽。

 小網神社から茶ノ木神社までは道が分かりにくいので地図で示す。

 途中、イオニア式御影石の列柱が見事な東京穀物商品取引所の建物(昭和4年建築)などもあり、歴史のある街なのだな、と感じた。
 茶ノ木神社はビルの谷間にあった。11時17分。

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 茶ノ木神社―布袋尊 中央区日本橋人形町1-12-10
 神社の周囲に巡らされた茶の木の緑が見事でこの名がついたと伝えられています。又、佐倉城主の屋敷内はもとより町方にも火災がなかったので火伏の神といわれています。布袋尊は福徳円満の神として信仰されています。

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 神社にかかげられてあった説明。
 茶ノ木神社(布袋尊) 
 「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は、倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝の茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころからか誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して、一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和60年布袋尊を御遷座合祀り申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。

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 阿。
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 吽。 

 次の水天宮はすぐ近く。11時22分。
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 水天宮前交差点。交番も神社の一部のように見える。
 水天宮―辨財天 中央区日本橋蛎殻町2-4-1、03・3666・7195
 有馬頼徳公が、加賀百万国の前田公と能の芸を競われることになり、辨財天に願をかけられ、満願の日にめでたく勝つことができたましたので宝生辨財天ともいわれます。御像は運慶の作といわれ、芸事や学業貨殖に霊験あらたかといわれています。

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 社務所でいただいたパンフレットより。
 水天宮由緒記
 水天宮のご祭神
【天御中主大神】あめのみなかぬしのおおかみ
 天地の最初に出現された、宇宙の根源の神様です。日本の神々の祖先神であり、水天宮の子授け、安産祈願に広大無辺のご神徳を発揮されます。
【安徳天皇】あんとくてんのう
 高倉天皇と建礼門院の第一皇子として、1178年にお生まれになりました。生後1ヶ月で皇太子となり、わずか3歳にして第81代天皇に即位されました。
 祖父・平清盛の死後、源氏に追われて各地を転々とし、ついに1185年、祖母の二位の尼に抱かれ、壇ノ浦の海に身を投げられました。
【建礼門院】けんれいもんいん
 平清盛と時子(二位の尼)の次女として1155年お生まれになりました。高倉天皇の母となられます。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水されましたが、助けられ、京の長楽寺で剃髪。余生を大原の寂光院で送り、1213年、生涯を終えられました。御名・徳子。
【二位の尼】にいのあま 平清盛の正室。宗盛、知盛、重盛、徳子の母君。清盛の死後出家し、従二位に叙せられたので二位の尼と呼ばれます。孫の安徳天皇と京都から西へ逃れ、壇ノ浦で入水されました。御名・時子。

 水天宮の由来
 水天宮(本宮は福岡県久留米市瀬下町鎮座)の発祥は、今から約700年前にさかのぼります。
 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇は祖母の二位の尼に抱かれて入水されました。官女の按察使局は「我等の霊を慰めよ」という二位の尼の命したのがをうけ、筑後川の辺に小さな祠を建てて、その御霊をお祀りしました。これが水天宮の起源といわれています。
 その後、久留米市藩主有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に敷地が寄進され、現在に至ります。
 東京の水天宮は、文政元年に参勤交代のため江戸詰をしていた当時の藩主有馬頼徳公が、久留米水天宮からの御分霊を、江戸屋敷内(現在の港区・芝公園)にお祀りをはじまりです。本来屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は篤く、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったため、毎月5日の縁日に限り屋敷を開放して、一般の参拝を許可しました。人々は情け深い事を感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て「なさけ有馬の水天宮」と口癖のように言い合い、江戸の流行り言葉となるほどでした。
 水天宮は明治4年、屋敷の移転と共に赤坂に移り、その翌年現在の日本橋蛎殻町に移転しました。
 日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。
 その後、大正12年の関東大震災で社殿は焼失しましたが、御霊代は隅田川にかかる新大橋に奉遷され無事でした。(その時の模様を記した石碑が新大橋の側に建てられています)現在の権現造りの社殿は、昭和42年11月に建てられたものです。
 ご利益としては安産・子授けはもちろんのこと、水難除け・渡航安全の神様として有名です。
 境内には「火風神社」「秋葉神社」「高尾神社」、芸能・貨殖の神「辨財天」、幕末の勤皇の志士で水天宮の第二十二代宮司真木和泉守保臣を祀る「紫灘神社」が鎮座しております。

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 阿。

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 吽。

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 社殿。

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 すごい賑わいだった。

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 宝生辨財天
 祭礼日 五月第二巳ノ日
 御祭神 市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)

 久留米藩第九代藩主有馬頼徳(よりのり)公が
 加賀藩第十一代藩主前田斉広(なりなが)公と
 室生流能学の技を競われた際
 辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた
 それ以来、宝生辨財天と敬われ
 芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと
 現在に至るもで篤く信仰されている

 毎月5日と巳の日には
 ご社殿の扉が開き
 宝生辨財天のご神像を拝観できる

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 水天宮の後ろを通って、松島神社へ。

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TWENTY EIGHT(トゥエンティエイト、東京・汐留、バー&ラウンジ)

 コンラッド東京(東京都港区東新橋1-9-1 東京汐留ビルディング、03・6388・8000)28階のロビーフロアにあるバー&ラウンジ「TWENTY EIGHT(トゥエンティエイト)」アフタヌーンティーを楽しんだ。

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 頼んだのはオリジナルフレーバーティー(1500円)。
 「28階の眼下に見渡せる日本庭園『浜離宮』の和とホテルの持つ洋をイメージしブレンドしたオリジナルフレーバードティー。お茶には日本を代表する鹿児島産の緑茶と洋の紅茶(セイロン)をブレンド、香り付けには和風の梅を洋風には天然ベルガモットを使用。見た目にもこだわり「幸福」の意味をもたらす矢車菊のブルーを藤の花に見立てました。心休まる香り、味わいをお楽しみくださいませ」。飲みやすいお茶だった。短時間しかいれらないと1500円は高いが、メールチェックや読書などをするのに最適な場所で、1500円の価値はある。おかわりも持ってきてくれ、ゆっくり過ごせた(窓際は日差しが強く少し暑かったが・・・)。
 
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 眼下に広がる浜離宮恩賜庭園や東京湾の景色がすばらしい。

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 高い天井。気持ちの良い空間だ。

 ティー・セレクションはこのほかにセイロン、アッサム、ダージリン(夏摘み)、ダージリン(春摘み)、ダージリンアールグレ、ジャスミン、緑茶、カフェイン抜きアールグレー(以上1350円)、チャイ、ロイヤルミルクティー(以上1500円)がある。
 ハーブティー・セレクションは、ペパーミント、カモミール、レモングラス、ローズヒップ、フルーツガーデン(以上1350円)
 カフェ・セレクションは、コーヒー、エスプレッソ、カフェインレスコーヒー、アイスコーヒー(以上1350円)、リストレット、カプチーノ、カフェラテ、マキアート(以上1400円)。

 ケーキセレクションはフレジェ、ローズマリー レア チーズケーキ、パンプキン タルト、シュルプリーズ(各1100円)。
 ケーキと紅茶またはコーヒーを組み合わせたケーキセット(2200円)や、ケーキとオリジナルフレーバードティー、フレッシュハーブティー又はカプチーノを組み合わせたスペシャル ドリンク ケーキセット(2500円)もある。

 営業時間は
 ティータイム
 9:00~17:00(土・日・祝)
 10:00~17:00(月~金)
 アフタヌーンティー
 14:30〜17:00
 バータイム
 17:00〜24:00

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総本家 更科堀井 麻布本店(東京・元麻布、そば)

 そばの老舗、総本家 更科堀井 麻布本店(東京都港区元麻布3-11-4、03・3403・3401)に行った。
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 更科堀井は200年以上の歴史がある。同店のパンフレットによると――。
 寛政元年(1789年)、そば打ち上手として知られた信州の反物商、布屋太兵衛は、領主 保科兵部少輔の助言で、そば屋に転向。麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店いたしました。明治8年(1875年)、名字必称の令により、職業にちなんだ屋号「布屋」改め「堀井」を名乗り、五代目より堀井太兵衛として伝統の更科そばを今日に伝えております。
 更科そばはその上品な風味ゆえに、古くは江戸城や大名屋敷に出入りを許され、御前に供する名誉も賜り、そば好きの江戸っ子に親しまれてまいりました。創業220余年、変らぬ老舗の美味を今、直系八代目堀井太兵衛の「総本家 更科堀井」でお楽しみいただけます。

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 まずは日本酒とおつまみで。

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 板わさ(550円)。

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 玉子焼(680円)。 

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 そばがき(1100円)。う~ん、やはり老舗。おいしい。

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 さらしなそば。堀井の名物。そばの実の芯の部分だけを用いて打つ真っ白なそば。ほんのりした甘みとのどごしのよさが特徴。そばつゆは、「さらしな」には「甘口」つゆがお薦めだという。吸い込みがいいため、辛口だと、辛くなり過ぎるからだという。薬味不要。とても、おいしい。

 営業時間は11:30~20:30。水曜定休。

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豆源 麻布十番本店本店(東京・麻布十番、豆菓子、おかき)

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 慶応元年(1865年)創業の豆源 麻布十番本店(東京都港区麻布十番1-8-12。フリーダイヤル 0120-410<ヨイマメ>-413<ヨイミセ>=10時~18時、03・3583・0962)に行った。
 店の一角で塩おかきの実演販売をしており、いいにおいがする。

 パンフレットにあった「豆源からの御挨拶」。
 私ども豆源は、
慶応元年(一八六五年)創業以来、豆の持ち味と
風味を守る製法で豆菓子の味覚を追求してまいりました。
 初代駿河屋源兵衛は”豆やの源兵ヱ“さんと
愛称されて煎り豆を肩に、また屋台荷車を引き歩いて
江戸下町の人々に親しまれていたようです。
 麻布十番に居をかまえてからは店頭に
大きな日傘のある店としても注目されてまいりました。
 おかげさまで江戸風味の豆舗として、多くの
お客さまからお引き立てをいただけるようになりました。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。

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 ちょうど、節分の豆を売っていた。枡が二つで、「ますます」繁盛ということになるらしい。

 節分について店頭に説明があった。
 「節分」は本来季節の節目を指し、立春・立夏・立秋・立冬の前日、年間4回あったものでしたが、現在では立春の前日を指しています。旧暦では立春が新年、前日の2月3日が大晦日となり、前年の邪気を祓うという意味を込めて行われたのが「豆まき」です。豆まきの後に自分の歳の数、又は歳の数+1個の豆を食べ、無病息災を願います。

 節分の豆と、代表的な8種類の豆の詰め合わせを買って帰った。
追記2010.1.24)豆を食べた。商品説明は豆源ホームページより。
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 海老豆
 桜えび独特の香りをしっかりと閉じこめた静岡県蒲原産の海老粉は、ほんのりとした甘みが特徴。加えて寒梅粉(米の粉)をふんだんに使用し、南京豆の風味を生かしたバランスのよい食感の人気商品です。

 原材料名/寒梅粉、落花生(南アフリカ産)、小麦粉、砂糖、植物油、エビパウダー、海老粉、食塩、膨張剤、調味料(アミノ酸等)、(原材料の一部に大豆・かにを含む)

 落花生は粒が大きいので豆というより、おかきを食べる感覚で楽しめた。エビ味がgood!

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 梅落花
 この味、この色、この香り。梅の味わいがしっかりと詰まった、女性に大人気の商品です。さっぱりした味わいで爽やかに仕立てた梅じそ風味。ほのかでかわいいピンク色がご進物などに華を添えます。合成着色料は一切使わず、梅の自然な色そのものを出しました。

 原材料名/寒梅粉、落花生(南アフリカ産)、小麦粉、砂糖、植物油、しそパウダー、梅パウダー、食塩、クエン酸、コチニール色素、膨張剤、調味料(アミノ酸等)

 素朴な海老豆に比べ、お化粧をしているような感じがある。だから、女性に人気があるのかもしれない。

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 おとぼけ豆
 人気NO.1の豆菓子です。「青海苔」「きざみ海苔」「海老」の3種類からなる磯風味。飽きのこない三色の味が評判で、お土産やご進物に必ずといっていいほど添えられる商品です。同じ値段で、170gのお徳用パックもご用意しております。

 原材料名/落花生(南アフリカ産)、寒梅粉、小麦粉、砂糖、植物油、海老粉、青粉、海苔、食塩、膨張剤、調味料(アミノ酸等)

 これは良く食べる。おいしい。

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 塩豆
 えんどう豆本来の風味を残しつつ、従来の「塩豆」よりやわらかく仕上げました。やわらかさの秘密は、えんどう豆を“直火”で煎るのではなく“熱風”で加工し、仕上げているからです。他にはないソフトな食感をお楽しみください。

 原材料名/えんどう豆(ニュージーランド産)、食塩、澱粉分解物、昆布エキス、貝カルシウム、調味料(アミノ酸等)

 ちょっと塩辛いが素朴な懐かしい味。

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 オニオングリンピース

 原材料名/えんどう豆(ニュージーランド産)、植物油、還元澱粉糖化物、蛋白酵素分解物、食塩、オニオンパウダー、醤油、酵母エキス、黒胡椒、ガーリックパウダー、蛋白加水分解物、澱粉、デキストリン、調味料(アミノ酸等)、増粘剤(キサンタンガム・グァーガム)、乳化剤、(原材料の一部に小麦・大豆を含む)

 これは現代っ子が好きそうな今風の味。その分添加しているものも多いようだ。こういう商品開発も必要なのだろう。
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 白胡麻大豆

 原材料名/煎り胡麻、小麦粉、大豆(国産)(遺伝子組み換えではありません)、砂糖、寒梅粉、澱粉、還元澱粉糖化物、醤油、植物油、蛋白加水分解物、膨張剤、調味料(アミノ酸等)、(原材料の一部にゼラチン・乳を含む)

 見かけは中華のごまだんご。香ばしい。
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 福豆

 原材料名/大豆(国産)(遺伝子組み換えではありません)

 これは「鬼は~外~。福は~内~」の豆。
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わさび大豆

 原材料名/大豆(国産)(遺伝子組み換えではありません)、寒梅粉、小麦粉、砂糖、澱粉、植物油、澱粉分解物、醤油、還元澱粉糖化物、食塩、海苔、蛋白加水分解物、昆布エキス、香料、調味料(アミノ酸等)、膨張剤、ベニバナ黄色素 クチナシ青色素

 これも現代っ子が好きそうな今風の味。わさびの味が強すぎて、大豆本来のおいしさが感じられない。

 結論。素朴な味がいい。塩、海老、海苔・・・。やはり豆本来の味を引き出すのはこのあたりではないか。

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港七福神めぐり~新旧のコントラストが面白い その2 櫻田神社(壽老神)~氷川神社(毘沙門天)~大法寺(大黒天)~十番稲荷神社(宝船)


 天祖神社から櫻田神社までは、紹介した地図では一度六本木駅に戻るルートになっているが、ほぼまっすぐ行く道があるので、地図で示した。

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 国立新美術館を右に見て。
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 六本木ヒルズ方向に進む。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「六本木ヒルズ(ろっぽんぎヒルズ、英称:Roppongi Hills)とは、森ビルが17年の歳月を掛けて行った六本木六丁目特別再開発計画の一環で建築された、超高層ビル『六本木ヒルズ森タワー』を中心とした複合施設である」「主な施設として、ゴールドマン・サックス、J-WAVE、・・・などの企業テナントや森美術館、東京シティビューなどの文化施設が入居する森ビル所有の六本木ヒルズ森タワー、テレビ朝日本社ビル、ハリウッド化粧品本社やハリウッド美容専門学校のあるハリウッドビューティプラザ、ホテル(グランドハイアット東京)、シネマコンプレックス(TOHOシネマズ 六本木ヒルズ)、屋外型イベントスペース(六本木ヒルズアリーナ)、住居(六本木ヒルズレジデンス、ゲートタワーレジデンスなど)、TSUTAYAやルイ・ヴィトンなどを始めとする多数のショップやブティック、レストランなどがある」。

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 テレビ朝日通りに行くには、地下通路を通らなければならない。

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 少し歩くと右手に櫻田神社(港区西麻布3-2-17、03・3405・0868)がある。長寿を授ける「壽老神」を祀っている。15時9分。
 
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 MINATOあらかるとによると、「櫻田神社は、1180年頃に霞ヶ関の地に建立されたといわれ、その後太田道灌が再興し、1624(寛永元)年に現在のところに遷宮しました」「華やかな六本木ヒルズのすぐそばに位置し、六本木通りからテレビ朝日通りに入り、けやき坂通りを左に見ながら歩いていくと右手に鳥居があります」「テレビ局が近い場所がら、芸能人がお忍びで参拝することもあるとか」「神社周辺はかつて陸奥白河藩阿部播磨守(はりまのかみ)の下屋敷があったところ。新選組の沖田総司の生誕地でもあり、総司の墓が近くのお寺にあります」。

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 ここでも資料をいただいた。
 櫻田神社
 御祭神 豊宇迦能賣大神(とようかのめのおおかみ)
 
 御由緒
 今を遡ること800余年、治承4年(1180)武蔵国の奉行渋谷庄司重国が、霞山(現在の溜池から霞ヶ関にかけての小高くなった一帯)に焼狩をしようとした前夜、その夢枕にご祭神のお使いの白狐が現われ、狩りを行えば必ずや祟りがあるであろうと告げた。重国はこれは正夢と、直ちに狩りを中止し、当時東国に力を持っていた源頼朝公にことの次第を報告したところ、同年11月霞山稲荷大明神として、現在の霞ヶ関桜田門外に社を造り祭るよう命を下した。
 後の文治5年(1189)秋、頼朝公は奥州平討奉賽の祭りを行い、神供料として30貫の田地を寄進され、御神田と一般の田地との境界に桜の木を植えられた。この桜が、年毎に咲き誇り、人々が御神田を「桜田」と讃え、付近住民もその住地を桜田村と称するようになった。尚、この桜は当社御遷座にあたり「内桜田」現在の皇居吹き上げの庭に移されたと伝えられる。
 時は下り、文明年間(1461~86)太田道灌公は当社の縁起を伝え聞き、直ちに神殿を改修再興され、地領の守護神として崇敬された。また、当時道灌公は太刀甲冑等を寄進され永く当社の御神宝として伝えられたが、「青山火事」により焼失した。当社は永く霞ヶ関に御鎮座になられたが、徳川氏入国以来、譜代大名屋敷が出来るにつれ寛永元年(1624)に現在の地に御鎮座せられた。
 当社は幕末期から戦前にかけては、新撰組の沖田聡司や、明治の名将乃木希典将軍が、初参りに参詣した神社として知られ、将軍が当日着用した産着は現在赤坂8丁目に御鎮座になる、乃木神社に於て社宝として保存されている(非公開)。
 また、戦前は硫黄島にて玉砕された旧男爵、西竹一帝国陸軍大佐も当社氏子であった。戦前までの当社大祭には、二階屋を優に越す鳳輩(昭和20年空襲による戦火にて消失)を、現在の新橋内幸町交差点付近(当時の氏子地)に設けられたお旅所まで牛に引かせ、丸二日を掛けて当社とその間を往復する盛大な神幸祭が斎行された。又昭和30年代中頃までは、神振行事のお神楽や、境内に櫓を立てて盆踊りの輪が夜更けまで続けられたが、その後の都市化や氏子減少により衰退してしまった。その後の昭和50年、仙台宮司や氏子悲願であった社殿改築も無事終了し、現在の装いとなった。
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 ネット上で資料を調べている時に、櫻田神社宮司のブログを見つけた。神社参拝の作法なども紹介していて、神社初心者にはありがたいブログだ。

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 壽老神はこの稲荷神社に祀られているという。
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 テレ朝通りを下り、警戒厳重な中国大使館の前を通り過ぎ、愛育病院前交差点(交番がある)を左。
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 仙台坂上交差点を左。
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 少し歩くと毘沙門天を祀った氷川神社(港区元麻布1-4-23、03・3446・8796)がある。15時44分。
 MINATOあらかるとによると、「創建は諸説ありますが、万治年間(1658~61)に現在地より300mほど北にある一本松付近から現地へ移転」「江戸氷川七社の一つとして崇敬されてきました」「神社前の一本松坂を挟んで安藤記念教会、アルゼンチン大使館、パキスタン大使館、西町インターナショナルスクールが並んでいて、外国人の参拝者も珍しくありません」「鳥居をくぐるとすぐ右に大きな神輿が収められた神輿蔵があり、その左に立派な神楽殿が控えています。本堂は鮮やかな朱色で、背後にそびえる高層マンションとのツーショットが印象的です」。
 『ウィキペディア』によると、「1990年代の人気アニメ『美少女戦士セーラームーン』で、火川神社の名で登場し、且つ同作品の主要人物の一人であるセーラーマーズ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことで有名である」。ふ~ん。

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 ここでも資料をいただいた。
 麻布総鎮守 氷川神社 由緒
 ご祭神(おまつりしている神さま)
 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)

 ご神徳 厄除け 災難除け 開運 商売繁盛 交通安全

 境内末社 
 應恭稲荷
  高尾稲荷

由来
 天慶五年(942)源経基朝臣が勅命を受けて 天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征したときに 武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現、麻布一本松)境内二千余坪を勧請しました。経基は文武に秀でた人物で、鎌倉幕府の栄華を築いた清和源氏の祖です。社ちかくには 度重なる火災にあった一本松の松木をご神木とし、宮村町、宮代町、宮下町、鳥居坂町等といった社に関連した地名もありました。
 江戸城を修築した太田道灌も 氷川神社を篤く崇敬していたことで関係がある人物です。
 一本松の社は遠く富士山を眺望でき四方絶景であったため武将・貴族たちは鷹狩りで遠出をした時立ち寄り参拝しました。
 萬治2年(1659)の時、方位の関係などで現在地にご遷座 しました。江戸時代以降も 祈願とともに 芝居や能も盛んにおこなわれています。天保3年(1832)のご祭礼の催行図も江戸のいきをにぎやかに表しています。江戸氷川七社の一社になっておりました。
 明治、大正時代を経て 昭和19年(1944) 戦災に遭遇。しかし、千貫宮神輿庫、神楽殿、手水舎は 難をのがれました。
 氏子区域(現、元麻布・南麻布・西麻布と麻布十番・六本木・青山の一部)には 多数の諸外国の大使館があり 国際色豊かな おやしき町のお社として広く人々に崇敬されて 現在にいたっております。

毘沙門天(港七福神) ご神徳 財運 勇気 勝運 学業成就
 福をよび徳をもたらす七福神まいりは 室町時代終りから江戸時代と盛んに信仰されてきました。神社におまつりしてある毘沙門天はまずらしく 勇気と財福寿を授け与える神です。
 善を積む人々の多くの願いを聞き入れ、それらをかなえてくれます。

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 少し歩くと大黒坂があった。次の大黒天を祀る大法寺(港区元麻布1-1-10、03・3451・6039)も近い?

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 大法寺に到着。15時55分。
 MINATOあらかるとによると、「創建は1597(慶長2)年。山門を入って左には、お稲荷様が祀られています」「毎年2月3日の節分の日に開かれる『豆まき』は盛大。境内でにぎやかに豆まきが行われた後、近くの麻布十番商店街の年男を乗せた山車がパティオ通り、十番通りなどを練り歩く『豆まきパレード』が繰り広げられます」。

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 このお寺については説明文が貼ってあったが、達筆なので読み違いもあるかもしれない。
 原文の画像は次の通り。
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(画像をクリックすると大きな画像で見られます)。
 港七福神 大黒天 縁起
当山は栄久山大法寺と号し江戸時代は赤門寺と呼ばれ、甲子の祭日には縁日が盛んで賑わいました。慶長2年11月(1597)、慈眼院日利上人によって創立されました。享保15年(1730)、日舜上人法華経三万部読誦の功徳によって不思議な大黒天尊蔵を感得されました。この御尊像は麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘像仏で伝教大師御作三神具足大黒尊天でありました。ある夜、この御尊像長左衛門の夢枕にが立ち「我れ汝の家にあること久し今法華経読誦の功徳により法華経守護の為め大衆に福寿を授けんことを誓い法華経読誦の地に往かん」と、長左衛門夢さめて翌朝、この秘蔵仏を拝せんとせしが、不思議にそのお姿なきに驚き近隣に法華経読誦の地を求め、一本松に到り日舜上人の法華経三万部読誦を知り、茲に我が家の秘蔵仏あることを不思議に思い上人に霊夢を語り、献納されたました。
 時に当山五世妙乗院日亮上人 この尊像の霊夢を得て大衆に福寿を授けんことを誓い日舜上人より御尊像を拝受し永代当山に奉安し大衆帰依の道を開きました。
 一本松は天慶3年(940)、六孫王源経基公が承平の初め平将門の反逆を察し東征の帰路当地も来り一本松に衣冠を掛け休息せられし処より「一名冠の松」とも呼ばれ江戸名所の一つとなりました。
・三神具足とは御尊像のお姿が大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸をあらわして居られる処からたたえられることになりました。

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 七福神をめぐって、最後の宝船へ。麻布十番の豆源本店の横を通り、道路を渡ったところに、宝船を祀った十番稲荷神社(港区麻布十番1-4-6、03・3583・6250)がある。

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 都営大江戸線の麻布十番駅の入り口がすぐ右にある。こんなところに神社があるのかと思っていたが、この神社が宝船を祀っているのは知らなかった。16時15分。途中、食事もしたが、スタートしてから5時間弱かかった。

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 MINATOあらかるとによると、「七福神を乗せた宝船の石造は鳥居の左側にあり、右側には火傷、防火のお守りとして昔から伝えられる『ガマ池伝説』を物語るガマ親子の石像が置かれています」「古池から突如大ガマが現れ、水を吹きかけ猛火を消したという伝説から、火の災難から守ってくれるといわれていますが、最近では『若ガエル、幸せカエル、落し物カエル、何でもカエル』などのご利益が信じられ、親しまれています」。
 MINATOあらかると、書くことがないのか、七福神めぐりなのにガマのことばかり書いている。

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 こちらは神社と宝船にこだわろう。
 資料をいただいた。
十番稲荷神社御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(商売繁盛・生活守護)
日本武尊(やまとたけるのみこと)(武運長久)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たぎりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
(宗像三女神 学芸 芸能 美貌)

十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)御由緒
 十番稲荷神社は、もと末廣神社(旧坂下町鎮座)及び竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)である。昭和20年4月15日、空襲により両神社は焼失してしまったが、昭和25年6月 復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定された。その後両社は合併し十番稲荷神社と改称、平成9年3月29日に現社殿に建て替え、遷座祭が斎行された。

末廣神社(すえひろじんじゃ)御由緒
 慶長年間(1596~1615)に創建され、元禄4年(1691)には坂下東方雑式に鎮座していたが、同6年坂下町41の社域に遷座された。
 往古より境内に多数の柳があり「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して、扇の形を成していたことから「末廣の柳」と呼ばれるようになり、社名に冠され「末廣稲荷」と称された。その後、明治20年4月に「末廣神社」と改称された。

竹長稲荷神社(たけちょういなりじんじゃ)御由緒
 創建は一説に和銅5年(712)あるいは弘仁13年(822)に慈覚大師の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請したと伝えられている。延喜式内社の稗田神社と目される古社である。その後、弘安2年(1279)に鳥羽氏が社殿を再建、そして寛永元年(1624)3月に永坂町に遷座された。
 現存はしていないが社宝に広重作の宝船の絵があり、戦前は宝船の巡拝所としても有名であった。 
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 十番稲荷神社のホームページでは「港七福神めぐりの沿革」を説明していた。
 港七福神めぐりの沿革は、戦前の昭和8年発足の「麻布稲荷七福神詣」を始めとします。これは旧麻布区内の稲荷神社(境内社を含む)で構成されており、氏神(産土)様へのお参りの励行と、お稲荷様の現世利益の信仰、加えて市電とのタイアップによる地域振興を意図して発足したようです。その後、港区の観光協会の提案により、弁才天、大黒天をお祀りする寺院二ヶ寺を加えて、新しく「港七福神めぐり」がスタートしました。
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 宝船の石造は鳥居に向かって左側にある。神様たちの表情がいい。

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 十番稲荷神社と宝船(ホームページより)
 当社は港七福神の内、「宝船」のおやしろとして知られております。「宝船」を入れて合計8ヶ所巡拝するのが特色となっております。
 なぜ当社が「宝船」のおやしろとして、七福神めぐりの中に加わったのでしょうか?実は当社の前身である竹長稲荷神社(永坂町)が、戦前の麻布稲荷七福神めぐりの「宝船」としてメンバーに入っていたのです。因みにもう一つの前身、末広神社(坂下町)は相殿に宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)をお祀りしていたので、弁才天の巡拝所となっていました(末広神社の弁才天は、江戸時代の江戸百社弁天めぐりの一社として著名でした)。
 竹長稲荷神社には、古くより安藤広重筆の宝船の画像が伝来していたようで(戦災により焼失、現存せず)それに因んで麻布稲荷七福神めぐりの頃は、竹長稲荷をお参りして、木のミニチュアの船を求め、各社寺にて七福神の木彫像を集めて歩く形式であったようです。
 現在、お参りの方に押しております「宝船」の印影は、当時の竹長稲荷神社でお授けしていた御朱印のデザインをそのまま踏襲しております。

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 今日、めぐった順に振りかえる。弁財天。
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 恵比寿。
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 布袋尊。
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 福禄寿。
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 壽老神。
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 毘沙門天。
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 大黒天。

 七福神めぐりを終え、更科堀井に向かった。

 ※来週は日本橋七福神めぐりに行く。

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Pe'z magic(ペーズマジック、東京・六本木、ハンバーガー・サンドウィッチ)

 ファーストフード店よりはおしゃれだけれど、カジュアルに楽しめるハンバーガー、サンドウィッチの店、Pe'z magic(ペーズマジック、東京都港区六本木7-5-11 カサグランデ・ミワ1F、03・5775・5281)に行った。
 ランチタイム(11:00~14:00)だったので、バーガープレート(ハンバーガー、フレンチフライ、サラダ、ドリンクで980円)を頼んだ。
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 感じがよくておいしい店。それで十分なのかもしれないが、もう少し説明が必要な気がして、ホームページを見る。写真がとてもきれいで、紹介されているハンバーガーやサンドウィッチはどれもおいしそう。幸せな気分になる。
 「エコロジー、及び、一層の健康をテーマに、美味しいものを味わうだけでなく、今まで以上に安心・安全を心がけ」と書いているが、具体的に何をしているかは書いていない。
 説明不要、まずは食べてみて、ということなのかもしれない。
 京風寒天とろ~りひやしあずき(630円)、わらびもち(630円)、ところ天(580円)などの甘味メニューもあった。

 営業時間は11:00~21:00(L.O.20:30)。無休。

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港七福神めぐり~新旧のコントラストが面白い その1 宝珠院(弁財天)~熊野神社(恵比寿)~久国神社(布袋尊)~天祖神社(福禄寿)

 東京七福神めぐり、新宿山ノ手七福神めぐりに続く第二弾は、「港七福神めぐり」。ダイナミックに変わる港区の新しいビル街と、古い神社仏閣の対照的な光景が楽しみだ。

 まずは下調べ。港区の中小企業や観光情報に関するホームページ、「MINATOあらかると」に七福神めぐりを紹介するページがある。
 モデルルートは久国神社(布袋尊)→ 天祖神社(福禄寿)→櫻田神社(壽老神)→氷川神社(毘沙門天)→大法寺(大黒天)→十番稲荷神社(宝船)→熊野神社(恵比寿)→宝珠院(弁財天)。

 しかし、スタートは宝珠院と決めた。
 理由の一つは集合場所。何人かでこのコースを回る場合、集合場所が必要だ。宝珠院のすぐ近くにザ・プリンス パークタワー東京(東京都港区芝公園4-8-1、03・5400・1111)がある。1階のロビーラウンジが待ち合わせに最適だ。
 そして熊野神社→久国神社→ 天祖神社→櫻田神社→氷川神社→大法寺→十番稲荷神社の順に回る。
 宝船の神社は珍しい。七福神を参拝し、最後に宝船、というのが楽しいではないか。
 さらに、近くに行きたいお店もある。寛政元年(1789年)創業の更科堀井だ。現代と「江戸以前」を行き帰りした後、老舗の蕎麦を食べる。これはいい企画だ!
 行く前から盛り上がっている。

 ただ、回ってみた時に、「MINATOあらかると」の地図では寺や神社の正確な場所がよく分からず、不便だった。熊野神社でもらった地図(平成15年12月作成)が分かりやすいのでその画像を添付する。
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(地図をクリックすると大きな地図で見られます。印刷はA4横で)。

 それでは、港七福神めぐりスタート!

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 都営大江戸線赤羽橋駅下車。9時17分。
 東京タワーとザ・プリンス パークタワー東京が見える。
 ザ・プリンス パークタワーへ。

 1階のロビーラウンジでのんびり。
 ロビーラウンジで本などを読んでくつろいでいたら、2時間くらいたってしまった。(^^ゞ

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 さっそく外に出ると数分で宝珠院(港区芝公園4-8-55、03・3431・0987)に到着。11時21分。

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 MINATOあらかるとによると、「宝珠院は1685(貞亨2)年、増上寺三十世霊玄上人によって弁天堂の建立と同時に開創されました。公園を思わせる境内は、都心にいることを忘れさせてくれる増上寺周辺の木々に包まれ、中央には弁天池が広がり、散策の疲れを癒してくれます」「朱色の弁天堂のほか、高さ2mもある閻魔大王の木彫りの像(港区指定文化財)が収められた閻魔堂があり、宝珠院の縁日は「お閻魔さま」と呼ばれて親しまれていました」。

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 弁天様について説明があった。
 当院安置
 「開運出世辨才天」
 三井寺の開山智証大師が858年
 竹生島で奇縁に依り彫られその後
 源家に伝わり再興に当り頼朝公深く
 信仰し天下を平定される。
 又徳川家康公も厚く信仰され天下の
 平和を築かれ除波辨才天を改め開運
 出世辨才天と改称されました。古来より
 一心に崇敬拝する者に開運出世巳成金
 福壽円満厄難消滅縁結びの利益を
 授けられ現在港区七福神の一つに制定
 されている。
  各種祈願会・人生相談承ります。
  毎日朝10時より夕方5時まで 緊急は随時
  (予約制ご付き前もって当院寺務所にご連絡下さい)
 
 浄土院 宝珠院

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 『東京七福神めぐり』(東京街歩き委員会、生活人新書)に、より分かりやすい説明があった。少し長いが引用する。
 「住職の行方正明さんによれば、こちらの弁財天の歴史は清和天皇(858~76)の代にまでさかのぼる。三井寺の開山、智証大師が遣唐されて帰朝する際、大荒れだった海が突然凪ぎ、空には弁才天女が現れたという。帰朝後大師は、丹精込めてその尊像を彫刻し、「除波尊天」と名づけた。これが現在、宝珠院の厨子の中に安置されている弁財天だといわれる」「尊像は、貞純親王から源家、北条家に伝えられ、数人の上人の手を経たのち、西誉(せいよ)上人に授けられた。西誉上人は増上寺を建て、以後代々の上人が尊像を伝えてきたとつたえてきたという」「その後、増上寺と縁を結んだ徳川家康も尊像を篤く信仰し、江戸幕府の礎がかなったことから、これを『開運出世弁財天』と名づけた」「しかし、増上寺の中に安置されていては、一般人は直接参詣できない。そこで貞亨2年(1685)、増上寺の外に弁天堂を建立。同時に宝珠院が開創された」。
 
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 『東京七福神めぐり』によると、「千数百年の歴史をもつ弁財天はすでに真っ黒だという」。写真はご前像。
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 港区指定文化財の閻魔大王。
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 本堂。 
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 説明はなかったが、弁財天の化身「宇賀神」が巳(へび)の姿をしている関係で、へびの像があるのではないか。
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 お地蔵様を見ていると周りに東京タワーなどがあるのを忘れる。

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 東京タワーの横を通って桜田通りへ。
 次の熊野神社(港区麻布台2-2-14、03・3589・6008)までは、宝珠院から歩いて7、8分ということだったが、勘違いして飯倉交差点を右に曲がってしまい、時間がかかってしまった。

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 正解は飯倉交差点を左折し、麻布十番方向へちょっと行ったところ。12時15分。

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 MINATOあらかるとによると、「熊野神社は桜田通りの『土器坂(かわらげざか)』の途中にあり、この坂名は、かつて坂下に土器職人が住んでいたことから名付けられました」「東京タワーを見上げるように建っている鳥居をくぐって階段を上がると、右側に手水が流れ、さらに階段を上がった正面に本殿があります」「神社の勧請・縁起はとても古いのですが、1703(元禄16)年の火事で記録が焼失しわからないといわれています」。恵比寿神を祀っている。

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 『東京七福神めぐり』によると、「現在は本堂に合祀されている恵比寿神は、もともとは境内左手にある末社の太田稲荷神社に祀られていた。この社はその名のとおり、太田道灌の守護神で、勝手ヶ原で戦勝した際に鯛を供えて感謝したという。その故事により、人々が祈願成就に土製の鯛を供えるようになり、恵比寿神として信仰されるようになった」。

 飯倉交差点を飯倉片町交差点を経て、久国神社(布袋尊)へ。やや距離がある。警戒の厳重なロシア大使館や麻布郵便局の前を通る。

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 首都高速都心環状線沿いの道を六本木一丁目方向へ。クルマで走っているとあまり気づかないが、ここまで坂が本当に多い。行合坂もどんぶりのような坂。

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 高いビルが見えてくる。

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 アークヒルズ。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「アークヒルズは、東京都港区赤坂一丁目と同六本木一丁目にまたがって位置する複合施設である」「アークヒルズは森ビルが開発・設置し、管理を行っている。計画開始から20年近い歳月を経て、当時の民間による都市再開発事業としては最大級の規模の複合ビルとして1986年に完成した。赤坂=『A』kasakaと六本木=『R』oppongiのつなぎ目=『K』notに存在することから頭文字をとってARK Hillsと名付けられた」。主要施設はアーク森ビル(37階建のインテリジェントオフィス)、サントリーホール(パイプオルガンを擁する大ホールと小ホールで構成されるクラシック音楽専門ホール)、ANAインターコンチネンタルホテル東京(東京全日空ホテルとして1986年に開業。2006年にホテル運営を英国インターコンチネンタルホテルズグループと合弁化(IHG-ANA)し、2007年4月より現名称へリブランドした)など。
 久国神社は六本木通りの向こう側。歩道橋で渡るか、地下道を行くか迷ったが、アークヒルズの前から地下道を通って行くことにした。 

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 地下道。地下鉄の地下通路のような感じだが、地下鉄の駅とはつながっていない。

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 赤坂駅方面に行き、最初の道を左。

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 少し歩くと右手に久国神社(港区六本木 2-1-16、03・3583・2896)がある。「布袋尊」を祀っている。13時5分。

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 MINATOあらかるとによると、「太田道灌が鎌倉時代の名工久国作の宝剣を寄進したことで、『久国稲荷大明神』として崇敬されています」「階段を上ると狛犬が出迎えてくれ、小ぢんまりとした境内の右手に大きな石灯籠が二つあり、その奥に本殿が鎮座しています」。

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 この神社には親切な宮司さんがいて、いろいろ教えてくれた。
 「久國神社由緒記」もいただいた。それによると――。
 御祭神  倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
        古来より五穀を始め全ての食物や養蚕の「農業神」「福徳神」として、商売繁盛殖産興業の守り神で         す。

 御由緒
 当社の勧請は年月不祥ながら、古くは元千代田村紅葉(現皇居内)に鎮守されていましたが長禄3年(西暦1457年)太田道灌江戸城築城につき、寛正6年(西暦1465年)溜池に城隍(筆者注=城壁と壕)の鎮守として遷座され、のちに久國作の刀が寄進されましたので久國稲荷神社と称しました。
 永禄3年(西暦1560年)基地が公用に属しましたので寛保元年(西暦1741年)に当初に遷座されました。当時の溜池には神木の榎がありましたが現存していません。昭和2年(西暦1927年)10月25日久國神社と称するようになりました。

 例祭日  6月8日
 御社殿  
 明治7年(西暦1874年)8月の記録には、「先年青山辺ヨリ出火のミギリ類焼ニツキ仮営」とあり明治21年(西暦1888年)5月6日拝殿再建、大正11年(西暦1922年)6月本殿、拝殿、社務所を再建しましたが昭和20年(西暦1945年)5月25日の大空襲で御神輿庫、御水舎を除き全焼しました。
 昭和28年(西暦1953年)8月復興再建し現在に至っています。

七福神
 当社、町会の諸祭事、諸行事などにより氏子の方々始め皆様方に尊崇されております。
 港区七福神の一つ布袋様も合祀されており、港区観光協会主催の「七福神めぐり」が昭和34年(西暦1959年)から発足したのを始めとして毎年正月の初詣には参詣の人達で賑わっております。

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 正面拝殿の額は勝海舟の筆によるもの。

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 布袋様が祀られている。

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 笑顔の布袋様。

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 六本木ヒルズが見える。

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 アークヒルズも。

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 10円でひけるおみくじ。外国人の多い六本木とあっておみくじの裏は英語で記載されている。大吉は「 Excellent」、吉は「Very Good」と書かれているそうだ。
 この時ひいたおみくじは「末吉」で英語では「Good」だった。
  
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 もえ出ずる
 若葉の色ぞ
 美しき
 花さき
 実のる
 末もみえ
 つつ

 How beautiful the color of new-born leaves, very soon are the flowers coming out.

 次第次第に運がひらけて盛になります あまりに一足とびにとんで事をしようとするとあやまります
 時を見て心ながくのぞみを達しなさい
 
 By and by your fortune will be better. But go steadly,or you'll fail. Take your time and realize your wish with patience.

 願事 にわかに事をなさんとすれば災あり
■wish:Don't be irritated or you'll fail.
 待人 おそけれど来る
■expected visitor:He(or she) will come, but late.
 失物 出る 低い所
■missing thing:It can be found on a lower place.
 旅行 よろし さわりなし
■travel:No problem.
 商売 次第に上りて利
■business:It's getting better. You'll get profits.
 学問 早目に目標をたて全力を尽せ
■study:Set your target early. Do your best.
 相場 上がる気配あり
■speculation:It's likely to rise.
 争事 勝つとも損あり
■game and match:You win but you'll make a loss.
 恋愛 誠意を示すことが大切
■love:It's important to show your sincerity.
 転居 十分ならず
■removal:Put it off.
 出産 さわりなし 安産
■childbirth:No problem.  
 病気 弱気にならねば治る
■illness:Have a strong will, and you'll recover from it.
 縁談 叶うともおそし
     さわげば破れる
■marriage proposal:It will be arranged,but later. Be patient, or it will be broken.

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 歩道橋を使うとここにおりてくる。歩道橋を使う場合は右に曲がって最初の角を左。
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 東京ミッドタウンを経て、天祖神社(福禄寿)に向かう。
 『ウィキペディア』によると、「東京ミッドタウン(英称:Tokyo Midtown)は、三井不動産主体で東京都港区赤坂九丁目にあった旧防衛庁跡地の再開発計画により誕生した、複合施設及びその地域一帯である」「シンボルであるミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mと、東京都庁舎第一庁舎をも追い抜き、都内で最も高い超高層ビルである。日本全体で見ると、横浜ランドマークタワー(296m)、大阪ワールドトレードセンタービルディング(256m)、りんくうゲートタワービル(256m)に次ぐ四番目の高さ」「注目すべき施設としてはミッドタウン・タワー最上層に位置しているホテル「ザ・リッツ・カールトン東京」や「サントリー美術館」の移転、米国の医療グループと提携したクリニックや、テレンス・コンランの「コンラン」ブランドによるレストランなどが挙げられる」

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 国立新美術館への近道を行くと――。

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 右手に天祖神社(港区六本木7-7-7、03・3408・5898)がある。福禄寿を祀っている。14時ちょうど。

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 MINATOあらかるとによると、「『竜土神明宮 天祖神社』と書かれた大きな石柱を通り過ぎ、小さな鳥居をくぐって階段を上ると正面に本殿があります。右には赤い鳥居が三重にたてられ、お稲荷様が祀られています。竜土神明宮とは、創建当時、毎夜のように江戸湾から竜が灯明(とうみょう)をあげに飛んで来たという伝説から、『竜灯(りゅうどう)』に由来するといわれています」。

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 右側の稲荷に福(幸福)、禄(俸禄)、寿(長寿)の三徳を授けるといわれる「福禄寿」が祀られている。

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 この神社でも資料をいただいた。
 天祖神社(龍土神明宮)御由緒
 この天祖神社(龍土神明宮)(てんそじんじゃ・りゅうどしんめいぐう)の御祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)で、今から、約600年前、南北朝の後小松天皇の御代、至徳元年(西暦1386年)8月16日に、芝西久保、飯倉城山(現在のホテルオークラの南側付近)に、はじめて祀られたと伝えられています。
 このお宮に、品川沖から毎夜竜が御灯明を献じたということで、この地を、竜灯山(りゅうどうやま)と呼ばれたと言われています。有名な太田道灌が方五丁の祭田を寄進し、神社の社殿を再建し信仰したことも伝えられています。
 元和の時代、徳川二代将軍秀忠の時に江戸城郭改築の際に社寺の移転があって現在の地に移り、この地一帯を龍灯(りゅうどう)からとって、龍土村と唱えるようになり神社の名前も「龍土神明宮」と称えられ、氏子の町々も龍土六本木、龍土材木町と呼ばれ開けてきました。

 以来代々の将軍家より尊崇篤く、この近くの諸大名わけては肥前蓮池の鍋島藩・宇和島藩(旧麻布三連隊、現ナショナルギャラリー)・毛利大膳太夫の長州藩(旧一連隊、元防衛庁)、幕府の諸役人などの信仰篤く「東都歳時記」の9月21日の条には「龍土神明宮祭」と記されているほどです。江戸三ヶ所の神明又は東都大神宮十八社の一つに数えられており、文・武・官の神様として広く信仰を集めております。
 不幸にして、青山火事に社殿は類焼しました。その後瓦葺き権現造(ごんげんづくり)の社殿、神楽殿などが再興され、明治42年の大修理を経て、威容を誇りましたが、昭和20年戦災にて、手水舎のみを残して、烏有に帰しました。
 しかしながら、境内の石造りのものに江戸を偲ぶよすがの記録が残り、往時の歴史を物語っています。
 現在の御社殿は、昭和32年に神明造(しんめいづくり)として再建されたもので、その木肌の美しさ、簡素にして厳(いが)しい姿は、日本の伝統の象徴ともいえましょう。

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 満福稲荷・福禄寿(港七福神の一)
 境内にある満福稲荷社は、従前、孫太郎稲荷と称えられましたが、近隣の稲荷社を合祀して、満福稲荷となりました。本社の文・武・官に対して、商売・事業の神様として、往古から商業・飲食業・ご婦人方の信仰篤く、霊験効(あらた)かな「お稲荷さま」として親しまれて御参詣の方の後が絶えません。
 この満福稲荷社に、七福神の一はしら福禄寿神をお祀りしてあります。
 福禄寿神は南極星に擬せられ、道標(みちしるべ)の神として、人の生きる道・事業・学業の道を教える神様として仰がれています。又、福禄寿神は泰山府君(たいざんふくん・泰山の神)と一体で、人の一生の福(しあわせ)、禄(おかね)、寿(いのち)を司る神様です。幸福・商売繁盛・子宝・病気平癒を祈願します。
 福禄寿神は、老翁のお姿で杖と巻物を持ち、鶴に乗り、国境を越え、自由自在に世界を飛び回り、道を教える「鶴上の仙人(かくじょうのせんにん)」です。このお姿にあやかって、海外旅行・留学の安全をお守り下さる神様としても信仰されています。

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 「海外旅行・留学の安全をお守り下さる神様としても信仰されている」というのは現代的だ。大使館の多い港区には必要な神様かもしれない。

 MINATOあらかるとによると、「港七福神めぐりは、 7つの福の神様を祀る神社、寺院に、宝船の巡拝所を加えた六社・二寺の8カ所をめぐるのが特徴。すべてを歩いてめぐると3時間ほどかかりますが(約6km)、六本木や麻布界隈の街並み散策も兼ね、半日かけてゆっくりと歩いてみませんか」と七福神めぐりを紹介しているが、4ヵ所で3時間近くかかってしまった。ゆっくり歩くと半日かかる。おなかがすいたので軽く昼食をとった。

        ◇           ◇           ◇

 ここで、今日回ったところの関連知識を――。
 『江戸散歩・東京散歩』(成美堂出版)によると、「赤坂見附から虎ノ門一体の外堀通りには、外濠を広げて溜池が造られた。江戸市民の貴重な上水源だったが、明治期には埋め立てられ、今は地名が残るのみ」「赤坂・六本木・麻布一帯は、坂の多い起伏に富んだ地域。高台の大名屋敷が町を見下ろし、傾斜地に小士邸、低地には町人たちが住んだ。今も残る大きな区画割りは、大名屋敷の広大な敷地の名残だ。多くの著名人が眠る青山霊園は、青山の地名の由来となった青山家の下屋敷跡。話題の最新スポット六本木ヒルズは、毛利家の上屋敷跡だ」。

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ザ・プリンス パークタワー東京(東京・芝公園)ロビーラウンジ

 ザ・プリンス パークタワー東京(東京都港区芝公園4-8-1、03・5400・1111)のロビーラウンジに行った。

 ゆったりとした椅子、テーブル。とても気持ちの良い空間だった。
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 日本紅茶協会『おいしい紅茶の店』認定店。
 モーニングセット(9:00~11:00a.m.)を頼んだ。自家製パン3種類とコーヒーまたは紅茶のセットで1500円。
 紅茶を選んだがレモンティーと言うと「それならばスタンダードなセイロンがいいです」と勧めてくれた。
 パンはバター、イチゴジャム、マーマレードが付くが、イチゴジャム、マーマレードは小瓶入り。貧乏症で残すのがもったいなく、パンにふんだんに付けて食べた。ポットも3杯くらい飲める。パンはおかわりもできたし・・・。なんでこんなに卑しいのだろう。(^^ゞ

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 東京タワーがきれい。
 ホテルでくつろぐのはいい気分。長い時間過ごしてしまった。
 主なメニューは次の通り。
 紅茶
 イングリッシュティー
 ダージリン、アッサム、ウバ、セイロン、キーマン各1200円 ロイヤルミルクティー1300円。
 フレーバー&ハーブティー
 アールグレイ、アップルティー、アプリコットティー、カモミール 1200円

 アイスティー
 アイスティー1200円

 コーヒー
 ロビーラウンジ オリジナル ブレンド コーヒー、アメリカンコーヒー、アイスコーヒー、エスプレッソコーヒー 各1200円
 カフェオレ(ホットまたはアイス)、カプチーノ 各1300円

 ホットチョコレート(ココア)
 ギラデーリ 1200円 
 
 日本茶
 玉露 和菓子添え 1300円

 ミネラルウォーター
 ペリエ、サンペレグリノ、エヴィアン、アクア パンナ 各800円


 自家製ケーキ
 10:00a.m.~9:30p.m.(L.O.)
 わらび餅入り竹炭ロール 490円
 苺のショートケーキ 550円
 利平栗と安納芋のモンブラン 770円
 100%ショコラ 550円
 ポルト・ボヌール 570円

 ドリンクセット 全品プラス1000円
 コーヒー(ブレンド、アメリカン、アイスコーヒー)
 紅茶(セイロン・アイスティー)

 アフタヌーンティーセット
 12:00noon~5:00p.m.
 アフタヌーンティーセット
 お好きな紅茶を一品とスコーン、ダンドウィッチ、フィンガータルト、生ケーキ、焼き菓子のセット 2800円

 今月おすすめのお飲み物
 ホワイトチョコレート ロイヤルミルクティー 1200円

 カフェモカ ミント風味 1200円

 アイスクリーム・シャーベット
 アイスクリーム(バニラ・ミントチョコレート・マカダミアナッツ)
 シャーベット(巨峰・林檎) 各種1100円

 ソフトドリンク
 100% オレンジ ジュース、100%グレープフルーツ ジュース 各1200円
 クランベリー ジュース 1000円
 トマト ジュース、コーラ、コカコーラ ゼロ、ジンジャー エール 各900円

 ビール
 生ビール
 生ビール(アサヒスーパードライ)、黒生ビール、ハーフ&ハーフ 各1200円
 
 瓶ビール
 国産ビール(キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー) 1200円
 
 低アルコールビール(アルコール分0.5%未満)
 レーベンブロイ ローアルコール 1200円

 ワイン
 シャンパーニュ
 ルイロデレール ブリュットプルミエ 1900円
 
 白ワイン
 マウントネルソン ソービニヨン ブラン 1300円

 赤ワイン
 シャトー オー ベルナ 1300円

 ウイスキー
 プリンス スカッチ 18年 1500円
 グレンフィディック 12年 1400円
 ジャック ダニエルズ シングル バレル 1700円

 カクテル
 ジントニック 1500円
 カンパリ ソーダ 1500円
 キール 1500円
 ミモザ 1800円
 
 お食事
 サンドウィッチ
 コールドビーフと野菜のサンドウィッチ 1700円
 スモークサーモンとレッドオニオンのサンドウィッチ(胚芽パン使用) 2000円
 アメリカン クラブハウス サンドウィッチ 2000円
 国産牛フィレステーキサンドウィッチ 3000円

 パスタ・ライス
 11:00a.m.からのご用意となります。
 ナスとモッツァレラチーズのトマトクリーム スパゲッティー
 (ミートソース スパゲッティー) 1700円
 きのことベーコンのクリームスパゲッティー 1700円
 魚介類のトマトソース スパゲッティー 2000円
 オージービーフ入りカルボナーラ風リゾット(半熟玉子のせ) 2200円
 小海老のピラフ(野菜のブイヨン スープ付き) 2000円

  サラダ・スープ
 コンビネーション サラダ(和風またはフレンチドレッシング) 1200円
 パルマ産生ハムとシーザーサラダ 1800円
 野菜のブイヨン スープ(カップスタイル) 800円

 ※料金にはサービス料・消費税が含まれております。

 営業時間は9:00a.m.~10:00p.m.(ラストオーダー 9:30p.m.)。

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河内孝著『次に来るメディアは何か』(ちくま新書)

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次に来るメディアは何か

 河内孝(かわち・たかし)著『次に来るメディアは何か』(ちくま新書、2010年1月10日発行)を読んだ。
 「今、『ニュース・コンテンツを供給する』側の既存メディアと、インターネット上で情報を集積し配給するグーグル、ヤフーなどアグリゲイターとの利害対立が、急速に高まっている・・・既存のメディア産業はコーナーに追い詰められ、従来のやり方では生き残れなくなっている」。こうした状況の中、日本のメディアが生き残るための手段として、河内氏は、「メディアコングロマリット化」という方向性を提示する。

 西正著『2011年、メディア再編―地デジでメディアはどう変わるのか』(アスキー新書、2007年7月25日)、境真良著『テレビ進化論―映像ビジネス覇権のゆくえ』(講談社現代新書、2008年4月20日)、猪熊建夫著『新聞・TVが消える日』(集英社新書、2009年2月22日)、佐々木俊尚著『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年7月20日)。テレビ、新聞などの近未来を論じるマスメディア論は、だんだん「再編、進化」から「消滅」へと、絶望的な論調になってくるが、河内氏の著書は「メディアコングロマリット化」という極めて現実的な近未来のメディアのあり様を示した点で刺激的だった。
 
 第一章「アメリカ新聞界のカタストロフ」では、はじめに、アメリカ新聞界の苦境と、新聞産業を救済しようという動きを伝える。そして、ニューズ・コーポレーションを率いるルパード・マードックの決断を紹介する。
 「数年かけて新聞紙から撤退して、電子版に移行する。その前提としてインターネット・アグリゲイター、消費者へのニュース提供を有料にする。ニュース・ビジネスをデジタルに特化しても、きちんとした利益が挙げられるような体質にする」というものだ。
 しかし、「WSJの有料化の成功は一般化できない。同紙の経済・金融に特化した内容もさることながら、100万人と言われる契約者の多くが金融ビジネス関係者で、会社が費用を負担している」という分析もあり、電子版、有料課金が新聞業界全体を救う解決策とは見られていないようだ。

 本書は、デジタル時代に合わせてニュージャーナリズムが誕生しつつある状況も紹介する。しかし、こうした事例が出てくる背景には、人件費の安さと新しいビジネスを育てようとする投資家集団の存在がある、と河内氏は指摘する。だから、ニュージャーナリズムがすぐに日本にも生まれるということには必ずしもならないということだ。

 第二章「化石のような日本メディア界」では、日本のメディア界を変えるきっかけとなる動きに焦点を当てる。地上波テレビのデジタル化と情報通信法の施行などだ。

 「まず地上波のデジタル化によって、日本に割り当てられた電波の中で、一番使い勝手のよいVHF帯を使っている地上波テレビ放送局を、UHF帯に引っ越しをさせる。そのあと空いた周波数を使って、携帯電話の移動体通信や、さまざまな『テレビジョン以外の放送』を行えるようにする」。道路に衝突防止の仕組みやさまざまな情報流通網を築くITS(次世代道路交通システム)、発電所、事業所、家庭の間をインターネットで結び、効率的な給配電調整を行う「スマートグリッド計画」、先端医療機関と全国の病院をつなぐ「E−医療システム」。学校、研究施設をつなぐ「E−教育システム」などだ。
 「これらの計画がすべて実現した場合、電機、情報、通信メーカーを中心とした産業需要は、5年間で200兆円に達するという」。テレビ放送の引っ越しによって、これだけの産業効果が生み出される。
 そして、「世界市場に挑戦しない、『ぬるま湯』につかったままのテレビ、映画などコンテンツ・ソフト制作業界に刺激を与えて、積極的にコンテンツ・ソフト制作に打って出るよう促す。そのための武器(ムチ)が検討中の『情報通信法』」だというのだ。

 情報通信法は「放送法、電波法、電気通信事業法というふうに9本もの法律で縦割りに規定してきた法体系を、コンテンツの制作、番組編成やネットワークなどの伝送サービス、送信設備、電話回線などの伝送設備(インフラ)というふうに、横割りにして機能別(レイヤー別)に法体系を組み替えてみよう」というもので、「法案が成立すれば、いずれメディアの世界には通信キャリアー、商社、金融機関、電機メーカーなどが参入してくるであろう」と河内氏はみる。そして、「彼らが資本・人材・技術を提供し、放送・出版・映画・新聞社などが持つノウハウを組み合わせて相乗効果を目指す、産業複合体(メディア・コングロマリット)が生まれるだろう」と予測する。

 この議論を深める前に、第三章「メディアコングロマリットの光と影」でアメリカのメディア・コングロマリットの歩みをフォローする。
 河内氏はアメリカの先例から日本が学ぶべきこととして、「子会社間で共通する管理部門の一元化など、非情なまでの合理化の徹底」、「一つのコンテンツをシームレスに拡大再生産していく『ワンコンテンツ、マルチユース』の戦略設定のノウハウ」、そして、「グローバル展開能力」を挙げる。
 ただ、メディア・コングロマリットがあまりにも多分野に拡散し、弊害も目立ち始めたため、今後はメディア機能の合理的統合に特化した「メディア・インテグレーター」が主流になるという見方を河内氏は示す。

 クライマックスが第四章「“次に来る”メディア産業図」だ。
 欧米のメディア・コングロマリットを相手にしたメディア戦争に勝ち抜くためにはまず必要なのが「戦略的なコンテンツ制作」。「コンテンツが世界市場に通用する魅力を持っているかどうかを把握する情報収集能力、とぎすまされた感性、さらにそれを売りまくるプロモーション能力が決め手になる」という。その意味で、「国際舞台で闘ってきたメーカー、金融、商社の資本と人材が入ってくるメディア・コングロマリット化は日本のソフトパワー戦略上、有効に機能するだろう」。
 第二に必要なのが、「およそ先端産業とは思えぬメディア産業界の前近代的な体質を改善すること」だ。

 メディアはどう再編されるか。
 具体名が出ていて生々しい近未来予測。でも、全くの絵空事とも思えない。
 メディア・コングロマリットの一角に、製作プロダクション、芸能プロといわれる下請け制作会社から発展したグループが食い込むという予想が一番面白かった。

 インターネットという社会を変える新しい通信技術と、100年に一度といわれる不況を背景にして、メディアの再編は不可避なのかもしれない。また、そうしたシナリオが描けない限り、マスメディア業界が国際舞台に躍り出ることもないのだろう。

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出井伸之著『日本大転換~あなたから変わるこれからの10年』(幻冬舎)

Nihondaitenkan
日本大転換―あなたから変わるこれからの10年

 ソニー元会長の出井伸之氏が著した『日本大転換~あなたから変わるこれからの10年』(幻冬舎、2009年9月20日発行)を読んだ。出井氏は「はじめに」で、「現在は、20世紀を支配した産業構造が限界を迎え、21世紀型産業構造の創出が始まりつつある“時代の変革期”だ。私たちはこれまでの秩序、産業構造をリセットして、未来に向けたビジョンを再定義しなければならない」と訴える。
 出井氏の時代認識は基本的に、『100年デフレ~21世紀はバブル多発型物価下落の時代』(日経ビジネス人文庫)を著した水野和夫氏と変わらないようだが、クオンタムリープ(「非連続の飛躍」という意味)という企業を興すなど、「だから、何をしなければならない」という部分が具体的で面白かった。本書の提案はまさに、われわれ日本人がすぐに取り組まなければならないテーマだろう。

 出井氏は日本の金融界・産業界の遅れを危惧する。
 「90年代初めからのバブル崩壊で、日本の金融産業は一気に内向きになり、アメリカとイギリスを中心に世界の先進諸国が金融資本主義の果実をむさぼる間、日本は『失われた10年』を過ごすことになる」「IT革命に続く世界の流れにも完全に後れを取った」「世界が好況に沸くのを尻目に、長期にわたって日本は『負け』を味わうことになり、2000年代の日本は先行きの見えない不況の中を迷走することになった」「大量生産型の産業資本主義が骨の髄まで染み付いた日本の企業は、なかなか発想を切り替えることができなかった。欧米向けの自動車や電化製品をつくる先進国輸出型産業をひたすら続け、手をこまねいているうちに金融資本主義そのものがクラッシュした、というのが今ある状況だ」。

 アメリカの複数の投資ファンドの「日本には投資のチャンスがない」との声を紹介、日本は「要らない国」になりつつある、と指摘する。しかし、出井氏は、日本には、まだ、「アジアに貢献してゆく」道があるという。
 
 出井氏は、「日本がアジアとともに発展していくためには、越えるべき課題がどういうもので、また実際にそれをどうやって越えていけばいいのか、腰を据えて考えていかなければならない」として、課題を挙げる。

 第一が、アジアの絶対的貧困である。
 「アジアに決定的に不足しているのは、人間生活を支える基盤。・・・日本がアジアに対して最も貢献できるとすれば、このインフラ整備という分野ではないか」「インフラといっても、・・・20世紀型の都市基盤ではない。安価で能率のいい新興地域や農村地域にも対応できるインフラである」。

 第二が、地球温暖化問題である。
 「CO2の排出量を日本の高度な技術力、システム統合力で可能な限り抑えていく」「具体的には、・・・太陽エネルギー、風力・水力エネルギー、あるいはバイオマスや地熱、海洋温度差を利用した次世代エネルギーを創出する」「それをアジアにまだまだ多く残る無電化地域に利用していく。循環型社会実現のシミュレーションとして、自然を生かした代替エネルギーによる村・街づくりを具体化する」。

 そして、「今後、50年の環境変化に耐えうる実験都市を建造し、21世紀型都市モデルとして内外に打ち出していく」ことを提言する。「要するに、循環都市として機能していた江戸の21世紀バージョンをつくるということだ」。
 構想はどんどん膨らむ。
 「まずメインプロジェクトとして、東京をはじめ全国の主要10地域に、・・・環境配慮型のモデル都市をつくる。さらに、コミュニティ・プロジェクトとして、地域別にその土地土地の特色を生かしたユニークな街をそれぞれ10つくる。たとえば、高齢者向け仕様にデザインすれば、高齢者対策につながる」。

 出井氏はグローバル展開に必要なのはローカル性だという。「ローカルな閉鎖域で醸造された独自の文化は、世界に躍り出たときに、逆に普遍的な価値を有する」として、日本の江戸時代を「『閉鎖性』の強みを国家レベルで発揮した好例」として挙げる。「3000万人の人口で自給自足体制を成立させていた江戸から私たちが学ぶべきことは少なくない」。
 「『内側を見直す』といっても、それはこれまで日本が取ってきた内だけを見て外を見ないという視野狭窄の態度とは根本的に違う。グローバルに変わる世界を意識しながら、これまで目を向けなかった方向に視点をシフトするということだ」「危機の時代、日本の答えは、もしかすると『後ろ』にあるのかもしれない。前だけを見て必死に走ってきた日本は立ち止まって、自ら歩んできた道を振り返ってみる必要がある」。
 グローバル化が必要な時代だからこそ、没個性にならぬよう、内側や後ろを見ることが必要なのかもしれない。

 出井氏のツイッター論が面白い。「個人個人の意見はバラバラだったり、凡庸だったりしても、それがあるマスを形成したときに、一つの穏やかな思潮をなすようになる」「私たちに問われているのは、情報が急速度で拡散していく中で、逆にそうした情報をいかにして求心力に変え、新しい構造、次なる秩序を作り出すか、ということになる」「ツイッターに見られる現象が『エンドユーザーズ・イノベーション』、すなわち利用者が起こす技術革新だ」「アメリカはグーグルやユーチューブ、アイフォーン、ツイッターを次々に世に送り出し、エンドユーザーズ・イノベーションの環境を提供してきた」。
 
 出井氏は問う。「たとえば今、同じお金をかけてつくる商品として、1000万台のテレビと、25本の映画なら、どちらを選ぶべきだろうか」。

 「日本の企業はこれまで1000万台のテレビの方を選んできた。20世紀はそれが正解だった。しかし、現代の経済システムの中では、25本の映画を選択する方が正解だ」「数本のヒットが出れば、地球の人口の半分に当たる30億人が見るだろう。映画の波及力は、テレビ1000万台に勝るのだ。さらにユーチューブの世界となれば飛躍的な波及力を持つだろう」。
 ユーチューブの時代には「コンテンツをつくる力は、若い世代からどんどん現れるだろう。そうした流れを利用しながら、さまざまな付加価値をつくることができる。ベンチャー企業にとっても、グローバル企業にとっても大きなチャンスである」。

 “江戸の復権”、“グローカル”、”エンドユーザーズ・イノベーション”。21世紀型産業構造のキーワードが印象的だった。

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上州七福神めぐり~クルマで7つのお寺を回る・その3 興禅寺(弁財天)~長松寺(寿老人)~柳沢寺(毘沙門天)

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 15時ちょうどに弁天様を祀る興禅寺(こうぜんじ、渋川市赤城町三原田545)に到着。ここも七福神が勢ぞろいしていた

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 説明書きによると――。
 総本山   比叡山   延暦寺
 高祖    天台大師  智顗
 宗祖    伝教大師  最澄
 立教開宗 桓武天皇  延暦25年(平安時代の初期) 
 
 本尊 法華経に説かれている久遠実成の釈迦如来とすべての諸佛・諸菩薩等は同類一体である。
     よって、それぞれの縁に随って奉安敬信する。

 教義 法華経に述べられている一乗真実の教説を根本として、密教・禅法・念佛等をその実戦門とする。
 
 経典 法華経に示されている諸法実相の立場を基本として、ひろく大乗経典を讃仰・読誦する。

 当山本尊 釈迦牟尼如来

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 時間も遅く人影なし。

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 このお寺でもお願いをして参観できた。
 中央が弁天様。こちらから見て左が毘沙門天。右が不動明王。
 
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 七福神唯一の女神である弁天様。インド三美神のひとりで、水・大河の神。水の流れは音楽、話術にたとえられ、音楽・弁舌(知恵)の神様として親しまれている。日本に伝えられてから「弁才天」が「弁財天」となったと言うが、「弁才天」に戻したほうがいいのでは?

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 さらにアップで。

 20分ほどで寿老人を祀る長松寺(ちょうしょうじ、北群馬郡吉岡町大字漆原1284)へ。15時29分。
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 西隣にある「矢落ち観音(ざる観音)」がむしろ有名かもしれないが、長松寺は寿老人を祀っている。
 山門の前には石像の金剛力士像。
 
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 このお寺も留守かと思ったが、諦めかけたところにお寺の家族の方が帰ってきて、参観できた。

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 長い白鬚に杖、玄鹿(中国では二千年鹿のことをいい、長命の象徴)を伴う姿が有名。長寿を授ける神様。

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 アップで。

 いよいよ最後の七福神。毘沙門天を祀る柳沢寺(りゅうたくじ、北群馬郡榛東村山子田2535)へ。
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 15分ほどかかり、15時54分に到着。後で分かったのだが16時で参観は終わりだったという。滑りこみセーフ(汗)。

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 立派なお寺だ。ホームページもあった。
 それによると――。
 この寺の成立について最も古い記録は、今より800余年前に成立した「神道集」の「上野国桃井郷上村八ヶ権現の事」と言う、一章の記載です。
 更に、200年経過した中世末に「船尾山縁起」が成立しました。そこには、この寺の縁起として、次のような伝説が書かれています。
 天台宗宗祖傳教大師の東国順境のみぎり、この地に住む群馬の太夫満行と言うものが大師の徳を慕って、榛名山中の船尾の峰に、妙見院息災寺と言う巨刹を創建し、大師を請じて開山しました。
 本尊千手観音をお祭りし、子授け観音として有名になりました。
 その後、子供に恵まれない事を憂いていた千葉常将という武将が、霊験あらたかといわれた船尾山の観音様に願を掛けたところ、一子相満若が産まれました。
 常将は喜び、子供を船尾山に預け養育しました。やがて相満は立派な若者に成長しました。
 ある時、榛名山に住む天狗が相満に恋慕し、祭礼の日にさらってしまいました。
  父、常将は、寺側が立派な若君を手放すのを惜しんで隠したものとして怒り、手勢を連れて、寺に抗議に押し掛けました。寺側との行き違いから争いとなり、全山消失してしまったそうです。

 その後、天狗が現れ、子供を預かった事を伝えたので、常将は思い違いから寺を焼いた事を悔いて、郎党と共に自害しました。
 常将の妻は、夫や一族を弔うため、現在の柳沢寺の地に寺を再建しました。
 それから後を追って、池に身を投げて死んだと言う事です。

 神道集の説話と、船尾山縁起のそれとは、違っていますが、昔、榛名山中に大寺院があり、それが消失したと言う、土着の古伝説を基盤に、榛名東麓の農村社会と関係の深い相馬岳信仰と結びついて語り伝えられたこの伝説の中には、小地名の起源説話が、多く目に付き、地方農村への唱導文芸の流入事情などが伺えて興味深いものがあります。


 天台宗に所属し、延暦寺の直末の寺として、中世には、学僧も多く出現したといいます。
 戦国時代末、北条、上杉、武田の争覇の戦場となり、全ての堂宇を消失しました。
 江戸時代に入り、天海僧正、高崎城主 安藤右京進などの尽力により、朱印地三十石を賜り、再建に着手。 貞享元禄に至り諸堂の修復を見ました。
 現在、境内地約3万平方米。戦後、参道の巨木の並木も伐られましたが、まだ残る杉木立は、その中に散在する諸道に色を添えています。
 諸堂並びに庫裡は、大正元年~7年にかけて大修理がなされ、茅葺きより瓦葺きに改められましたが、破損著しく、昭和55年より、2年にわたり、大修理がなされました。

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 奥の厨子にあるのが本体らしいが、手前の像も立派だ。

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 甲冑を身に付け、宝塔を捧げ、槍を持つ。仏に帰依してからは『須弥山』を守る四天王の中でも最強の神となった。
 お釈迦様の道場でいつも説法を聞いていたことから多聞天とも呼ばれ知恵の神様としても祀られている。
 日本では戦勝祈願、国土守護の軍神として武将たちの信仰を集めた。

 無事、上州七福神めぐりを完了。伊香保温泉に向かった。

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上州七福神めぐり~クルマで7つのお寺を回る・その2 正円寺(福禄寿)~珊瑚寺(恵比寿)

 下仁田から前橋まで高速で一気に移動した。
 前橋市の正円寺(しょうえんじ)から榛東村の柳沢寺(りゅうたくじ)までは情報をカーナビにすべて入れた。どのお寺もカーナビがないと、とても行けないような場所にある。

 北関東自動車道駒形ICをおりて、正円寺(前橋市堀之下町155)に向かった。近づいてから狭い道に入るが、すぐには見つからない。
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 行きすぎて戻ったりして、ようやく見つけた。狭い車道から脇道に入った奥に正円寺はあった。13時44分。

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 説明書きによると――。
 正圓寺
 名称 山号 施無畏山 「無畏を施す」即ち、心に安らぎを与えることを本誓とする「聖観音」を本尊とすることに由来する
 院号 延命院 「子安延命地蔵尊」を古代本尊とすることに由来する。
 寺号 正圓寺
 本尊 聖観世音菩薩 地蔵菩薩(古代本尊)
 霊場 上州七福神(福禄寿尊天) 新上州観音(第32番)
 古墳 寺域北の小山は「前方後円墳」で、全長約65メートル、高さ約7メートル。竪穴式石槨と横穴式石室が確認されている。6世紀中頃の築造と推考され、幕末直前頃に盗掘されたらしく、副葬品は皆無であった。遺骨5体が確認されたことから「五霊大明神」とも呼ばれたこともあり、明治維新後は神社として扱われた。古墳頂上の後円墳のみ(約80坪)は寺の管理を離れ、大胡神社所有となった。
 花木 五尺藤(1本)明治初期からの古木、枝は約50平方メートルの棚に伸び、垂れ下がる花の長さは過去160センチメートルを超えたことがある。
 ぼたん藤(1本) だるま藤(約20本) 椿(約30銘柄) 桜 約40本のソメイヨシノ(群馬緑の百選に選ばれた)
 「萩の門」
 当時の山門は棟木が萩の木と考えられ、「萩の門」の名がある。
 古来、上泉町以東は大胡城の所領時代が長く、また正圓寺も大胡城の鬼門に当たる応昌寺の末寺で、大胡城との関係は深い。
 大胡城は廃城となった後、前橋藩のものとなり、建物は取り壊されたり移築された。その北門(裏門)が正圓寺に移されたとされている。
 この様な門の型は「薬医門」と言われ、室町時代初期の建造と推定される。平成9年に大改修を行った。

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 お地蔵様。首のないものも。

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 もうひと組のお地蔵様。

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 静かな境内。

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 宝船。

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 福禄寿は福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(健康長寿)の三徳が揃ってこそ人は幸せという古代中国の道教が起源の福の神。

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 もう少し近づいて。

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 さらに近づいて。この像は自慢の髭に触っているが、ポーズはいろいろあるようだ。

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 北へ向かう。赤城大鳥居を過ぎて、最近まで富士見村石井1227だった前橋市富士見町石井1227の珊瑚寺(さんごじ)へ。

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 14時27分、珊瑚寺に到着。
 寺にあった説明書きによると、古くは石井山三光院三錮寺と言い、大同2年(807年)=別の場所には大同元年(806年)と言う説明もあった(筆者注)=日光山を開いた勝道上人によって開創された。その後約400年近い間無住寺で荒れ果てていたが、正治年間(鎌倉初期)になって、梶原影時の一族(影時の女と伝えられる)が尼僧になり、勝道上人の旧地を慕い、源頼朝及び梶原影時父子の霊を慰めるためにここに移り住んだ。以来、約240年間尼僧がここを住寺していたので、尼寺として広く知られるようになった。
 永享年間の末の頃に、八崎城主の長尾影仲が、子持村の雙林寺を開創した月江上人を伴い遊化した折り、当時尼寺として知られていた古跡寺であることを知り、私財を投じて諸堂を再建した。その後、上人の門徒が相続をし、およそ30年間にわたって禅門の風(禅宗)を唱えたが、これらの僧はいずれも他の寺に移り、再び無住寺となって荒れ果ててしまった。
 文明年間(1469~1486年)になって義貫和尚(27世)が天台宗に改め寺名も珊瑚寺とし、現在に至っている。
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 ここもお寺にお願いして、恵比寿様を拝ませてもらった。
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 各お寺では焼香の準備をしてくれた。線香で行う場合と抹香で行う場合があったが、仏様とのコミュニケーションを取る方法として一般的なのだろうか。葬儀や亡くなられた方の仏壇の前でしかしか焼香はしたことがないもので…。
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 七福神の中で唯一日本の神様が恵比寿様。もともとは漁師の神様。後に庶民の間で豊作の神、福の神として信仰されるようになった。網を使って一気に漁をするのではなく、つり竿を持ち鯛を抱える姿は、暴利をむさぼることのない清い心を表しているとも言われる。

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 このお寺はかつて七福神すべてを祀っているともされたという。

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 そのためか、池には七福神が勢ぞろいしていた。

 前橋市の2つのお寺をめぐり、残る七福神めぐりのお寺は3つに。

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おかた茶屋(群馬県下仁田町、郷土料理・土産物)

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 昼食は国道254号線沿いの「おかた茶屋(群馬県甘楽郡下仁田町大字東野牧2641-1、0274・84・2646)でとった。
 

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 下仁田町(しもにたまち)は、下仁田ネギとこんにゃくが特産品。
 下仁田町のホームページに、「下仁田町でなぜこんにゃくが盛んに栽培されるようになったのでしょうか?」と名産地になった理由を紹介している。

下仁田町は山間の河川に沿って集落が点在し、畑も山の斜面地を利用した段々畑が多いのです。
・・・そこで・・・
【その1】
こんにゃくは強い日差しを嫌います。(山間で日照時間が短い下仁田にピッタリ)

【その2】
こんにゃくは排水の良い所を好みます(下仁田の畑は山の斜面なので水はけが良すぎるくらい)

【その3】
こんにゃくは天災に弱い(下仁田はからっ風も平坦地より穏やかで台風などの水害も少ない)

【その4】
水車小屋で製粉する(下仁田の河川は幅が狭いが流れは速いので水車がよく回る)

などの理由が考えられます。現在では品種の改良が進み、平坦地での栽培も容易になり、産地は拡大しました。
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 この店はサービス満点。刺身こんにゃくが試食できる。

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 こんにゃくの煮物も。おいしい!

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 下仁田ネギも売っていた。下仁田ネギはコンロで真っ黒に焼き、黒く焦げた部分をむいて食べると、とてもおいしいという。

 下仁田町のホームページに面白い話が出ていた。

 下仁田ネギについての由来は明らかではないが、江戸文化2年11月8日付で『ネギ200本至急送れ、運送代はいくらかかってもよい』という趣旨の江戸大名、旗本からのものと思われる名主宛の手紙が残されており、当時すでに下仁田ネギが栽培され、珍重されていたことがわかっています。
下仁田ネギは別名「殿様ネギ」と呼ばれるのはこのためです。

 下仁田ネギは他のネギに比べ、ネギ特有のタンパク質(ミューシン)と香辛料(硫化アリール)が3倍含まれていて、ビタミンB・Cも豊富です。
 生では刺すような辛みがありますが、煮る、焼くなどすると短時間で柔らかくなり、特有の風味と甘みが出ます。
とろけるような舌触りと味わいはネギの中でも最高のものといえるのです。
 一度覚えた味覚は江戸大名をとりこにしてしまったのでしょう。

 下仁田ネギは二百数十年の歴史をもっていますが、明治以前は主に旧下仁田町周辺農家により自家消費を中心に栽培されていたようです。平地で栽培されるようになったのは明治に入ってからで、大正時代に入り現在の主産地である下仁田町馬山地区で盛んになりました。
 昭和に入って一部篤農家による皇室への献上や上毛カルタに「ねぎとこんにゃく下仁田名産」と詠まれていることから知名度が高くなったと考えられますが、これに伴って、群馬・長野の両県農事試験場が栽培試験をてがけましたが、群馬(前橋)では育ちが悪く、長野では育ちすぎて葉が硬直するなど食べ物にならなくて、結局「下仁田ネギは下仁田におけ」という結果に終わったとのいわれもあります。

 下仁田ネギは、非分けつ性の一本ネギで、軟白部は長さ15~20cmと短く、また太さは最も太いもので直径5~6cmときわめて太いのです。
 地上部の葉も濃緑色で太い。形・大きさ等下仁田ネギはネギの品種の中でも特異なものです。
 土壌適用性は広いですが、下仁田ネギ特有の肉質をしたしまりの良いものを生産するためには、礫を多少含んだ粘質土壌であることが一つの条件です。
 粘質が弱くて軽い火山灰土壌では肉質の良い下仁田ネギを生産することはできません。
 下仁田ネギは播種から収穫まで15カ月と大変に長い栽培なのでその年の温度等の気象条件の変化に左右されやすい品種です。
 育成の限界温度は0℃と35℃で、育成適温は、15~20℃です。
 耐熱性、耐寒性ともに強く、厳冬期でも地上部は枯れるけれども地下部が枯死する事はありません。また耐旱性も強く、夏の高温期でも障害は少ないです。
 しかし、多湿には弱く、特に25℃以上の高温では多湿に対する抵抗力が弱く湿害を受けやすいです。

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 こんにゃくと下仁田ネギのおいしさが一度に楽しめる「もつ鍋定食」(1000円)を食べた。
 あまりもつは好きではないが、こんにゃくやネギと一緒に食べるととてもおいしくなるから不思議だ。
 自家製手作り味噌のお汁もおいしく、下仁田の味を満喫した。

 おかた茶屋の営業時間は8時半から19時半。木曜定休(祝日の場合は営業)。

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上州七福神めぐり~クルマで7つのお寺を回る・その1 善宗寺(大黒天)~霊山寺(布袋尊)


より大きな地図で 上州七福神 を表示

 先週、新宿山ノ手七福神めぐりに行って、すっかり七福神めぐりにはまってしまった。
 京都、奈良、鎌倉・・・それに地方の有名なお寺(長野の善光寺など)は誰もがしばしば訪ねるが、東京のお寺にはあまり行かない。数も多いし、どこに行っていいかわからないということもある。七福神めぐりということで訪ねると良いお寺が都内にもあり、お寺を訪ねることによって、その地域の歴史の一端も分かった。東京の七福神めぐりコースはまだまだある。一つひとつ回ってみることで東京をもっと理解することができるのではないか、と思った。
 しかし。
 その前に回らなければいけないところがあった。
 群馬の七福神だ。幸煎餅の七福神あられは良く食べていたのに、群馬にいる時に、七福神めぐりは、まったく考えなかった。
 さっそくインターネットで調べてみると、群馬の東の地域は七福神めぐりが盛んなようで、太田市、桐生市、館林市、邑楽郡はそれぞれに七福神のコースを定めている。
 「上州七福神」もあったが広域だ。5つの寺は赤城山周辺だが、二つは太田市と下仁田町にある。さすが1世帯が複数のクルマを持つのが当たり前の群馬。七福神めぐりもクルマでないと1日ではめぐれない。
 しかし、調べると行きたくなる。午前8時過ぎに東京・練馬の自宅を出た。

 訪ねる順番は次の通りにした。最初に遠距離を走る。最後を榛東村にしたのは、新宿山ノ手七福神めぐりと同様、毘沙門天を最後にしようと思ったのと、その後伊香保に行って温泉に入ろうと思ったからだ。(^^ゞ
 
①善宗寺(大黒天)
太田市原宿町3631-1
0276・37・5184
②霊山寺(布袋尊)
甘楽郡下仁田町下仁田716
0274・82・2493
③正円寺(福禄寿)
前橋市堀之下町155
027・269・6585
④珊瑚寺(恵比寿)
前橋市富士見町石井1227
027・288・3503
⑤興禅寺(弁財天)
渋川市赤城町三原田545
0279・56・8155
⑥長松寺(寿老人)
北群馬郡吉岡町大字漆原1284
0279・54・2298
⑦柳沢寺(毘沙門天)
北群馬郡榛東村山子田2535
0279・54・3954
 
 結論から先に言うと、1日で回ろうと思うと、体もきついし、時間に余裕がなく、年配の方にはお薦めできない。
 また、しっかりとお参りしようと思わない人はやめたほうがいい。なぜなら、各お寺はあまり観光化されておらず、ほとんどのところはお寺につながる住居の玄関で呼び鈴を鳴らして、参拝したいとお願いして、神様を見せていただくことになる。
 恐らく正月はオープンになっているのだろうが、それ以外は、自由にお寺の建物の中には入れないので、挨拶など面倒、という人は七福神は拝めない(お寺の外観だけなら参拝料はないので、自由に見られる)。
 お寺の受付時間も定かではなかったが、あるお寺によると早いところで9時から、遅くても10時からは参拝を受け付ける。受け付け終了は通常午後4時らしい。
 

 東北自動車道・館林IC経由で群馬に入った。
 8時過ぎに出たが、クルマの流れは順調で9時53分に最初の目的地、太田市原宿町3631-1の善宗寺(ぜんそうじ)に着いた。
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 残念ながら、留守で、参観できなかった。
 最初の七福神めぐりのお寺が留守だったが、他の寺は運よく参観できた。観光化されていないので確実に七福神を拝ませていただきたい時は、事前に(参拝日、人数、まわり順、宝印帳の数などを)連絡するのがいい。

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 お地蔵様。

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 祀られているのは大黒天。頭巾をかぶり大きな袋を肩に掛け、手には打出の小槌を持ち、米俵の上に立っている。

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 お寺については、インターネット上にも住所程度の情報しかないので、資料を送ってもらうことにした。
追記)資料を送っていただいた。
 沿革・由緒
 栄昌寺善宗寺は、曹源寺(さざえ堂)9世萬了雷重和尚によって、1699年(元禄12年)頃に開山された。しかし、詳細は不明である。
 当時は本寺の隠居寺として建立され、人別寺ではなく、地域住民の集会所としての存在であった。また、しばしば無住になっていた。
 1891年(明治24年)に、植木野町の宗金寺(群馬197番)住職、吉祥海雲和尚が29世として入山し、檀信徒をまとめて、現在に至る。
 通称、原宿の寺と言われ、かつては、観音札所、東上州新田34所の29番であった。現在は上州七福神大黒尊天の霊場となっている。
 本堂は火災にあい、1783年(天明3年)に再建され、その後、幾度か改修され最終的に平成3年に改修し現在に至る。また、老朽化した庫裡、書院を平成12年に新築した。

 七福神の説明だけでなく、お寺の由緒なども記した公式ホーム―ページを、各お寺で協力して、ぜひ作っていただきたい。
 
 10時過ぎまでしばらくいたが、参観を諦め、次のお寺、下仁田の霊前寺(りょうぜんじ)に向かうことにした。

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 群馬にいた時はまだ北関東自動車道が太田まで開通していなかったが、すでに太田桐生ICができている。下仁田ICまで一気に行ける。

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 11時11分、霊山寺(下仁田町下仁田716)に到着。
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 ここにも六地蔵。
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 羅漢も。
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 このお寺は人の往来が多かった。中ではお茶屋お菓子をふるまっていた。
 お寺のホームページもあった。
 ここは、みんなのおてら「りょうぜんじ」です!
 気さくなお寺だ。(^。^)
 ホームページによると――。

 宗 派  天台宗(てんだいしゅう)
 本 尊  阿弥陀如来(あみだにょらい)
 史 跡  伊勢山百庚申(町指定史跡)
 縁 起  当山は約400年前に畠山重俊公に流れを同じくする重全和尚により開山されました。現世まで38世を経ております。

 とのことだ。

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 大黒様や恵比寿様も遊びに来ている(笑)。

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 ホームページの説明も分かりやすい。 
 当山の布袋さまは「上州」と「鏑川」(かぶらかわ)の二つの七福神霊場を兼ねております。
 霊験あらたかで福徳円満!(福も富も!)、
 平和安穏、家庭円満、交際円満、家運隆盛、なんでもこい!
 円満効果ばっちりです!?(ほんとか?!・・・ ホントですってば!)
 不景気な世の中にオサラバしたい方は一度お参りしてみては・・・?

 そもそも、布袋尊さまは七福神の中でただ一人「実在の人物」とされていて
 吉凶をつかさどる神様です。「布袋和尚」という、中国の唐時代の明州奉化の禅僧で
 名は「契此」(かいし) 号は「長汀子」(ちょうていし)といわれております。
 「雪の降りしきる中で寝ていても布袋和尚の上には雪が降らなかった」という言い伝えや
 没後、埋葬されたのに、なお生存し!?
 「布袋をかついで歩いているのを見た人がいる!」
 という逸話が伝えられております。
 布袋さまのお姿は「弥勒菩薩の化身」とも言われております。

 「行くお寺、行くお寺がすべて留守だったらどうしよう」と不安だっただけに、このお寺の賑わい、親しみやすさはありがたかった。
 
 下仁田町で昼食をとることにした。

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柴又その6 高木屋老舗(東京・柴又、甘味処・和菓子)

  『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集6位が「草だんご」。
 アド街のホームページによると――。
 柴又土産といえば「草だんご」。江戸後期、柴又では良質な米とよもぎが採れたことから名物となりました。「とらや」「亀家本舗」「髙木屋老舗」と各店にそれぞれこだわりがあります。いずれ劣らぬ名品揃いです。是非食べ比べてみましょう!!」

 高木屋老舗(たかぎやろうほ、東京都葛飾区柴又7-7-4、03・3657・3136)に立ち寄った。(16時38分)
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 ホーム―ページによると、 「高木屋老舗は下町の人情味あふれる帝釈天の参道の途中にあり、参道をはさんで両側に建つ木造瓦ぶきの建物は、明治と大正時代に建てられました。今尚、創業当時の風情が残っています。参道をはさんで テイクアウトやおみやげ等の販売店と 喫茶店の2店舗を構えております」「店内ではお食事を楽しんでいただけます。店の壁には故渥美清さんや山田洋次監督、歴代のマドンナの写真を飾っております」「江戸時代、このあたりは武州葛西領と呼ばれ、一面の田畑でした。 当時農家では『よもぎ』を団子の中につきこんで食べていました。武家の屋敷や大商家へ行儀見習いに行っていた農家の娘達は、その主人宅に唯一の贈り物として用いました。この素朴な風習から生まれた『草だんご』は、いつしか一般の人々にもその香味が知られるようになりました。 この遠い昔、すでに紫又門前の高木屋では、求肥餅、瓦せんべい、塩せんべいなどを売っていましたが、同じ頃より『草だんご』も売り始めていました。以来百年余の月日が流れておりますが『よもぎ』をつきこんだ自然のかおりから生まれる『草だんご』は今や東京唯一の名物として親しまれております」。
 映画「男はつらいよ」の撮影の度に、休憩や衣装替えに部屋を貸したことがきっかけで、「寅さん」との付き合いが始ったという。

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 草だんご(5粒300円)。米は特選の「コシヒカリ」を、毎日使う量だけ粉をひき、もち草は筑波山麓の澄んだ空気のもとに育んだ「よもぎ」のやわらかい新芽をつみ、あんは北海道産の一級の小豆を使い、上品な甘さに仕上げている。
 ほかに、焼きだんご(2本300円)、磯おとめ(2本300円)、お団子セット(500円)、おでん(525円)、茶めし(315円)、あんみつ、みつまめ、くず餅、ところてん(各450円)などが食べられる。お茶もおいしかった。
 営業時間はAM7:30~PM6:00。無休。

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柴又その5 柴又帝釈天

 『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集1位はやはり、「柴又帝釈天」(東京都葛飾区柴又7丁目10番3号、03・3657・2886)。
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 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると――。
 柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。 尚、「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、日本においてはこの柴又帝釈天を指す場合も多い。

 江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。

 近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。

 「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。

 縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。

 題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。

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 二天門。明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。 (16時14分)

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 二天門の右に南方を護る守護神の増長天が祀られている

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 左には、西方を護る守護神の広目天を祀っている。
 
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 柴又帝釈天の浄行菩薩。悪いところをタワシでゴシゴシ。
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 帝釈堂 。二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。

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柴又その4 矢切の渡し

 川甚に行った後、土手の方に歩いた。矢切の渡しがある。(15時55分) 

 『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集では8位。
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 葛飾区観光サイト “かつしかまるごとガイド”によると――。
住所 東京都葛飾区柴又7-18先
電話 047-363-9357(矢切渡船)
アクセス 京成線柴又駅より徒歩約10分
営業時間 夏季:毎日運航9:30~16:30頃
冬季:土日祝日及び庚申の日のみ運航9:30~16:30頃
料金 大人片道100円、子ども片道50円
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 「わらじっこ」を売る店も。
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 『ウィキペディア』によると――。
 矢切の地名は、江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と東京都葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている。渡船の料金は大人100円(2005年現在)。矢切の渡しと柴又の帝釈天界隈は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
 この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後民営となり、代々個人により運営されている。
 この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。現在、矢切にこの小説の文学碑が建立されている。 また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にも、しばしば登場する。
 現在はほぼ観光用途のために存在するが、元が渡し舟だったため、渡し場に多少の土産物屋がある程度で、特に観光化されているわけではない。このため繁忙期や風の強い日などは、モーターで運行される。なお矢切側の公共交通機関がやや遠いため、多くの乗客は柴又側から乗船し、往復利用している。
 矢切の渡しは、昭和末期に作詞:石本美由起、作曲:船村徹の歌謡曲『矢切の渡し』の大ヒットによって再び脚光を浴びた。
 1976年10月にちあきなおみがシングル『酒場川』のB面曲として発売。1982年10月21日に『矢切の渡し』をA面にしたちあき盤が発売(B面は『別れの一本杉』)。1983年に細川たかし、瀬川瑛子、春日八郎 & 藤野とし恵、島倉千代子 & 船村徹など、7種のシングルによる競作で発売された。なお、細川盤の発売にあたって細川の所属する日本コロムビアはちあき盤(1976年当時日本コロムビアに所属、1983年当時はビクターに移籍していた)を生産中止にしている。
 シングルレコードとして最も売れたのは細川盤(「矢切の渡し(細川たかし)」参照)であったが、当時のUSENのチャートではちあき盤が首位を独走していた。
 その他、美空ひばりもLPで同曲をカバーした。

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柴又その3 川甚(東京・柴又、川魚料理)

 『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集4位が「川魚料理の名店」。
 アド街のホームページによると――。
 川魚料理は江戸川伝統の味。
 柴又には、創業217年の「川甚」や創業200年以上の「ゑびす家」をはじめとする、鰻や鯉の老舗料亭が点在しています。
 川甚(東京都葛飾区柴又7-19-14、03・3657・5151)に行った。午後2時半に予約を入れていた。
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 ホームページによると――。
 帝釈天の裏手、江戸川の土手ぎわにある川甚は寛政年間(江戸後期・1790年代)の創業で、明治時代までは舟でみえたお客様がそのまま座敷に上がれるほど川べりにありました。(屋号は江戸川の川と初代甚左ェ門の一字からとったものです) 川の水もきれいで建物の下の川中には当店の生け簀があり、お客様がみえると若い衆が江戸川清流産の鯉・鰻をたも網ですくい上げて料理しておりました。
 土手も今のような外灯もなく、仲居さんが白い提灯を手に河原から土手までお客様をお見送りし、その光景は大変風情があったといいます。
 その後、大正7年の河川改修で建物は土手の外に移され、昭和39年東京オリンピックの年、再度の河川改修によって現在の4階建てのビルになりました。 これも時の流れというものなのでしょう... しかし本館から眺める川面のたたずまいは多くのお客様の心を和ませてくれるでしょう。

 川甚は文人たちにも愛された。
夏目 漱石 「彼岸過迄」より 敬太郎は久し振りに晴々としたよい気分になって水だの岡だの帆かけ舟だのを見廻した。……二人は柴又の帝釈天の傍まで来て 「川甚」という家に這入って飯を食った。
大町 桂月 「東京遊行記」より 十二時に近し。午食せむとて川甚に投ず。鯉、鰻来て膳にのる。 これを肴に酒を呑む。
幸田 露伴 「付焼刃」より 汀の芦萩は未枯れ果てゝいるが堤の雑草など猶、地を飾っている。水に臨んでいる「川甚」の座敷は……。
田山 花袋 「東京の郊外」より 藍のような水に白帆がいくつとなく通っていくそこには、「川甚」という 川魚料理店がある。
谷崎 潤一郎 「羹」より 巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に川甚と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。
尾崎 士郎 「人生劇場」より 道が二つに分れて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の川甚)の門へ続く曲り角まで来ると吹岡は立ちどまった。
林 芙美子 「晩菊」より 晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んでくる。こっとんこっとん水揚げをしている自動ポンプの音が耳についていた。
松本 清張 「風の視線」より 車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍らしいしゃれた玄関の前庭にはいった「川甚」という料亭だった。

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 新館に通された。

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 鯉洗い(945円)。
 川魚は鮮度が命。川甚では注文後に魚を生け簀からあげている。また、井戸水を泳がせ十分に泥を吐かせているので臭みがない。

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 上鰻重(2100円)。コース(4000円~1万7325円)もあったが、これで十分満足。

 営業時間は平日(月~土)が11:00am~10:00 pm(ラストオーダー 7:30pm) 、日曜・祭日が11:00am~9:00 pm(ラストオーダー 7:00pm) 。

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柴又その2 帝釈天参道

 『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集2位が「帝釈天参道」。
 アド街のホームページでの紹介。
 およそ40軒のお店が軒を連ねる帝釈天参道には、最近、若い女性も多く訪れています。
 そこで今回は、お洒落着を扱う洋品店「笠木屋」、川魚料理店「ゑびす家」、寅さんのモデルになった「髙木屋老舗」、創業100年の煎餅店「立花屋」、明治元年創業の飴屋「松屋の飴総本店」、草だんごで知られる「亀屋本舗」、民芸品のお店「そ乃田民芸店」と、花嫁募集中の若旦那がいるお店をご紹介します!!

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 いつも土日はこんなに賑わっているのだろうか。寅年だからか。ものすごい人、人。(14時20分)
 参道の商店街情報はこちら

 まずは、昼食を食べに川魚料理の店、「川甚」へ。

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 帰り。(16時55分)

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柴又その1 寅さん

 柴又に行った。柴又というと、上野や浅草の隣にあるような気がするのは私だけだろうか。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「柴又帝釈天柴又(しばまた)は、東京都葛飾区東部にある地名である。古くから題経寺(柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。郵便番号は125-0052である。江戸川対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船『矢切の渡し』の渡し場がある」「江戸川の西岸に位置し、対岸は千葉県である」「昭和7年、東京市に併合され葛飾区柴又町と名乗り、題経寺界隈を1丁目とし他2および3丁目を設けた」。
 さらに、『ウィキペディア』によると、「東京においては、歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域)において、高台の武家地域を『山の手』と呼び、低地にある商工業が盛んな町人の暮らす町を『下町』と呼んだ。東京における下町の代表的な地域は、日本橋・京橋・芝・神田・下谷・浅草・深川・本所等である」「なお、東京の場合、上述の地域が本来の下町であるが、それに近接した東京23区の東側全体も通俗的には『下町』と言われることも近年は少なくない。この場合、葛飾区の柴又・亀有などの、歴史的には旧東京市の外側だった地域も下町に含まれることになる」「今日的な下町のイメージは、本来の下町においては繊維問屋街の多い街区や月島・人形町・浅草・入谷・門前仲町などの門前町や古風な街並みの残る地域、その外側においても中小の工場や商店の多い地域(時に荒川・江戸川・中川などの河川敷に近い地域や、柴又などの門前町のイメージも強い)によってイメージされることが多い。また、テレビ・映画などに取り上げられるこれらの地域のイメージの影響で、『現代の東京に江戸情緒や人情を残す町』というイメージも強い」。

 浅草などからも結構、遠いのだが、『現代の東京に江戸情緒や人情を残す町』ということでは代表的な下町だ。
 JR飯田橋駅で、13時35分発の総武線・津田沼行きに乗り、浅草橋駅で都営浅草線・京成高砂行きの乗り換えた。押上駅で京成押上線快速・京成佐倉行きに乗り、京成高砂駅で京成金町線・京成金町行きに乗り換え、柴又へ。柴又到着は14時12分。

 今日は午前中、新宿山ノ手七福神めぐりをしたので、柴又をゆっくり回る時間がない。
 そこでテレビ東京で昨年10月17日に放送された『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集を参考にすることにした。

 柴又駅前には人だかりができていた。「姓は車、名は寅次郎、人呼んで『フーテンの寅』」で有名な、渥美清扮する車寅次郎の銅像を囲んで、多くの人が記念撮影をしている。
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 『出没! アド街ック天国』の「柴又」特集3位が『男はつらいよ』の「寅さん」だ。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると――。
 『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。旅先で出会った「マドンナ」に毎度のことながら惚れつつも、結局いい人どまりで終わってしまう寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。
 
 主人公、「フーテンの寅」こと車寅次郎は、父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる腹違いの妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。

 シリーズのパターンは寅次郎が旅先や柴又で出会うマドンナに惚れてしまい、マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後にはマドンナの恋人が現れて振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が正月前、もしくは盆前(即ち正月、盆がテキ屋は書き入れ時)に再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末 で一貫している。
 
 私、「フーテンの中」は「フーテンの寅」にあこがれて、命名した。寅年ということもあり、柴又に行かなければならないと思った。
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 ヒゲのサムさんが描いてくれたフーテンの中。
 麻雀牌の中が好きで、中くらいという感じのぬるさが好きで、フーテンの中を名乗っている。フーテンの中というと「不良中年」という感じもして、実名よりも似合っていると思う。

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新宿山ノ手七福神めぐり~毘沙門天(神楽坂)の仲間に会いに行く

 「新宿山ノ手七福神めぐり」をすることにした。まずは公式ホームページで知識や情報をチェックする。地図も用意されていて役に立つホームページだ。
 所要時間は徒歩で約150分。
 「コースの指定はございません。お好きなところからおまわりください」とのことだ。

 <新宿方面からまわる場合の一例>
  恵比寿神|稲荷鬼王神社
 →布袋和尚|霞関山太宗寺
 →寿老人|春時山法善寺
 →福禄寿|大久保山永福寺
 →辨財天|厳嶋神社
 →大黒天|大乗山経王寺
 →毘沙門天|鎮護山善国寺

 毘沙門天の善国寺以外は行ったことがない。毘沙門天の仲間に、ぜひとも会いたい。


より大きな地図で 新宿山ノ手七福神めぐり を表示

 七福神については、東京街歩き委員会著 『東京七福神めぐり』 (NHK出版・生活人新書、2002年12月10日第一刷発行)が詳しい。
 それによると、「七福神とは、恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七神を指しますが、その顔ぶれは時代によって異なり、今のような顔ぶれになったのは江戸中期といわれています」「ではなぜ七神なのでしょうか?時代は室町時代までさかのぼります。七福神信仰が生まれたのがちょうどこのころといわれています。『仁王般若経』という仏教経典に、『七難即滅、七福即生、万姓安楽、帝王歓喜』という言葉が見られます。…ここから七という数が生まれたといわれます」「東京の七福神めぐり…最も古いものは谷中七福神で、江戸時代は谷中七福神、山手(目黒)七福神、向島七福神の3つだけでした」。

 基本的な知識は得たので、さっそく回ってみよう(七福神の説明、及びイラストは公式ホームページより)。

①恵比寿神(えびすじん)|稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)
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恵比寿神
日本古来の神様。大国主命の子息、事代主命(コトシロヌシノミコト)が恵比寿神であるといわれ、古来より福を表す「鯛」と、福を釣るという「釣り竿」を手に持っており、海の守護と商売繁昌の神様として、親しまれている。

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 区役所通り(新宿・歌舞伎町の歓楽街)を北に向かって歩き、職安通り(鬼王通り)にぶつかる手前右に、ひっそりと稲荷鬼王神社(新宿区新宿2-17-5、03・3200・2904)がたたずむ。10時3分。

主祭神)宇迦之御魂神、鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)、旧大久保村の神々
創建)稲荷神社:承応2年(1653年)、鬼王神社:宝暦2年(1752年)
例祭)9月18日

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、稲荷鬼王神社は「 JR新大久保駅の南東約400Mに鎮座する。全国唯一の鬼の福授けの社として信仰を集め、『撫で守り』の授与で有名である。皮膚病・その他病気平癒に御利益がある。境内の三島神社に祀られている恵比寿神は新宿山ノ手七福神の一つである」「天保2年(1831年)、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。熊野の鬼王権現は現存していないため、『鬼王』の名を持つ日本唯一の神社となっている。また、大祭で担がれる宮御輿は、鬼面が彫られた珍しいものである」。

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 開運恵比寿神社(三島神社)。

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 かえる石。恵比寿様をお参りしてから手水から柄杓でこの石に水を掛け、次に石をさすりながら、心の中で次の言葉を三度唱える。
 一日の無事を願う人、或いは交通安全や旅行安全を願う人は『無事かえる』
 開運を願う人は『良き運にかえる』
 金運を願う人は『金かえる』
 縁結びを願う人は『想いの人の心が自分にふりかえる』『待ち人かえる』
 健康を願う人は『若がえる』
 あらゆる願いを『か(な)える』
 その後もう一度、恵比寿様にお参りする。
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 恵比寿神社の水琴窟。

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 稲荷鬼王神社。

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 天水琴。

追記2010.9.19)午後、訪ねると、地元のイベントで盛り上がっていた。1月に訪ねた時と印象が異なるので写真を追加する。
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②布袋和尚(ほていおしょう)|霞関山太宗寺(かかんざんたいそうじ)
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布袋和尚
中国出身の禅僧。実在した人物です。つねに布の袋を背負い、この中に福財が入っていたといわれています。笑顔を浮かべた円満な容姿をしており、親しまれております。

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 明治通り、新宿通りを通って霞関山太宗寺(新宿区新宿2-9-2、03・3356・7731)に到着。10時37分。

 パンフレットによると――。
 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前進で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。
 これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
 内藤家は七代清枚以降は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
 現在も、毎年お盆の7月15日・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
 なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を排しています。浄土宗の寺院です。

        ◇           ◇           ◇           

 太宗寺門のあるあたりには「内藤新宿」が開設され、そこから、「新宿」という地名が生まれたという。これについても、太宗寺のパンフレットが解説している。

甲州道中と内藤新宿
 甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行った五街道(ほかに東海道・中仙道・奥州道中・日光道中)のひとつで、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄10年(1697)に同志4名ととも、太宗寺の南東に宿場を開設するよう、幕府に願いを出しました。
 なぜ喜兵衛らが宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設に際し運上金5600両を納めることを申し出ました。
 この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷地などを返上させて、これにあてました。
 こうして「内藤新宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。善兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました。

 宿場は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)の約200m西から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
 宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設)などがありました。
 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、その繁栄を支えたのが旅籠屋でした。ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました。

 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
 その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。

        ◇           ◇           ◇

 このお寺は文化財が多い。
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 銅造地蔵菩薩坐像。東京都指定有形文化財(彫刻)。
 銅像で像高は267cm。深川の地蔵坊正元が発願した「江戸六地蔵」の3番目として正徳2年(1712)に造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義です。
 なお、像内には小型の銅造地蔵6体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
 「江戸六地蔵」各像には寄進者の名前が刻まれており、その合計は72,000名以上におよんでいます。
 「江戸六地蔵」 品川寺(品川区)・東禅寺(台東区)・真性寺(豊島区)・霊巌寺(江東区)・永代寺(江東区・地蔵は現存しない)・太宗寺

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 閻魔像。新宿区指定有形民族文化財。
 木造で、総高は550㎝。文化11年(1814)に安置されたもので、製作もその頃と推定されます(関東大震災で大破し、体は昭和8年に造り直したもの)。
 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめた像で、かつては薮入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらえる日)に縁日が出て賑わいました。
 また、弘化4年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。

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 不動堂。

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 布袋尊像が祀られている。

③寿老人(じゅろうじん)|春時山法善寺(しゅんじざんほうぜんじ)
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寿老人
中国出身。福禄寿と似たもの同士で、寿老人は老人星の化身です。不老不死の霊薬を所持していることから、こちらも長寿の神として親しまれております。

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 靖国通りの新宿一丁目北交差点を北上。交番のところで右折。しばらく行って、まねき通りに入り、北上。左に、春時山法善寺(新宿区新宿6-20-16、03・3351・4080)がある。11時3分。

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 新宿区観光協会のホームページによると、法善寺は「日蓮宗の寺院で、正式名を『春時山光晴法善寺』」といいます。山の手七福神のひとつ『寿老人』をまつるほか、本堂には保存状態も良好な極彩色の『七面明神像』(新宿区指定文化財)が安置されています」。

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 寿老人をまつっている。

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 寿老人。
追記2010.9.19)9月に再訪。ススキがきれいだった。
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 コース一例の順番では福禄寿が先だったが、まねき通りを上ると辨財天を祀った厳島神社があったので先に行った。
④辨財天(べんざいてん)|厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)
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辨財天
神道では古事記に出てくる神。市杵島媛命と申し上げ水の神様であります。七福唯一の女性。田畑の農作物にとって、最も重要な水を供給するので、五穀豊穣の守り神といわれています。女性であるため、江戸時代は、富貴の神として庶民の人気を高めました。

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厳嶋神社(新宿区余丁町8-5)。11時12分。

 現地にあった説明書きによると――。
 厳嶋神社・抜弁天
一.由来
 白河天皇の御代、応徳3年(1086年)、鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上、この地に立ち寄り、遠く富士を望み、こに宿営した。 この地はこの地域で最も高い場所であり、かつては富士山もよく見えたようで、この時、義家も遠く富士山を望み安芸の厳島神社に戦勝を祈願した。義家は奥州鎮定後、その御礼の神社を建て、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)
二.江戸時代
 参道は南北に通り抜けでき、また、苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。
 江戸幕府の地誌 大久保絵図(安政4年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
 徳川綱吉の「生類憐みの令」により、この附近に2万5千坪の犬小屋が設けられていた。

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 厳嶋神社でのご朱印等の受付は正月7日まで。以降は西向天神社<にしむきてんじんしゃ>(新宿区新宿6-21-1、03・3351・5875)へ。

追記2010.9.19)前回訪ねた時に龍の写真を撮り忘れたので1枚。
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追記2011.1.3)ご開帳があると思って訪ねた。
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 こんな感じのさぞや美しい弁天様が拝めると思ったのだが――。

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 扉は開いていたが簾が掛っていてお姿が見えない。
┐(´д`)┌ヤレヤレ

⑤福禄寿(ふくろくじゅ)|大久保山永福寺(おおくぼざんえいふくじ)
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福禄寿
中国出身。南極星の化身で、短身・長頭の姿をしています。年令も数千年を越すほど保持しているといわれていることから、長寿の神として親しまれております。

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 抜弁天から職安通りを渡ってすぐの場所に、大久保山永福寺(新宿区新宿7-11-2、03・3203・8910)を訪ねた。11時19分。

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 新宿区観光協会によると、永福寺は「曹洞宗の寺院で、大久山永福寺という。慶安元年(1648)創建と伝えられる。永福寺の門を入ると、新宿区には珍しい金銅の仏像と菩薩像とが静かに迎えてくれる。一つは宝暦6年(1756)建立の大日如来坐像で、像高1.17メートル、権大僧都亮長の発願によって、長谷川国得により鋳造された」「他の一つは地蔵菩薩の半跏趺坐(左脚を垂れ、右脚を曲げて腰かける)像で、像高は1.08メートル。こちらには建立の事情が細かく刻まれ、発願主が前天正寺全戒、化主が祖俊光道長老・黙道戒音長老・現永□□(不明)成純、鋳物師が粉川一正で、嘉永6年(1853)4月に造立されたことがわかる」。
 
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 『東京七福神めぐり』によると、「ここの福禄寿は自然石そのままの尊像で、豊香園という植木業者から寄進されたものだ。江戸末期、植木師だった源蔵が信州善光寺の参詣の帰り道で、福禄寿に酷似した一つの奇石を見つけて持ち帰り、家宝とした。すると日を追うにつれて家運が興隆した」とのことだ。

追記2010.9.19)9月に再訪。自然石だけでなく、福禄寿の像もあったので、2枚の写真を追加する。
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⑥大黒天(だいこくてん)|大乗山経王寺(だいじょうざんきょうおうじ)
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大黒天
インド出身。貧しき人、難民の救済をかって出た心やさしい神様。全身の色が黒く大きな福徳を授けるので、大黒天と呼ばれています。経王寺の大黒さまは、慶長三年(1598)現在地に安置され、霊験も多く大願成就のご利益があると、庶民の間で親しまれております。

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 次の七福神までは距離がある。若松町を過ぎ、坂を下って市谷柳町に行く手前右に、大乗山経王寺(新宿区原町1-14、03・3341・1314)があった。11時42分。
 パンフレットによると――。
 大乗山経王寺(だいじょうざんきょうおうじ)は、慶長3年(1598)に当時は武蔵国豊島郡(むさしのくにとしまごおり)市ヶ谷田町と呼ばれていたところ(現・新宿区市谷田町)に、尊重院日静上人(そんじゅういんにちじょうしょうにん)という僧によって開創されました。
 日静上人については、越中国(富山県)または甲斐国(山梨県)の人で、寛永7年(1630)7月17日に示寂したことのほか、一切が不詳です。ただ、日蓮聖人の高弟である中老僧(ちゅうろうそう)・日法(にっぽう)上人作の大黒天像を身延山(みのぶさん)から江戸に移し、経王寺に安置したことは古記録に明らかです。
 明暦3年(1657)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)がきっかけとなって、寛文5年(1665)頃から、江戸城を火災から護るための外濠の開削、見附の普請が着工されました。
 このため、寛文8年(1668)に経王寺境内地は「御堀御用地」となり、市ヶ谷川田久保町に移転しています。
さらに天和2年(1682)には、近隣からの出火で、経王寺は類焼しました。寺地は幕府の「御用地」となり、牛込原町の古跡地を拝領し、現在地に移転しました。江戸時代も元禄年中(1688~1703)に入ると、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになります。経王寺の開運大黒天が世に知られだしたのも、この頃です。
 つづく享保10年(1725)には青山久保町からの出火で経王寺は類焼し、所蔵諸書の悉くが灰燼と帰してしまいましたが、諸堂宇は直ちに再建され、火難を逃れた大黒天像をはじめ諸尊像は無事に安置されました。享保14年(1729)には、堂舎、諸尊の再建、改修が為されています。
 天保7年(1836)、雑司が谷鼠山(現・目白台一帯)2万8000余坪の地に、豪壮な長耀山感應寺(ちょうようざんかんのうじ)が建立されました。時の十一代将軍・徳川家斉の還暦祝賀のための造立でしたが、天保12年(1841)に「天保の改革」の一環として、この大寺は政治的に廃寺と決まり、いわゆる「感應寺廃寺事件」が起こりました。
 市ヶ谷田町に住み、熱心な日蓮宗信者であった畳職人・小嶋太兵衛は、この廃寺事件に悲憤し、永年にわたって寺社奉行にその再建を訴えつづけました。しかしその訴えは取りあげられず、ついに文久3年(1863)1月25日に、太兵衛は菩提寺である経王寺において、愛用の畳包丁で割腹自害して果てました。
 太兵衛の壮烈な死は衝撃を起こし、幕末の混乱期にあった寺社奉行は感應寺の再建を許し、筑土・感應寺が再建されましたが、この寺もほどなく潰寺となってしまいました。
 慶応4年(1868)、江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立すると、神仏分離令が発令され、全国に廃仏毀釈運動が広まります。多くの寺院や仏像、仏具が破壊され、廃寺や無住となる寺院が続出しました。
 しかし、この困難な時期も、経王寺は檀信徒とともに寺門を守り続けました。明治10年(1877)4月12日に、経王寺はまたまた回禄の厄に遭い、諸堂宇はすべて灰燼と帰してしまいました。しかし幸い、大黒天像をはじめとする諸尊像は難を逃れています。
 その後、経王寺は歴代住職と壇徒家の尽力によって、罹災の打撃から立ち直り、大正・昭和の時代を経て、現在も檀信徒と共に生きるお寺として新たな歴史を歩んでいます。

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 経王寺の大黒天像について説明書きがあった。
 新宿区指定有形文化財(彫刻)。
 山の手七福神のひとつで日法上人の作、慶長3年(1598)に甲斐国身延山より移されたと伝えられる。
 高さ12センチの木彫立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち台座に乗る通規の様式だが、江戸時代のものと異なり、微笑面ではなく厳しい表情をしている。
 室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから。「火伏せ大黒」として崇敬されている。
 
 説明とは異なり祀っている大黒天を見ると微笑んでいる。
 聞いてみると、微笑んでいるのは別の大黒天で奥に厳しい表情の大黒様がいらっしゃるそうだ。

追記2010.9.19)小槌が用意されている。3回振って願いを唱える。
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⑦毘沙門天(びしゃもんてん)|鎮護山善国寺(ちんござんぜんこくじ)
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毘沙門天
インド出身。「毘沙門天王経」の中に、自分を信仰すれば、福徳・知恵・美貌・力・能弁など、十種の利益があるといわれています。毘沙門とは多聞と訳し、多くの人々の願いを聞いて叶えさせるといいます。また天の四方を守護する四天王の随一に数えられ、インド神話では福の神としての性格がよく表明されています。

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 最後の七福神を祀る鎮護山善国寺(新宿区神楽坂5-36。03・3269・0641)に到着。12時8分。
 ホームページによると、毘沙門天善國寺の沿革は――。
 善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年を遡る。
 
 初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方である。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから9年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた。ここに毘沙門天を奉安する、名刹・善國寺が誕生したのである。
 徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文10(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったのである。
 当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政4(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。今から約200年前のことである。尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により。往時を偲ぶことができる。
 毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門》の威光は倍増していった。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。
 明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。
 昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである。
 毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様、ないし仏法を守る役目を担い、四天王の随一として北方守護を司る。また、多聞天とも号し、文字通り、参詣者の願い事を《多く聞いて》下さり、七福神のお一人として、日々福を授けて下さっている。

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 入って左側に毘沙門天が祀られているが、見ることはできない。
 善國寺の毘沙門天像について外に説明書きがあった――。
 新宿区指定有形文化財(彫刻)。
 「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
 木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座(いわざ)に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。
 善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。
 別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。
 善國寺の毘沙門天は。江戸の三毘沙門天と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・5月・9月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。


 この七福神めぐり、グループで回るならば、霞関山太宗寺からのスタートがいいかもしれない(集合場所は新宿御苑駅周辺の喫茶店)。その後、稲荷鬼王神社→春時山法善寺と回る。
 善國寺は賑わいがあり、七福神めぐり最後のお寺にふさわしい。
 神楽坂には休息をとる良い喫茶店も多い。カフェ ルトゥールで少し休んだ。

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銀座すし栄(東京都・銀座、寿司)

 創業約160年、現存する最古の江戸前寿司の店、銀座すし栄(東京都中央区銀座7-13-2、03・3541・5055)に行った。
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 いろいろ質問をしたところ、女将さんに、すし栄の歴史を書いた『江戸っ子神田っ子―かたろう物語』(森田雅子著、錦正社、昭和50年3月22日発行)をいただいた。江戸末期から昭和に至る当時の庶民の暮らしぶりや街の様子なども分かるいい本だった。
 それによると――。
 嘉永年間(1848~1854年)、神田旅籠町(外神田)にすし店を開業。神田川の北側が外神田。神田川に入る廻船が米や雑貨を運んできて、武家屋敷の並ぶ内神田の外側に商人の町が開けた。
 初代は倉田栄蔵。表通りに出てから商売繁盛したが、長男金太郎がいっぱしのすし職人となると、遊びにいってしまうことが多かったという。料理人の世界に道楽はつきものだったらしい。しかし、金太郎は商売一筋の律儀者。すしに打ち込んで名人芸の職人になった。魚の仕入れも一目で見分けられた。
 金太郎は握りずしの元祖として有名な両国の華屋与兵衛のお座敷ずしを手本にした。神田名物になったすし栄には商店の旦那衆が息抜きにやってきて賑わった。ところが金太郎は健康を害し、行く末を案じて、長男の華太郎にすしを仕込んだ。
 悪童連を引き連れて遊び回るのも得意なら勉強もできた華太郎はすし店を継ぐつもりはなかったというが、金太郎が53歳で没すると、あとを継がざるを得なかった。
 しかし、継いでみて驚いた。父の病中、叔父が取り仕切っていたすし栄は借金まみれになっていた。
 「山のような借金をどうやって返したらいいか。一生かかっても返せる額ではないだろう」。華太郎は途方にくれた。
 華太郎を救ったのは第一次世界大戦だった。軍需関係の好景気で物価が上がり、すし栄は嘘のように儲かってくる。一人前二十銭も出せばおなか一杯食べられたすしが、七十銭になった。一生かかっても返せないと思った借金は三年で完済した。
 すし栄は大正10(1921)年には間口10間、奥2間半(一間は六尺=約1.818メートル)の大きな店となるが、大正12年の関東大震災で焼失した。神田は区内の90%が焼失したというが、すし栄は1週間後には掘立小屋で再開。年が明けると本建築に取り掛かり、震災後まっさきに立ちあがった店として神田商人の耳目を集めた。
 しかし、神田にかつての繁栄は戻らず、大正14年には銀座に店を出した。その10年後、銀座数寄屋橋通りの四つ角(現在のソニービルの角)に進出。この店が空前の大盛況となる。
 この銀座時代、華太郎はあらゆるすしを考案して新発売した。生ものの珍しいタネを考案したのはすし栄が初めだったという。明治末まで、すしのタネは全部、火を通した。魚、貝類もさっと湯にくぐらせる、煮付ける、醤油か酢につける保存食だった。
 すし栄には武者小路実篤、宮本百合子、岡本かの子らの作家をはじめ、佐野周二(俳優)、中村メイコ(女優)ら有名人が次々訪れた。漫画家の横山隆一も常連で、のちに、すし栄のマーク(三代目華太郎がマグロをほおばって笑っている姿)をデザインした。
 昭和12(1937)年に始まった日中戦争あたりから軍需優先で物資が不足してきた。華太郎は多難な時代に備え、業界団体をつくった。物資の統制が始まってからは指導的な役割を果たした。
 警視庁からすし業界に「市内凡そ三千店のうち千店を廃業せよ」との通告がくると「無力な者から切って長たる自分が永らえるのは罪」と昭和19年に店を閉じ、組合長を辞した。
 その後、空襲で、すし栄は数寄屋橋店のほか、弟が経営する三原橋店、三男が経営する神田の総本店のすべてが焼失した。
 再建は昭和23年になってから。木挽町に25坪の家を買い、加工ずし(客が持参の米と交換につくるすし)を売った。昭和24年、株式会社すし栄発足。昭和28年にテレビ(NHK、日本テレビ)が開局すると、新し好きの華太郎はいち早くラジオとテレビですし栄のCMを流し、31年には日本テレビの料理番組のすし講座に出演した。
 昭和44年には、創業120年を機に、店を7階建てのビルディングに改築した。
 昭和50年時点で、外神田三丁目を総本店、銀座七丁目を本店とするすし栄は、19店のチェーン店を持つまでになった――。
 160年の歴史を見ると、山あり谷あり。並大抵のことでは続けられないことが分かった。

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 カウンター席に座った。

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 突き出しはあん肝。

 お品書き――。
 江戸前にぎり寿司
上         3150円
特         4200円
特上        5250円

ばらちらし
上         3150円
特         4200円
特上        5250円

板長おすすめ  3675円
 にぎり寿司八貫、かんぴょう巻、更にお好きなネタのにぎり寿司を二貫お付けします。

上鉄火丼     3675円

穴子尽くし    2625円
江戸前穴子にぎり寿司三種(煮穴子、白焼き、酒蒸し)各二貫、穴子きゅうり巻

嘉永寿司
 嘉永元年創業当時の江戸前寿司を現代風にアレンジしました。

特選嘉永寿司 4200円
づけまぐろ、小肌、白身昆布〆、煮穴子、蒸しあわび、姿巻海老、かんぴょう巻

特上嘉永寿司 5250円
特選嘉永寿司に、自家製玉子焼、煮はまぐり、蒸たこをお付けします。
お召し上がりのお客様には、お漬物、お椀、果物をお付けいたします。
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 創業当時の江戸前寿司を体験できる特上嘉永寿司を頼んだ。
 新鮮なネタもいいが、酢〆、ボイル、煮もの・・・と手の込んだ寿司は逆に新鮮(体験として)で、おいしかった。
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 果物とゼリー。

<営業時間>
本店1階
月曜日~金曜日 午前11時30分~午後10時。
土曜日 午前11時30分~午後9時。
日曜日休み。

本店2階
月曜日~金曜日 午前11時半~午後2時、午後5時~午後11時。
土曜日、日曜日、祝日休み。

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酒道場 味吉(東京・中野、居酒屋)=閉店

2012年閉店。(-_-;)

 中野駅北口。中野サンモール商店街の東に、飲食店街が広がる。細い路地に居酒屋、バー、ラーメン屋…様々な店が入り組む、雑多な街。飾り気のない気さくさ、庶民的な雰囲気が特色だ。そんな中にある酒道場 味吉(中野区中野 5-59-1 興産ビル1F、03・3388・5471)も、中野の夜の街と同じ気取らない、親しみのある飲み屋だ。
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 取り扱う地酒はなんと300種。

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 カウンターの前には日本酒の銘柄の紙がいっぱい。

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 思わず飲みたくなる簡潔なお酒の説明。

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 カウンターの奥の冷蔵庫に日本酒が保管されている。

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 地酒マップもある。味吉を紹介した「散歩の達人」2009年2月号の表紙も飾ってあった。

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 店は細長くテーブル席も壁に向かう。そこにも地酒のメニューが。

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 群馬県は――。あった!水芭蕉!

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 グラスで飲む。850円のお酒が多かった。

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 食べ物のメニュー。「これだけは食べたい」というものはないが、日本酒に合うおつまみが多い。とうふでも「とうふごま和え」「めかぶとうふ」「とうふ酢みそ和え」「ニンニクみそとうふ」「とうふ朝鮮和え」「とうふとマグロの煮物」「揚げ出しとうふ」などなど。
 「酒、おつまみの奨めは特に致しておりません。お好みのものをお召し上がり下さい」とのことだ。

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 会話とお酒が進むおつまみ。

 営業時間は17:30~翌1:00(L.O.翌0:30)。無休。

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皇居一周・城門巡り その3 大手門~平川門~半蔵門~桜田門

 大手門から平川門へ。毎日新聞社の前にある門だ。

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 平川門橋と平川門。
 千代田区観光協会によると、「内濠に架かり、一ツ橋一丁目から皇居東御苑に入る平川門前の木橋です。初めは慶長19年(1614)に架けられましたが、その後しばしば改修が行われました。現在の橋は昭和63年3月31日に改架された姿の美しい木橋(台湾ひのき製、橋脚と橋台は石、脚桁は鉄骨)で、長さ29.7m、幅7.82mです。平川門は、江戸城三丸の正門でした」「 死者・罪人を運ぶので不浄門、奥女中の通用門であったのでお局御門の名もありました。また、田安・一橋・清水の徳川三卿の登城口でもありました。門・枡形も現存しています」。
春日局(かすがのつぼね)が門限に遅れて平川門の前で一夜を明かしたという話は有名。

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 「竹橋門」とあるが、今は門はない。よく分からないのは、竹橋を渡ったところに「竹橋御門」の跡がある。二つ門があったのか?
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 千代田区観光協会によると、竹橋は「内濠に架かり、一ツ橋一丁目から代官町通りに向かう橋です。橋名の由来は、初めは竹で編んだ橋が架かっていたからと伝えられています。また、古い地図には『御内方通行橋』と記載されています」「元和6年(1620)に造られた江戸城の竹橋門のあった所ですが、門は撤去され石垣の一部と橋だけ残っています。現在の橋は、平成5年(1993)3月に補修されました。長さ51.05m、幅22.8mのコンクリ-ト橋です」。

 このまま紀伊国坂を行けば北桔橋門があるが、内堀通り沿いを歩き、清水門を目指す。
 首都高をくぐったあたりからしばらくは石垣の向こうに普通のアパート(北の丸宿舎など)が見え、石垣と著しくミスマッチ。景観上、どうかと思う。
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 清水門が見えてきた。遠くに日本武道館の建物も見える。

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 清水門と清水門橋。千代田区観光協会によると、「内濠に架かり、九段南一丁目から北の丸公園に入る土橋です。江戸城北丸の清水門の橋でした。昔、天台宗山門派の祖といわれる慈覚大師が関東に下向の途中、平川のほとりに寺を建立し、清水寺と名付けたことが門名の由来といわれています。土橋とともに門の枡形も現存しています。門は寛永元年(1624)に建築され、国指定の重要文化財になっています。清水門橋の南側は清水濠、北側は牛ケ淵です。江戸時代初期の江戸城北丸には、春日の局や千姫・阿茶の局・お勝の方など屋敷が、武家屋敷とともにありました。宝暦8年(1758)には、10代将軍徳川家治の子重好が門内に徳川御三卿の一つ清水家を興しました」。

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 清水門から北の丸公園に入れるが、九段会館の前を通って田安門へ。

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 千代田区観光協会のホームページの田安門橋の説明。
 内濠に架かり、九段北一丁目から北の丸公園に入る土橋です。現在は北の丸公園の広い入口通路になっていますので橋の感じはあまりありません。江戸時代は江戸城北丸の田安門の橋でした。昔、門のある台地は田安台と呼ばれ、田安神社があったのが門名の由来です。享保16年(1731)に8代将軍徳川吉宗の子宗武が、田安門内に徳川御三卿の一つ田安家を興しました。橋は土橋となりましたが、門の枡形は現存しています。門は元和6年(1620)に建築され、国指定の重要文化財になっています。田安門橋の東側は牛ケ淵、西側は千鳥ケ淵です。

 日本のロックバンド、Base Ball Bearの初武道館ライブが行われる前で、若者でいっぱい。
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 高麗門→渡櫓門という枡形は、桜田門と同じ。
 武道館の脇を通って北桔橋門へ。
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 千代田区観光協会のホームページの説明。
 内濠(平川濠・乾濠)に架かり、皇居東御苑の北側にあります。江戸城北桔橋門の橋で、有事に備えて橋が跳ね上がる仕組みになっていました。太田道灌の時代には、この付近が城の大手(正面)であったと伝えられています。江戸時代は門を入った所に江戸城本丸の天守閣がありました。現在は、冠木門と橋だけが残っています。
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 この橋から先、半蔵門までは警戒が厳重で門には近づけなかった。

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 首都高・代官町入り口近くにある乾門。明治になって建てられた門。16時25分。日の入りは16時40分。急がなければ。

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 千鳥ヶ淵公園を通って――。

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 半蔵門へ。

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 千代田区観光協会によると、半蔵門橋は「内濠に架かり、麹町一丁目から皇居吹上御苑に入る土橋です。橋の北側は半蔵濠、南側は桜田濠です。半蔵門は元和6年(1620)に建築されました。門名の由来は伊賀者の頭領服部半蔵正成が、伊賀組の与力30騎、同心200人を従えて、徳川家康とともに江戸に入り、麹町半蔵門辺りに屋敷を与えられ、表向きはこの門の警備に当たったことによるといわれています」。

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 三宅坂方面。夜のとばりが下りて、美しい。

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 国会前庭の時計塔が見える。

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 間もなく桜田門。

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 桜田門。17時4分。ちょうど3時間かかった。
 江戸城=皇居巡り。エキサイティングだった。

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皇居一周・城門巡り その2 桔梗門~馬場先門~和田倉門~大手門

 桔梗門の前から和田倉噴水公園の方に向かって歩き、今、内堀通り沿いにいる。

 今までは濠の外に内堀通りがあるというイメージだったが、桜田門から濠が二つに分かれており、二重橋濠沿いに行くと、外側に内堀通りが走っている。晴海通り沿いにあるのが凱旋濠。祝田橋から日比谷の交差点までが日比谷濠。左折し日比谷通りを歩くと、馬場先門の交差点がある。馬場先門からが馬場先濠。和田倉門の交差点からは和田倉濠。これらは内堀通りの外側にある。内堀通りは必ずしも濠の外を走っているわけではないのだ(と当たり前のことに感動している。無知は恐ろしい(^^ゞ)。
 城門をすべてチェックしようと歩いてきたので、桔梗門から御幸通り沿いを歩き、日比谷通りを右折し、馬場先門の交差点まで戻った。
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 今は門はなく「馬場先門跡」となっている。
 千代田区観光協会のホームページによると、馬場先門橋は、「内濠に架かり、丸の内二・三丁目の間から皇居正面に通じる土橋です。馬場先門は寛永6年(1629)に造られました。門名の由来は、門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから、朝鮮馬場の名が生まれ、馬場先の名が付けられました。橋の北側は馬場先濠、南側は日比谷濠です。日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出たため、明治39年(1906)に枡形は撤去されました。現在は石垣の一部だけ残っています」とのこと。門が撤去された訳が分かった。
 馬場先濠沿いに北へ行き、和田倉橋交差点を少し過ぎると和田倉門跡と和田倉橋がある。
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 千代田区観光協会によると、和田倉橋は「内濠(和田倉濠)に架かり、皇居外苑東側から丸の内一丁目の東京海上ビル前に通じる橋です。門名の由来は、近くに倉(蔵)があったことによります。ですから、慶長の頃までは「蔵の御門」とも呼ばれていました。元和6年(1620)に枡形が造られました。現在は枡形の石垣と橋が残っています。橋は木橋の面影を残したコンクリ-ト橋です。 和田倉門橋の南約200mの所に、行幸通りが内濠を横切っています。東京駅正面から皇居外苑に通じる道路です。この道路は、工事に大正13年8月から同15年8月まで2年間かかり、当時のお金で数十万円かけて完成しました。内濠の埋め立ては難工事であったと伝えられています」。
 和田倉橋を渡り、和田倉噴水公園へ。
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 和田倉噴水公園。15時11分。桜田門をスタートしてからほぼ1時間。
 環境省のホームページによると、「和田倉地区にある噴水公園は継続性と新たな発展をテーマとしており、民間協力も得て、皇太子殿下のご成婚を機に平成7年に完成したもので、今上天皇のご成婚を記念して昭和36年に完成した高さ8.5mに吹き上げる大噴水を再整備し、新しく造られた高さ5.5m、長さ30mの落水施設やモ二ュメン卜とを流水施設で結んでいます」「また、夜は噴水のライトアップをしており、昼間とは違った幻想的な水の風景を見せてくれます」とのことだ。

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 少し遠回りをしたが、大手門に向かう。

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 大手門橋と大手門。
 千代田区観光協会によると、大手門橋は「内濠に架かり、大手町一丁目と丸の内一丁目の間から、皇居東御苑に入る土橋です。大手門は江戸城の正門でしたから、御城入口御門橋・大手下乗橋などの別名もあります。大手門は慶長11年(1606)に造られました。橋は、江戸時代は木橋でしたが、大正年間に埋め立てられ、土橋となりました。橋の北側は大手濠、南側は桔梗濠と呼ばれています。徳川家康入国以前は、この辺りも日比谷入江が入り込み、ここに船着場があったと伝えられています」。

 ここから内堀通り沿いを歩き、平川門へ。

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皇居一周・城門巡り その1 桜田門~桔梗門

 江戸研究のスタートは、江戸城から。
 知っているようで知らない皇居の城門を巡ることにした。
 
 皇居とは。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「現在は、第二次世界大戦後に宮城(きゅうじょう)の名称が廃止された東京の江戸城跡一帯を指して皇居と呼んでいる」。
 「1868年(明治元年)に江戸が東京と改められ明治天皇が東京に行幸し江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている・現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められ天皇は一旦京都に戻った。翌1869年(明治2年)再び東京に行幸し、1877年(明治10年)には京都御所が保存され今に至る」。
 「東京の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には『吹上』と呼ばれる庭園があった。『吹上』はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(1657年)以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。皇室関連施設のうち、宮殿、宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の『吹上』、現在の『吹上御所』に建てられている」。

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 有楽町線桜田門駅で降り、3番出口を出る。14時4分。
 スタートは桜田門。『ウィキペディア』によると―。
 桜田門(さくらだもん)は、江戸城(現在の皇居)の内堀に造られた門の一つ。桜田堀と凱旋堀の間にある。昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された。特別史跡「江戸城跡」の一画を占める。なお江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多い。
 当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門とよぶようになる。外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっている。間に桝形とよばれる四角形の広場がある。この広場は門から打って出る兵の待機場所であり、また敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲から弓・鉄砲などで攻撃する。大正12年(1923年)の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修される。
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 高麗門。
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 渡櫓門。
 桜田門が二つの門で構成されていることさえ知らなかった。

 安政7年(1860年)にこの門の近くで水戸藩浪士による大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。井伊邸は現在憲政記念館の建っている辺りにあり、桜田門から西に500メートルほどの所にあった。
 年末に行ったばかりの場所だ。
 桜田門の正面(豊後杵築藩松平家屋敷跡)には現在、警視庁の庁舎がある。この事から警視庁は隠語で「桜田門」と呼ばれることもある。国道1号を挟んで法務省の赤レンガ棟が建っている。

 桜田門をくぐると広々とした皇居外苑(皇居前広場)がある。
 環境省のホームページによると、「江戸時代、諸大名の屋敷がおかれていましたが、明治に入るとこれらの屋敷は版籍奉還(明治2年)により上収されました。一時、明治政府の官衙、兵営等に利用されていましたが、伊藤博文の指示により一切のものが撤去されるとともに、多くの樹木が植栽され大広場として整備されました」「その後、明治39年(1906)には日露戦争の祝勝を記念して馬場先大通り及び凱旋(祝田)通りが開設され、大正12年(1923)には震災復興事業の一環として行幸通りが開設されました。さらに皇紀2600年記念宮城外苑整備事業(昭和14年事業開始、同18年中止)等により現況の姿に整備されてきました」「戦後、新憲法の施行により、旧皇室苑地は国に物納されましたが、昭和24年4月から厚生省所管の国民公園として一般に広く開放されることとなりました。その後、昭和46年7月1日環境庁の発足に伴い厚生省から所管が移され、現在に至っております」とのことだ。
 二重橋に向かう。

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 皇居正門(かつての西ノ丸大手門)にかかる橋は「正門石橋」。奥の鉄橋が二重橋。右奥に見えるのが伏見櫓。
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 皇居正門。普段は閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外は使われない。使用される時は皇居前広場〜正門石橋〜正門〜正門鉄橋〜宮殿というルートをたどる。(ウィキペディア)
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 環境省のホームページによると――。
 皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。 「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋を指します。 奥の橋はかつて、「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がつきました。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたものです。 これらの橋は、通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用されます。

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 坂下門に向かう。丸の内、大手町のビル群が見える。

 丸の内とは。『ウィキペディア』によると、「皇居外苑と東京駅に挟まれた地区で、東京駅を中心に、隣接する大手町と共にビジネス街として発展している。丸の内ビルディング、新丸の内ビルディング、三菱東京UFJ銀行本店ビル、郵船ビルなどの、大手銀行や三菱グループを中心とした大企業のビルが建ち並び、日本の金融・経済の中心地の一つとなっている」。
 「徳川家康が1590年に江戸城を居所とする前は、東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていた。1592年からこの入り江が埋め立てられて江戸城が拡張された。新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。親藩や譜代大名の藩邸が24あったため『大名小路』とも呼ばれた。南北町奉行や勘定奉行の奉行所、評定所も置かれた」。
 「明治維新後、官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などとなった。1890年にこれらが移転したあと、三菱の岩崎弥之助に150万円で売却され、三菱ヶ原と呼ばれた。このため、この地区には三菱グループ各社の本社が置かれ、界隈のオフィスビルは三菱地所が所有しているものが多い」。

 丸の内は海だったんだ(汗)。

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 坂下門。かつては西の丸への通用門。現在は宮内庁への出入り口。

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 坂下門から桔梗門(内桜田門)に向かう。

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 桔梗門(内桜田門)。奥に皇宮警察本部がある。警戒厳重。
 千代田区観光協会のホームページによると、「桔梗門は慶長19年(1614)に造られました。門名の由来は最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から付けられたといわれています。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれています」とのことだ。

 ここまで来てふと疑問に思う。桜田門をくぐり二重橋濠、蛤濠づたいに門を巡ってきたが、その外側にも凱旋濠、日比谷濠、馬場先濠があるので、門があるはずだ。今は、どうなっているのだろう?
 皇居の濠は皇居を丸く囲んでいるとばかり思っていたが、城門を巡っていて、「の」の字を裏返したような形の濠であることにも気づいた(地図参照)。
 桔梗門から大手門に行く前に、同じ内堀でも外側にある内堀に行ってみた。

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謹賀新年

 今年も、群馬県で開催される「ニューイヤー駅伝」を見ながらブログを書いている(ソフトバンクの駅伝連動CMが面白かった)。
 
 2010年。21世紀の最初の10年の最後の年なのだが、1月1日付の日経によると、2010年は「2010年代」の始まりとのこと。始まり、の方がなんか元気が出るので、そういうことにしておこう。
 日経1面の特集は「日本復活の10年」。
 「平均寿命が伸びる日本。2つの見方ができる。世界がうらやむ長生き社会か、社会保障負担にあえぐ高齢化社会か。…答えは明らか--。長生きはいいことだ」「高齢化は社会にのしかかるコストとみられがちだ。しかし長寿型経済のモデルをいち早く確立できれば、それは世界が欲しがるノウハウになる。世界最速で少子と高齢化が進む日本は、実は先駆者として最も優位な位置にいる」「老いたとは思わず、若さを伸ばす。働き方や生き方を変え、自ら稼いで消費する個人を増やす」

 この考え方に賛成。高齢化社会というと負の側面ばかりが取り上げられるが、高齢者が大切になる時代、悪くはないと思う。

 今年の年賀状。
 例によって30日に書き、31日に出した。
Nenga2010
 トラトラトラ。
 寅とは何ら関係ないが、寅年なので、トラトラトラにした。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると―。
 トラトラトラは、太平洋戦争の始まりである日本軍の真珠湾攻撃成功を伝えた電信。意味はワレ奇襲ニ成功セリ。ハワイ攻撃隊長・淵田美津雄中佐機が発した。
 符号「トラ」については、「突撃、雷撃隊」の頭文字から採用した、「虎は千里を往き千里を帰る」という言葉にちなんだなど様々な風説があるが、自身が海軍の通信士官であった作家の阿川弘之は著書『軍艦長門の生涯』の中で「実際には攻撃開始時に送信された符号「ト」(「全軍突撃せよ」)に、受発信ともに容易で誤りの発生しにくい符号「ラ」(短点3つ[…])を付加したものであろう」と推定している。また一説には、「奇襲成功」「奇襲失敗」「攻撃中止」などを表すために、符号「ト」に「ムラサキ」という言葉の一音ずつを付加した「トム」「トラ」「トサ」「トキ」という4種類の符号が用意されていたともいう。

 常識に囚われず=刻んだりせず
 核心を捉えて=ダフったりせず
 新しいことにトライしたい=90切りにトライしたい

 といった感じで、どのようにも解釈できるあいさつにした。
 「謹賀新年」・・・などの言葉はシンプルにするため省いてしまった。

 今年はアタマもカラダも昨年の倍、使いたい。
 インターネットのおかげで、「事前情報」の入手が容易になった。事前に情報を調べ、飲み食いも、もっと体系的にしたい。その街や食べもの自体が理解できるような店を厳選する。
 江戸という町は実に効率的に作られていたらしい。その一端を知るために江戸の研究もしたい。東京のルーツをまず調べる。そして、日本を知り、世界を知るステップにつなげたい(海外は数年行っていない。寂しい・・・)。
 メディア論に関しての古今東西の本も読んでみたい。
 山も、日本アルプスに行けるだけの体力を作りたい。何もしないと体力は衰えるばかりだ。
 ゴルフはそろそろアタマを使ったゴルフをしたい。
 麻雀は、また勉強し、「哲也」で新宿の常連にならなければ。

 最近感じるのは、固定観念に縛られずに、どんどん周辺に拡散していくと、かえって核心が見えてくるということだ(ブログ名を「どんどん周辺~とうとう核心」に変えようか)。一見ばらばらのぐんぐんぐんま~とうとう東京も、真実に向かってさらに拡散しながら集約していく(なんちゃって)。 

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