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日本橋七福神めぐり~日本橋の奥の深さを知る その1 小網神社(福禄寿・辨財天)~茶ノ木神社(布袋尊)~水天宮(辨財天)

 「新宿山ノ手七福神めぐり」「港七福神めぐり」に次ぐ東京七福神めぐり、第三弾は、「日本橋七福神めぐり」。

※ご開帳がある正月の日本橋七福神めぐりはこちら

 今回参考にしたのは、人形町商店街協同組合のホームページ「日本橋七福神巡りコース」の説明も簡潔でいいが、それよりも、「わが町、人形町」(現在はリンクが切れている)がいい。江戸時代の日本橋、人形町が良く分かる。

 その一部を引用する。
 「関八州の支配者となった徳川家康が江戸に下向してきたのは天正18 (1590)年のこと。早速城の再建と、街の造成に着手しました。当時、江戸城のある台地の東側には、平地と広大な湿地(汐入の干潟)が扇状に広がっていましたが、洪水のたび地形が変わる荒れはてた地域でした。江戸湊(東京湾)の水辺には16もの小島(向島、柳島、松島など現在でも地名として残っている)があり、ここを埋め立てれば、水上交通の便もよく、城に対する下の町(お城<(しろ>下<した>町)が形成されるとして、ただちに造成が始まりました。これが、現在の中央区全体と千代田区一帯の地域です。下町と言われる所以はここにありました」。
 「城造りと平行して進められた町の造成工事は、雨季の洪水に悩まされなかなか困難を極めたようです。堀割を掘って削り取った土を両側の土地に積み上げ、低地の嵩上げを行いながら整地するという一挙両得の方法で、掘割が縦横に巡らされて行きました。日本橋、京橋、神田周辺に昭和20年代まであった河川のほとんどがこの時に出来たもので、日本橋川はその代表、規模の大きな掘割でした」。
 「慶長8 (1603)年征夷大将軍となった家康は、名実ともに天下びとの威信をかけて、全国の大名に千石夫(千石に対して一人の人夫)を動員、豊島州崎の埋め立てという一大土木工事を急ピッチで推し進めました。これにより、浜町以南新橋あたまでの造成が完了し、ほぼ30数年で城下の町割りが出来上がりました。人形町もこの時期に産声を上げたのです」。

 今では想像もできないが、中央区や千代田区は埋立地の「お城下町」だったのだ。

 「江戸開府とともに、徳川幕府に忠誠を示す大名たちは次々と江戸に屋敷をおくようになり、人口は急激に増加してきました。また城の普請や、大掛かりな土木工事のために集められた人々も大挙して城下に入って来ました。人が増えれば、食料や衣料はじめ多くの生活必需物資の供給が必要になるのは当然のこと。そこで家康は、全国の商工業者に呼びかけ、『地代免除』という好条件で、江戸の城下に出店することを奨励しました。『地代免除』による商業育成の制度は、他に類を見ない徳川幕府独自のもので、『権現様御遺訓』として、江戸幕府滅亡まで守り通されました。 この時期、京都、大阪をはじめ伊勢松坂、近江八幡などの意気盛んな商人たちが続々と新開地江戸に集まり、日本橋を中心とした商業街が出来上がったのです」。
 「日本橋の北詰から江戸橋にいたる河岸にはたくさんの魚が運ばれ、魚河岸五町(長浜町、安針町、大舟町、本小田原町、室町)と呼ばれた江戸の台所。魚河岸は大正12 (1923)年関東大震災で築地に移転するまで、およそ320年、この地にありました。 また橋の東側一帯(堀留町、富沢町、大伝馬町、久松町、人形町など)は、絹や綿の着物をはじめ衣類全般を扱う繊維街が発展して行きました」。
 
 地代免除。これが江戸、日本橋発展の起爆剤となったわけだ。

 「江戸が開府され20年ほど過ぎた寛永元(1624)年、京都から江戸に下ってきた歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、中橋広小路(現在の八重洲口東より)で芝居櫓、猿若座(のちの中村座)を開いたのが江戸歌舞伎の発祥と言われています。次いで、泉州堺から来た村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、ともに人形町に歌舞伎上演の芝居小屋を建設しました。場所は現在の人形町三丁目と堀留町の辺りで、当時は堺町に中村座、葺屋町に市村座と、二つの町に大芝居あったことから通称二丁町とも呼ばれていました。周辺には人形操りの芝居をはじめ、説経芝居、浄瑠璃芝居から見世物小屋、曲芸、水芸、手妻(手品)と安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並び、大名から庶民まで身分を問わず多くの人々が、唯一の娯楽だった芝居見物を楽しんでいました」。
 「当時の大芝居見物は、芝居茶屋とセットになった一日がかりの遊興でした。劇業はほぼ2階建て小屋で、茶屋と桟敷が直結しており、まず、茶屋に上がって、昼間は(火を使う照明は許されていなかったので、夜の興行はなし)桟敷で芝居の世界にはまり、幕間には酒に肴、お茶やお弁当が桟敷に運ばれ、芝居が終わると茶屋の部屋でくつろぐといった優雅で贅沢な遊び。芝居はあらゆる流行の発信源であり、役者にあこがれ熱狂する人々の姿は、今では想像もつかないほど大変なものでした」。
 
 商業だけでなくエンターテインメントも多いに発展した。進取の気性をもった人々が江戸に集まってきたのだろう。

 「江戸の初期から、町中には武士を対象とした娼家が現れはじめ、麹町や鎌倉河岸、道三河岸の辺りに数軒づつ散在していました。慶長17 (1612)年,庄司甚右衛門の提案により、これらの娼家を一箇所に集め、廓を作り風紀を取り締まろうということになり、そこで生まれたのが江戸幕府公認の遊郭・吉原です。葺屋町東の葭や葦の生い茂っていた二町四方(約1万5千坪)の沼地が埋めたてられ、塀で仕切り一般の町屋とは隔絶された廓をつくりあげ、町中に点在していた娼家を移しました。はじめは葭原と呼ばれていましたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と呼ばれるようになりました。廓の内は5つの区域に分けられ、それぞれに町名がつけられていました。芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華、武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ、繁盛を極めていたようです」。
 「寛永9 (1639)年の『武州豊島郡江戸庄図』に、塀で囲まれた吉原が記されていますが、それによると現在の人形町通りから竃(へっつい)河岸沿いに元浜町川に出て、北に向かい富沢町の中ほどから西に曲がった一区画。明暦3年の大火で廓のほとんどが焼失し、この地での営業はおよそ40年足らずで、浅草に移ってしまいますが、吉原の大門に通じる街路の名残りとして”大門通り“の名称が今も残っています」。

 吉原は日本橋にあったのだ。江戸の文化や産業は、ほとんどが、日本橋で始まったのだ。

 日本橋への関心が高まったところで、日本橋七福神、スタート!


より大きな地図で 日本橋七福神 を表示

 日本橋七福神詣は、すべて神社で占められているのが特徴。狭いエリアに神社が集中しているので、巡拝は短時間で済む。
 スタートはどこからで構わないということだ。グループで回る時は、どの神社にも近い人形町駅に集まるのが正解ではないだろうか。いい場所がある。COFEE ロンだ。
 喫茶店を開く前に、ご主人の祖先が代々、様々な商売を営んできたという。人形町で11代続く。初代が天明元年(1780年)馬具屋を始め、次いで両替商を営んだ。唐物屋を経て、昭和40年にCOFFEE ロンを開いたという。
 営業は朝8時から。ただし、日曜日は休みだ。

 ロンでモーニングを食べ、小網神社から反時計回りで七福神めぐりをすることにした。10時40分、ロンを出た。
 ロンから小網神社までの道は地図で示す。

 ロンを出て右。最初の通りを右に行って、あとはまっすぐ。10時46分、小網神社に着いた。
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 小網神社―福禄寿・辨財天 中央区日本橋小網町16-23、03・3668・1080
 日本橋七福会のパンフレットが置いてあった。わかりやすい地図もあり、便利。神社の簡単な説明は以下、このパンフレットから引用。
 福禄寿は福徳金運長寿の神、辨財天は金運学芸の神で、東京銭洗い辨天でも有名です。当神社は、強運厄除けの総本社で、約550年前鎮座した古社です。5月の大祭には一之宮二之宮神輿が渡御し賑わいます。また、
11月のどぶろく祭は奇祭として有名で、強運厄除のみみずくも正月まで授与されます。

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 神社に置いてあったパンフレットによる詳細な説明。
 小網稲荷神社略縁起
 武蔵国豊島郡入江の辺に萬福庵と称し、観世音と辨財天とを安置する庵があった。この庵は、恵心僧都の開基により、その観世音と辨財天とは僧都の作と伝えられている。開基の年代は明らかではないが、僧都の当時を考えれば、およそ一千年前ということになろう。
 その後文正元年(1466)悪疫が流行して人々の困苦その極に達した。その頃、網師の翁、海上にて得た稲の穂を持って庵を訪れ、数日庵に過した。ある夜、開基の恵心僧都が庵主の夢枕にたち、翁を稲荷大神と勧請すれば、一村の悪疫消滅することを告げて夢より去った。夜明けて庵主は翁を尋ねたが、その姿を見ることができなかった。庵主はその託宣を村民に告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建し日夜祈願をつづけた。その後日ならずして悪疫静まり、人々の歓喜たとえるものがなかったといわれる。
 その後、領主太田持資公(道灌)は、神徳著しきことを聞き、庵を訪れ、神社に詣で、土地を寄付し、小網山稲荷院萬福寺と名づけたと伝える。
 その後慶長年問より、この地を当神社に因んで小網町と名づけ、当神社を氏神と崇めた。
 明治に入り、神仏分離の令により、萬福寺と分離、明治6年7月5日、村社に指定された。
 現社殿・神楽殿は、大正期、明治神宮造営の工匠長、内藤駒三郎宮大工一門により昭和4年に造営され、戦禍にもまぬがれ、現在、日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築である。特に、向拝に施された上り竜下り竜の彫刻は、見事なもので、強運厄除の竜として拝されている。社殿・神楽殿は、中央区文化財に登録されている。
 又、当社の二之宮神輿は、大江戸飾神輿と称し、大江戸飾神輿発祥の神社として知られる。

萬福舟乗辨財天社略縁起
 当辨財天は、その昔、当神社と同境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる萬福寿寺に安置されていた辨財天である。
 その後、明治初年、神仏分離の法令施行後、当神社と分離し、計らずも寺院は廃絶したため、明治2年(1869)当神社に移され、奉斉されるに至った。
 辨財天は、同寺院にちなみ、萬福舟乗辨財天と称え、現在、日本橋地区を中心に、神奈川、埼玉、千葉の近郊にまで崇敬を広げている。 又、東京銭洗い辨天とも呼ばれる。

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 正月は元日より7日まで「日本橋七福神詣」が行われる。当神社の辨財天および福禄寿は、第三の巡拝社に当り、宝船や色紙を受けて日本橋の八神社をまわる参拝者で賑わう。
 また、1月1日より7日までは「東京下町八社福参り(下町八福神参り)」巡拝社の一つとして多くの参拝者で賑わう。

 七福神めぐりだが、七福神の像などは見られないようなので、今回は、狛犬や狐にこだわる。 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると――。
 一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は左右共に角が無い物が多く、これらは本来「獅子」と呼ぶべきものである。
 阿吽(あうん、Skt:A - hum)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。

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 阿。

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 吽。

 小網神社から茶ノ木神社までは道が分かりにくいので地図で示す。

 途中、イオニア式御影石の列柱が見事な東京穀物商品取引所の建物(昭和4年建築)などもあり、歴史のある街なのだな、と感じた。
 茶ノ木神社はビルの谷間にあった。11時17分。

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 茶ノ木神社―布袋尊 中央区日本橋人形町1-12-10
 神社の周囲に巡らされた茶の木の緑が見事でこの名がついたと伝えられています。又、佐倉城主の屋敷内はもとより町方にも火災がなかったので火伏の神といわれています。布袋尊は福徳円満の神として信仰されています。

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 神社にかかげられてあった説明。
 茶ノ木神社(布袋尊) 
 「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は、倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝の茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころからか誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して、一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和60年布袋尊を御遷座合祀り申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。

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 阿。
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 吽。 

 次の水天宮はすぐ近く。11時22分。
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 水天宮前交差点。交番も神社の一部のように見える。
 水天宮―辨財天 中央区日本橋蛎殻町2-4-1、03・3666・7195
 有馬頼徳公が、加賀百万国の前田公と能の芸を競われることになり、辨財天に願をかけられ、満願の日にめでたく勝つことができたましたので宝生辨財天ともいわれます。御像は運慶の作といわれ、芸事や学業貨殖に霊験あらたかといわれています。

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 社務所でいただいたパンフレットより。
 水天宮由緒記
 水天宮のご祭神
【天御中主大神】あめのみなかぬしのおおかみ
 天地の最初に出現された、宇宙の根源の神様です。日本の神々の祖先神であり、水天宮の子授け、安産祈願に広大無辺のご神徳を発揮されます。
【安徳天皇】あんとくてんのう
 高倉天皇と建礼門院の第一皇子として、1178年にお生まれになりました。生後1ヶ月で皇太子となり、わずか3歳にして第81代天皇に即位されました。
 祖父・平清盛の死後、源氏に追われて各地を転々とし、ついに1185年、祖母の二位の尼に抱かれ、壇ノ浦の海に身を投げられました。
【建礼門院】けんれいもんいん
 平清盛と時子(二位の尼)の次女として1155年お生まれになりました。高倉天皇の母となられます。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水されましたが、助けられ、京の長楽寺で剃髪。余生を大原の寂光院で送り、1213年、生涯を終えられました。御名・徳子。
【二位の尼】にいのあま 平清盛の正室。宗盛、知盛、重盛、徳子の母君。清盛の死後出家し、従二位に叙せられたので二位の尼と呼ばれます。孫の安徳天皇と京都から西へ逃れ、壇ノ浦で入水されました。御名・時子。

 水天宮の由来
 水天宮(本宮は福岡県久留米市瀬下町鎮座)の発祥は、今から約700年前にさかのぼります。
 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇は祖母の二位の尼に抱かれて入水されました。官女の按察使局は「我等の霊を慰めよ」という二位の尼の命したのがをうけ、筑後川の辺に小さな祠を建てて、その御霊をお祀りしました。これが水天宮の起源といわれています。
 その後、久留米市藩主有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に敷地が寄進され、現在に至ります。
 東京の水天宮は、文政元年に参勤交代のため江戸詰をしていた当時の藩主有馬頼徳公が、久留米水天宮からの御分霊を、江戸屋敷内(現在の港区・芝公園)にお祀りをはじまりです。本来屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は篤く、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったため、毎月5日の縁日に限り屋敷を開放して、一般の参拝を許可しました。人々は情け深い事を感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て「なさけ有馬の水天宮」と口癖のように言い合い、江戸の流行り言葉となるほどでした。
 水天宮は明治4年、屋敷の移転と共に赤坂に移り、その翌年現在の日本橋蛎殻町に移転しました。
 日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。
 その後、大正12年の関東大震災で社殿は焼失しましたが、御霊代は隅田川にかかる新大橋に奉遷され無事でした。(その時の模様を記した石碑が新大橋の側に建てられています)現在の権現造りの社殿は、昭和42年11月に建てられたものです。
 ご利益としては安産・子授けはもちろんのこと、水難除け・渡航安全の神様として有名です。
 境内には「火風神社」「秋葉神社」「高尾神社」、芸能・貨殖の神「辨財天」、幕末の勤皇の志士で水天宮の第二十二代宮司真木和泉守保臣を祀る「紫灘神社」が鎮座しております。

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 阿。

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 吽。

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 社殿。

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 すごい賑わいだった。

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 宝生辨財天
 祭礼日 五月第二巳ノ日
 御祭神 市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)

 久留米藩第九代藩主有馬頼徳(よりのり)公が
 加賀藩第十一代藩主前田斉広(なりなが)公と
 室生流能学の技を競われた際
 辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた
 それ以来、宝生辨財天と敬われ
 芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと
 現在に至るもで篤く信仰されている

 毎月5日と巳の日には
 ご社殿の扉が開き
 宝生辨財天のご神像を拝観できる

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 水天宮の後ろを通って、松島神社へ。

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