新宿山ノ手七福神めぐり~毘沙門天(神楽坂)の仲間に会いに行く
「新宿山ノ手七福神めぐり」をすることにした。まずは公式ホームページで知識や情報をチェックする。地図も用意されていて役に立つホームページだ。
所要時間は徒歩で約150分。
「コースの指定はございません。お好きなところからおまわりください」とのことだ。
<新宿方面からまわる場合の一例>
恵比寿神|稲荷鬼王神社
→布袋和尚|霞関山太宗寺
→寿老人|春時山法善寺
→福禄寿|大久保山永福寺
→辨財天|厳嶋神社
→大黒天|大乗山経王寺
→毘沙門天|鎮護山善国寺
毘沙門天の善国寺以外は行ったことがない。毘沙門天の仲間に、ぜひとも会いたい。
より大きな地図で 新宿山ノ手七福神めぐり を表示
七福神については、東京街歩き委員会著 『東京七福神めぐり』 (NHK出版・生活人新書、2002年12月10日第一刷発行)が詳しい。
それによると、「七福神とは、恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七神を指しますが、その顔ぶれは時代によって異なり、今のような顔ぶれになったのは江戸中期といわれています」「ではなぜ七神なのでしょうか?時代は室町時代までさかのぼります。七福神信仰が生まれたのがちょうどこのころといわれています。『仁王般若経』という仏教経典に、『七難即滅、七福即生、万姓安楽、帝王歓喜』という言葉が見られます。…ここから七という数が生まれたといわれます」「東京の七福神めぐり…最も古いものは谷中七福神で、江戸時代は谷中七福神、山手(目黒)七福神、向島七福神の3つだけでした」。
基本的な知識は得たので、さっそく回ってみよう(七福神の説明、及びイラストは公式ホームページより)。
①恵比寿神(えびすじん)|稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)
恵比寿神
日本古来の神様。大国主命の子息、事代主命(コトシロヌシノミコト)が恵比寿神であるといわれ、古来より福を表す「鯛」と、福を釣るという「釣り竿」を手に持っており、海の守護と商売繁昌の神様として、親しまれている。
区役所通り(新宿・歌舞伎町の歓楽街)を北に向かって歩き、職安通り(鬼王通り)にぶつかる手前右に、ひっそりと稲荷鬼王神社(新宿区新宿2-17-5、03・3200・2904)がたたずむ。10時3分。
主祭神)宇迦之御魂神、鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)、旧大久保村の神々
創建)稲荷神社:承応2年(1653年)、鬼王神社:宝暦2年(1752年)
例祭)9月18日
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、稲荷鬼王神社は「 JR新大久保駅の南東約400Mに鎮座する。全国唯一の鬼の福授けの社として信仰を集め、『撫で守り』の授与で有名である。皮膚病・その他病気平癒に御利益がある。境内の三島神社に祀られている恵比寿神は新宿山ノ手七福神の一つである」「天保2年(1831年)、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。熊野の鬼王権現は現存していないため、『鬼王』の名を持つ日本唯一の神社となっている。また、大祭で担がれる宮御輿は、鬼面が彫られた珍しいものである」。
開運恵比寿神社(三島神社)。
かえる石。恵比寿様をお参りしてから手水から柄杓でこの石に水を掛け、次に石をさすりながら、心の中で次の言葉を三度唱える。
一日の無事を願う人、或いは交通安全や旅行安全を願う人は『無事かえる』
開運を願う人は『良き運にかえる』
金運を願う人は『金かえる』
縁結びを願う人は『想いの人の心が自分にふりかえる』『待ち人かえる』
健康を願う人は『若がえる』
あらゆる願いを『か(な)える』
その後もう一度、恵比寿様にお参りする。
恵比寿神社の水琴窟。
稲荷鬼王神社。
天水琴。
追記2010.9.19)午後、訪ねると、地元のイベントで盛り上がっていた。1月に訪ねた時と印象が異なるので写真を追加する。
②布袋和尚(ほていおしょう)|霞関山太宗寺(かかんざんたいそうじ)
布袋和尚
中国出身の禅僧。実在した人物です。つねに布の袋を背負い、この中に福財が入っていたといわれています。笑顔を浮かべた円満な容姿をしており、親しまれております。
明治通り、新宿通りを通って霞関山太宗寺(新宿区新宿2-9-2、03・3356・7731)に到着。10時37分。
パンフレットによると――。
太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前進で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。
これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
内藤家は七代清枚以降は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
現在も、毎年お盆の7月15日・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を排しています。浄土宗の寺院です。
◇ ◇ ◇
太宗寺門のあるあたりには「内藤新宿」が開設され、そこから、「新宿」という地名が生まれたという。これについても、太宗寺のパンフレットが解説している。
甲州道中と内藤新宿
甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行った五街道(ほかに東海道・中仙道・奥州道中・日光道中)のひとつで、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄10年(1697)に同志4名ととも、太宗寺の南東に宿場を開設するよう、幕府に願いを出しました。
なぜ喜兵衛らが宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設に際し運上金5600両を納めることを申し出ました。
この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷地などを返上させて、これにあてました。
こうして「内藤新宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。善兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました。
宿場は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)の約200m西から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設)などがありました。
「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、その繁栄を支えたのが旅籠屋でした。ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました。
このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。
◇ ◇ ◇
このお寺は文化財が多い。
銅造地蔵菩薩坐像。東京都指定有形文化財(彫刻)。
銅像で像高は267cm。深川の地蔵坊正元が発願した「江戸六地蔵」の3番目として正徳2年(1712)に造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義です。
なお、像内には小型の銅造地蔵6体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
「江戸六地蔵」各像には寄進者の名前が刻まれており、その合計は72,000名以上におよんでいます。
「江戸六地蔵」 品川寺(品川区)・東禅寺(台東区)・真性寺(豊島区)・霊巌寺(江東区)・永代寺(江東区・地蔵は現存しない)・太宗寺
閻魔像。新宿区指定有形民族文化財。
木造で、総高は550㎝。文化11年(1814)に安置されたもので、製作もその頃と推定されます(関東大震災で大破し、体は昭和8年に造り直したもの)。
江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめた像で、かつては薮入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらえる日)に縁日が出て賑わいました。
また、弘化4年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。
不動堂。
布袋尊像が祀られている。
③寿老人(じゅろうじん)|春時山法善寺(しゅんじざんほうぜんじ)
寿老人
中国出身。福禄寿と似たもの同士で、寿老人は老人星の化身です。不老不死の霊薬を所持していることから、こちらも長寿の神として親しまれております。
靖国通りの新宿一丁目北交差点を北上。交番のところで右折。しばらく行って、まねき通りに入り、北上。左に、春時山法善寺(新宿区新宿6-20-16、03・3351・4080)がある。11時3分。
新宿区観光協会のホームページによると、法善寺は「日蓮宗の寺院で、正式名を『春時山光晴法善寺』」といいます。山の手七福神のひとつ『寿老人』をまつるほか、本堂には保存状態も良好な極彩色の『七面明神像』(新宿区指定文化財)が安置されています」。
寿老人をまつっている。
寿老人。
追記2010.9.19)9月に再訪。ススキがきれいだった。
コース一例の順番では福禄寿が先だったが、まねき通りを上ると辨財天を祀った厳島神社があったので先に行った。
④辨財天(べんざいてん)|厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)
辨財天
神道では古事記に出てくる神。市杵島媛命と申し上げ水の神様であります。七福唯一の女性。田畑の農作物にとって、最も重要な水を供給するので、五穀豊穣の守り神といわれています。女性であるため、江戸時代は、富貴の神として庶民の人気を高めました。
厳嶋神社(新宿区余丁町8-5)。11時12分。
現地にあった説明書きによると――。
厳嶋神社・抜弁天
一.由来
白河天皇の御代、応徳3年(1086年)、鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上、この地に立ち寄り、遠く富士を望み、こに宿営した。 この地はこの地域で最も高い場所であり、かつては富士山もよく見えたようで、この時、義家も遠く富士山を望み安芸の厳島神社に戦勝を祈願した。義家は奥州鎮定後、その御礼の神社を建て、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)
二.江戸時代
参道は南北に通り抜けでき、また、苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。
江戸幕府の地誌 大久保絵図(安政4年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
徳川綱吉の「生類憐みの令」により、この附近に2万5千坪の犬小屋が設けられていた。
厳嶋神社でのご朱印等の受付は正月7日まで。以降は西向天神社<にしむきてんじんしゃ>(新宿区新宿6-21-1、03・3351・5875)へ。
追記2010.9.19)前回訪ねた時に龍の写真を撮り忘れたので1枚。
追記2011.1.3)ご開帳があると思って訪ねた。
こんな感じのさぞや美しい弁天様が拝めると思ったのだが――。
扉は開いていたが簾が掛っていてお姿が見えない。
┐(´д`)┌ヤレヤレ
⑤福禄寿(ふくろくじゅ)|大久保山永福寺(おおくぼざんえいふくじ)
福禄寿
中国出身。南極星の化身で、短身・長頭の姿をしています。年令も数千年を越すほど保持しているといわれていることから、長寿の神として親しまれております。
抜弁天から職安通りを渡ってすぐの場所に、大久保山永福寺(新宿区新宿7-11-2、03・3203・8910)を訪ねた。11時19分。
新宿区観光協会によると、永福寺は「曹洞宗の寺院で、大久山永福寺という。慶安元年(1648)創建と伝えられる。永福寺の門を入ると、新宿区には珍しい金銅の仏像と菩薩像とが静かに迎えてくれる。一つは宝暦6年(1756)建立の大日如来坐像で、像高1.17メートル、権大僧都亮長の発願によって、長谷川国得により鋳造された」「他の一つは地蔵菩薩の半跏趺坐(左脚を垂れ、右脚を曲げて腰かける)像で、像高は1.08メートル。こちらには建立の事情が細かく刻まれ、発願主が前天正寺全戒、化主が祖俊光道長老・黙道戒音長老・現永□□(不明)成純、鋳物師が粉川一正で、嘉永6年(1853)4月に造立されたことがわかる」。
『東京七福神めぐり』によると、「ここの福禄寿は自然石そのままの尊像で、豊香園という植木業者から寄進されたものだ。江戸末期、植木師だった源蔵が信州善光寺の参詣の帰り道で、福禄寿に酷似した一つの奇石を見つけて持ち帰り、家宝とした。すると日を追うにつれて家運が興隆した」とのことだ。
追記2010.9.19)9月に再訪。自然石だけでなく、福禄寿の像もあったので、2枚の写真を追加する。
⑥大黒天(だいこくてん)|大乗山経王寺(だいじょうざんきょうおうじ)
大黒天
インド出身。貧しき人、難民の救済をかって出た心やさしい神様。全身の色が黒く大きな福徳を授けるので、大黒天と呼ばれています。経王寺の大黒さまは、慶長三年(1598)現在地に安置され、霊験も多く大願成就のご利益があると、庶民の間で親しまれております。
次の七福神までは距離がある。若松町を過ぎ、坂を下って市谷柳町に行く手前右に、大乗山経王寺(新宿区原町1-14、03・3341・1314)があった。11時42分。
パンフレットによると――。
大乗山経王寺(だいじょうざんきょうおうじ)は、慶長3年(1598)に当時は武蔵国豊島郡(むさしのくにとしまごおり)市ヶ谷田町と呼ばれていたところ(現・新宿区市谷田町)に、尊重院日静上人(そんじゅういんにちじょうしょうにん)という僧によって開創されました。
日静上人については、越中国(富山県)または甲斐国(山梨県)の人で、寛永7年(1630)7月17日に示寂したことのほか、一切が不詳です。ただ、日蓮聖人の高弟である中老僧(ちゅうろうそう)・日法(にっぽう)上人作の大黒天像を身延山(みのぶさん)から江戸に移し、経王寺に安置したことは古記録に明らかです。
明暦3年(1657)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)がきっかけとなって、寛文5年(1665)頃から、江戸城を火災から護るための外濠の開削、見附の普請が着工されました。
このため、寛文8年(1668)に経王寺境内地は「御堀御用地」となり、市ヶ谷川田久保町に移転しています。
さらに天和2年(1682)には、近隣からの出火で、経王寺は類焼しました。寺地は幕府の「御用地」となり、牛込原町の古跡地を拝領し、現在地に移転しました。江戸時代も元禄年中(1688~1703)に入ると、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになります。経王寺の開運大黒天が世に知られだしたのも、この頃です。
つづく享保10年(1725)には青山久保町からの出火で経王寺は類焼し、所蔵諸書の悉くが灰燼と帰してしまいましたが、諸堂宇は直ちに再建され、火難を逃れた大黒天像をはじめ諸尊像は無事に安置されました。享保14年(1729)には、堂舎、諸尊の再建、改修が為されています。
天保7年(1836)、雑司が谷鼠山(現・目白台一帯)2万8000余坪の地に、豪壮な長耀山感應寺(ちょうようざんかんのうじ)が建立されました。時の十一代将軍・徳川家斉の還暦祝賀のための造立でしたが、天保12年(1841)に「天保の改革」の一環として、この大寺は政治的に廃寺と決まり、いわゆる「感應寺廃寺事件」が起こりました。
市ヶ谷田町に住み、熱心な日蓮宗信者であった畳職人・小嶋太兵衛は、この廃寺事件に悲憤し、永年にわたって寺社奉行にその再建を訴えつづけました。しかしその訴えは取りあげられず、ついに文久3年(1863)1月25日に、太兵衛は菩提寺である経王寺において、愛用の畳包丁で割腹自害して果てました。
太兵衛の壮烈な死は衝撃を起こし、幕末の混乱期にあった寺社奉行は感應寺の再建を許し、筑土・感應寺が再建されましたが、この寺もほどなく潰寺となってしまいました。
慶応4年(1868)、江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立すると、神仏分離令が発令され、全国に廃仏毀釈運動が広まります。多くの寺院や仏像、仏具が破壊され、廃寺や無住となる寺院が続出しました。
しかし、この困難な時期も、経王寺は檀信徒とともに寺門を守り続けました。明治10年(1877)4月12日に、経王寺はまたまた回禄の厄に遭い、諸堂宇はすべて灰燼と帰してしまいました。しかし幸い、大黒天像をはじめとする諸尊像は難を逃れています。
その後、経王寺は歴代住職と壇徒家の尽力によって、罹災の打撃から立ち直り、大正・昭和の時代を経て、現在も檀信徒と共に生きるお寺として新たな歴史を歩んでいます。
経王寺の大黒天像について説明書きがあった。
新宿区指定有形文化財(彫刻)。
山の手七福神のひとつで日法上人の作、慶長3年(1598)に甲斐国身延山より移されたと伝えられる。
高さ12センチの木彫立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち台座に乗る通規の様式だが、江戸時代のものと異なり、微笑面ではなく厳しい表情をしている。
室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから。「火伏せ大黒」として崇敬されている。
説明とは異なり祀っている大黒天を見ると微笑んでいる。
聞いてみると、微笑んでいるのは別の大黒天で奥に厳しい表情の大黒様がいらっしゃるそうだ。
追記2010.9.19)小槌が用意されている。3回振って願いを唱える。
⑦毘沙門天(びしゃもんてん)|鎮護山善国寺(ちんござんぜんこくじ)
毘沙門天
インド出身。「毘沙門天王経」の中に、自分を信仰すれば、福徳・知恵・美貌・力・能弁など、十種の利益があるといわれています。毘沙門とは多聞と訳し、多くの人々の願いを聞いて叶えさせるといいます。また天の四方を守護する四天王の随一に数えられ、インド神話では福の神としての性格がよく表明されています。
最後の七福神を祀る鎮護山善国寺(新宿区神楽坂5-36。03・3269・0641)に到着。12時8分。
ホームページによると、毘沙門天善國寺の沿革は――。
善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄4(1595)年で、今からおよそ400年を遡る。
初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方である。上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから9年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた。ここに毘沙門天を奉安する、名刹・善國寺が誕生したのである。
徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文10(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったのである。
当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政4(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。今から約200年前のことである。尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により。往時を偲ぶことができる。
毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門》の威光は倍増していった。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。
明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。
昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである。
毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様、ないし仏法を守る役目を担い、四天王の随一として北方守護を司る。また、多聞天とも号し、文字通り、参詣者の願い事を《多く聞いて》下さり、七福神のお一人として、日々福を授けて下さっている。
入って左側に毘沙門天が祀られているが、見ることはできない。
善國寺の毘沙門天像について外に説明書きがあった――。
新宿区指定有形文化財(彫刻)。
「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座(いわざ)に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。
善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。
別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。
善國寺の毘沙門天は。江戸の三毘沙門天と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・5月・9月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。
この七福神めぐり、グループで回るならば、霞関山太宗寺からのスタートがいいかもしれない(集合場所は新宿御苑駅周辺の喫茶店)。その後、稲荷鬼王神社→春時山法善寺と回る。
善國寺は賑わいがあり、七福神めぐり最後のお寺にふさわしい。
神楽坂には休息をとる良い喫茶店も多い。カフェ ルトゥールで少し休んだ。
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