冬木弁天堂から心行寺までの行き方。冬木交差点へ戻り直進。深川一丁目交差点を右へ曲がると角から3軒目が福禄寿(所要時間5分)。 10時43分。

心行寺(深川2-16-7、03・3641・2566)
深川七福神:福禄寿(人望福徳)
「浄土宗 心行寺」のパンフレットによると――。
双修山養源院と号し、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。
寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。
「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時間口42間、奥行42間、1764坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。
往時は影窓院・正寿院の二つの末寺があったが、その後合併された。
旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度烏有に皈した。
現本堂は浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成したものである。

福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されている。パンフレットによると――。
福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
一説には中国の宋の時代、嘉祐年間に実存した道士であるといわれています。
福禄寿は背たけが低く頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をして、年齢数千歳ともいわれています。
また、福(幸福)と禄(高給生活の安定)と寿(長命)の3つの福徳をさずける福神ともいわれています。

説明書きがあった。
不求自得―自然に徳がそなわる―
この福禄寿の尊像の中には当寺書院移築の際土中より発見された戦災前の福禄寿の土偶が収蔵されています。手にする宝珠にふれて円満な人格をいただくようおねがいいたしましょう。福徳は自然に身についてくるものです。
福寿海無量 是故應頂礼
さて、人格が円満になるかどうか??
心行寺から円珠院までの行き方。心行院を出て右へ。左に採茶庵(芭蕉奥の細道出発点)を橋のたもとに見ながら海辺橋を渡り、三叉交差点の右斜めの道へ。直進し、突き当たり右側角が円珠院(所要時間10分)。

途中、滝沢馬琴誕生の地を通った。以下の説明を参照してほしい。

写真をクリックすると大きな画像で読めます。

円珠院(平野1-13-6、03・3641・0491)
深川七福神:大黒天(有福蓄財)
11時7分到着。

パンフレットによると――。
円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15年末(1730年)に此の寺に葬られました。
享保5年(1720年)11月13日画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造りの破顔大黒天が安置されています。江戸時代から、深川の大黒天として有名でした。

パンフレットにはさらに大黒天についても詳しい説明があった。
大黒天信仰には二つの流れがあります。一つは、大黒天を大国主命とする流れ、これは多く神社に祀られています。もう一つは、インド名をマハカーラという仏神の大黒天、これは多く寺院に祀られています。
円珠院に安置されているのは、仏神の大黒天です。インドのシバ神が、悪神を退治した神話から、仏教に取入れられ、摩訶迦羅天すなわち大黒天となり、夜叉茶吉尼衆を降伏する大日如来の化身となり、忿怒の戦闘神の姿をしていました。ところが大黒天はしだいに招福の神となり、忿怒の相が、笑顔の姿になり、台所財宝糧食をつかさどる大黒天となりました。
わが国でもっとも古い有名な大黒天は、比叡山の出世大黒天といわれる三面六臂の大黒天です。正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁財天、これは大黒天が降魔と施福の二つの面を持っているのを表したものです。その後は、大黒天は施福の一面のみが、強調され、信仰されるようになりました。
大黒は大国に通じ、大国主命に統合して福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになりました。小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることをあらわし人々に財宝を授ける福神であります。米俵に縁のあるところから、鼠は大黒天の神使いになっています。子の日、特に甲子の日は大黒天の祭日となっています。

厨子子の中の大黒天像。
円珠院から龍光院までの行き方。円珠院斜め前交差点を左に。左手に浄心寺を見ながら平野二丁目交差点を左折し、直進。(途中、左手に間宮林蔵の墓)。少し歩くと左側角に龍光院(所要時間10分)。

途中、間宮林蔵の墓があった。以下の説明を参照のこと。

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龍光院(三好2-7-5、03・3642・3437)
深川七福神:毘沙門天(勇気授福)
11時34分到着。

龍光院は、江東区のホームページによると、「浄土宗。はじめ、馬喰町(中央区)に創立されたが数回の火事にあい、天和2年(1682)現在地に移転してきました。その時、鬼門除けとして境内東北角に毘沙門天を安置したと伝えられています」。

阿弥陀三尊の隣に安置される毘沙門天。
龍光院から深川稲荷神社への行き方。龍光院を出て左に。阿茶の局の墓で有名な雲光院を左手に見ながら次の信号を左に曲がり深川江戸資料館通りへ。右手に深川江戸資料館。次に松平定信の墓がある霊巖寺を見ながら清澄通りに出る。通りを横断して右に進み一つ目の角を左に入る。右手に本誓寺を見ながら清澄庭園入り口の交差点を右折し、清洲橋通りを横断。左に深川稲荷神社(所要時間15分)。

途中、深川江戸資料館の前を通る。

大規模改修工事のため、今年の7月23日まで休館。
リニューアルオープン後に行かなければ。

深川稲荷神社(清澄2-12-12、03・3641・8059)
深川七福神:布袋尊(清廉度量)
12時到着。

江東区のホームページによると、深川稲荷神社の「創立は寛永7年(1630)です。この付近の旧町名を西大工町と称したので、西大稲荷とも呼ばれます」。
詳しい説明は碑を参照。

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狐。阿。

吽。

布袋様。
深川稲荷神社から深川神明宮までの行き方。深川稲荷神社を出て右へ。2つ目交差点を右折し万年橋を渡る。芭蕉記念館の向いの道を右へ。直進し左手に寿老神(所要時間10分)。
これで七福神めぐりは終わりなのに、おなかがすいて、途中にあった割烹みや古(常盤2-7-1)に寄ってしまった。

深川神明宮(森下1-3-17、03・3631・5548)
深川七福神:寿老神(延命長寿)
昼食をゆっくりとったので、到着は13時17分。

深川神明宮のホームページによると――。
深川の神明さまのはじまり
今からおよそ400年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。八郎右衛門は神さまを敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。これが、深川神明宮の起源です。そして深川の地の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになり、今日に至りました。
神明さまとお伊勢さま
神明さまのご祭神(おまつりしている神さま)は天照大御神さま、伊勢神宮の内宮の神さまです。天照大御神さまをお祀りした神社を「神明さま」といい、全国にはたくさんの神明社があります。伊勢の神宮との深い繋がりから、第59回のご遷宮の際には、御鏡・御太刀・御盾のご神宝をいただき、ご本殿に大切にお納めしています。
また、当宮のご鎮座40年祭に当っては、第61回のご遷宮のときに解体した内宮東方殿の御柱が撤げ下され、当宮儀式殿の玄関にお飾りしています。
神明宮にあった説明。

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阿。

吽。

寿老神を祀った寿老神社。

食事時間も入れて、13時21分、深川七福神めぐり終了。
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