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深川七福神めぐり~「江戸を映す街」を歩く その1 深川を知る~富岡八幡宮(恵比寿神)~冬木弁天堂(弁財天)

 今年から始めた東京七福神めぐり。これまで「新宿山ノ手七福神めぐり」「港七福神めぐり」「日本橋七福神めぐり」をした。ご開帳やご朱印の受け付けは正月に限るところが多いが、時季外れの七福神めぐりも、なかなかいい。これまでは東京の表層しか見ていなかったが、七福神めぐりを通じて「江戸」の暮らしが浮かび上がり、東京のいろいろな場所がなぜ今のような発展をとげているのかが良く分かった。楽しみながらできる「江戸研究」なのだ。

 東京街歩き委員会著 『東京七福神めぐり』 (NHK出版・生活人新書)によると、七福神信仰が生まれたのは室町時代だが、「七福神信仰が庶民にまで広まり、七福神めぐりという信仰形態が確立されるのは、徳川家康の時代・・・。家康の相談役だった天海僧正が、人心を鎮める行政の施策の一環として、七福神めぐりを進言した」という。
 家康は狩野探幽に七福神を描かせて、これが人々に崇拝されはじめたらしい。
 「庶民が行楽を兼ねて七福神詣でをするようになるのは、徳川8代将軍吉宗の時代」「江戸時代後期には正月の松の内に巡拝して1年の幸福を願うようになり、今日の七福神めぐりの原型が確立」したという。

 さて、深川七福神めぐりだが、公式ホームページがとても充実している。公式ホームページの地図もわかりやすい。


 深川七福神めぐりを始める前に、門前仲町周辺の雰囲気を味わおうと思い、深川不動堂(東京都江東区富岡1-17-13、03・3641・8288)に参拝した。
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 パンフレットによると、歴史と沿革は次の通り。
 江戸時代、中でも元禄年間は江戸市民を中心として不動尊信仰が急激に広まっていった。この背景には、経済・商業の中心地としての江戸、またそれを支える町人の経済力の飛躍的な増大が大きな原動力になっていた。
 このような時期、成田山新勝寺は信徒数も増え、また寺格も、より高い本山へと大きく発展していく。そのような時江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したい、という気運が高まり、ついに1703年(元禄16年)4月に初の江戸に於けるご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれた。当時は犬公方と知られる五代将軍綱吉の治世、その母桂昌院が成田山の不動明王を(ママ)江戸での参拝を希望し実現したという説もある。
 成田山出発の総勢は300人を超える行列が組まれ、江戸まで1週間余りかけてご本尊が奉持され、2ヶ月にわたるご開帳は、江戸町人に大きな人気を博し、(ママ)この開帳の場所が深川永代寺境内であり、これが深川不動堂の始まりである。
 明治になり神仏分離令により、永代寺は廃寺、境内は深川公園となり、明治2年に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、14年には本堂が完成するも関東大震災・第二次世界大戦と2回に亙り本堂が焼失、しかしながらご本尊は奇しくも災禍を免れた。
 昭和26年に当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺(1862年・文久2年建立)を深川に移築し復興、現在の本堂になっている。江東区最古の木造建築としてその痛み著しく、平成3年大改修を施行し、平成14年開創300年を記念し内佛殿が建立され、東都随一の不動霊場として山容を整え一層の活況を呈している。

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 「人情深川ご利益通り」と名づけられた参道。和菓子屋、煎餅屋、豆腐屋、漬物屋などが並ぶ。
 朝9時ごろで開店していない店が多かった。
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 本堂。
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 平成22年12月に新本堂ができる。
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 開創310年(平成24年)には、現本堂を護摩修行を行う新本堂の上層階に移設し、一丈八尺からなる我が国最大級の不動明王像を祀る予定だという。写真はイメージ。

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 深川不動堂は、現代的な寺に生まれ変わりそうだが、ひなびた味のある神社もあった。
 ここでは「深川龍神」を祀っている。
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 開運出世稲荷。


 七福神めぐりを始める前に、もう少し、深川、江東区について調べておく。

 江東区のホームページによると、江東区は、江戸時代までは東京湾に注ぐ河川のデルタ地帯の一部で、海面と散在する小島があるだけでした。しかし、亀戸周辺には、人が住んでいたことを示す伝説や地名が残されています。
 江東区の発展は、江戸初期からの埋立てに始まります。慶長期(1596~1615)に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。また、万治2年(1659)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行い、砂村新田と名づけられました。
 明暦3年(1657年)の大火後、幕府は火事に強い町づくりを計画し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。まず貯木場を永代島に集めて木場を創設し、元禄14年(1701年)に現在の木場に移転させました。さらに埋立て開発の進んだ深川地区には、武家屋敷や社寺を移し、正徳期(1711~1716)になると市街地に編入されました。
 区内を縦横に走る河川を利用しての木材・倉庫業、米・油問屋の町として栄えた深川地区は、社寺の祭礼、開帳などの年中行事を中心に、江戸市民の遊興地としても賑わい、江戸文化の華を咲かせました。
 一方、城東地区は、江戸近郊の農地として、西瓜、カボチャ、ナス、ネギなどの野菜類を江戸市民に供給することで栄えました。また、江戸近郊の行楽地としても知られていました。

 江戸初期からの埋立てで街ができた江東区。まさに江戸を映す街なのだ。

 「深川」という地名については、深川神明宮のホームページが詳しい。
 深川の地名の起こり
 徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、家康公が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねました。
 「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。深川の地名の発祥は、神明さまの鎮座する実にこの地なのです。以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、深川氏は開拓の功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めました。深川氏は宝暦七年(1757)に七代で断絶しますが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に今も墓所が残っています。

 
 それでは、深川七福神めぐりを始めよう。

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 富岡八幡宮(富岡1-20-3、03・3642・1315)
 深川七福神:恵比須神(愛敬富財)
 9時46分に到着。
 永代通りに面した大鳥居。
  
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 伊能忠敬銅像
 日本の測量の父・伊能忠敬翁は50歳を過ぎてから深川黒江町(現在の門前仲町)に居住し、天文学・暦学を学びました。その後、官営12年(1800)に始めた全国測量旅行では、氏神である当宮を参拝してから出発しました。この事から平成13年10月、縁深い当宮大鳥居横に旅立ちの姿を象った銅像が建立されました。(パンフレットより)

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 大関力士碑
 当宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(本殿に向かって右側の奥)が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには入らなかった看板大関を除きます)昭和58年に建てられた碑で、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を活用しています。(碑の前の説明書きより)

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 御本社神輿
 表参道の神輿庫には二基の御本社神輿が飾られています。富岡八幡宮には元禄時代に紀伊国屋文左衛門が奉納した総金張りの三基の宮神輿がありましたが、関東大震災で惜しくも焼失してしまいました。以来、御本社神輿復活は氏子長年の念願でしたが、平成3年佐川清氏(佐川急便社主)より、一の宮神輿が奉納されました。この神輿は台輪幅5尺(1.5メートル)、屋根の最大幅9尺3寸(2.9メートル)、高さは4メートルを優に越え、担ぎ棒を組むと4.5トン、鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンドを始め、装飾の各所に宝石を配した日本一の大きさと豪華さを誇る神輿です。また、これに続く二ノ宮神輿が平成9年に製作され、同年の例大祭において氏子町内を巡幸しました。(パンフレットより)

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 富岡八幡宮の沿革
 富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が霊夢に感じ、当時永代島と呼ばれていた小島に創祀したと伝えられます。そして周辺の砂州一帯を埋め立て境内と氏子の居住地を開き、深川発展の基礎が築かれました。
 以来、隅田川両岸一帯(深川及び現中央区新川・箱崎地区)の氏子を始め、広く世の崇敬を集め、「深川の八幡さま」と親しまれています。
 徳川将軍家は源氏の流れを汲むとされ、源氏の氏神である八幡宮をを殊の外尊崇し、将軍を始め一門しばしば参拝、社殿の造営修理を行うなど手厚く保護しました。また明治維新に際して朝廷は勅使を差し遣わされて幣帛を奉られ、新しい御代の弥栄を祈念されました。
 いっぽう、庶民の信仰篤く、八幡宮周辺は江戸・東都随一の門前町として栄えました。そして今変わる事なく人々の信仰をあつめ、とくに毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。(パンフレットより)

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 狛犬。阿。

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 吽。

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 本殿。

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 恵比須神は、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須社に祀られている。

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 狛犬。阿。

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 吽。

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 西にある末社。

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 真ん中が恵比須社と大黒社

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 ご開帳は終わっているが、賽銭は入れられる。

 富岡八幡宮の恵比須社を出て右へ。高速道路の下をくぐり、冬木交差点を右に曲がると冬木弁天堂がある(所要時間5分)。途中、和菓子屋で休息。10時26分到着。

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 冬木弁天堂(冬木22-31、03・3641・9051)
 深川七福神:弁財天(芸道富有)
 江東区のホームページによると、「真言宗。材木商冬木直次が江戸初期、近江竹生島弁財天の分霊を日本橋茅場町(中央区)の邸内にまつり、のちに孫の弥平次がこの地に移したと云われています」。

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 清水克悦著『江戸・東京歴史探訪ルートガイド』(メイツ出版)によると、「材木豪商の冬木屋は上野国(群馬県)から江戸に出た上田直次が興した」という。
 
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 狛犬。阿。
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 吽。
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 冬木辨財天お己洞。
 弁天様は水神と言われ、水神の使いは蛇ということから、蛇が祀られているのかもしれない。
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 ここにもかわいい狛犬が。

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