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石川達夫著『黄金のプラハ~幻想と現実の錬金術』(平凡社選書)

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『黄金のプラハ~幻想と現実の錬金術』(平凡社選書)

 プラハに向かう飛行機の中で、石川達夫著『黄金のプラハ~幻想と現実の錬金術』(平凡社選書、2000年5月24日発行)を読んだ。
 プラハの人名、地名になじみがない中で読み始めたときは、辛くなって、途中で読むのを断念したが、田中充子著『プラハを歩く』を読んで、基本的な人名、地名が頭に入ったので面白く読めた。

 本書は、「プラハに豊かな記念物や伝説が残り、有形・無形の歴史的記憶が濃厚に刻まれていることは、ここでの宗教的・民族的な対立と抗争の激しさを物語るものでもある」とする。そして、「人の目に見えない深み、記憶の深み」を理解しなければ、「幾重にも記憶が積み重なった多時間的・多主観的なプラハの姿と意味を感じ取ることはできない」として、さまざまな伝説、苦難に満ちた民族の歴史、容赦のない宗教的な対立について語ってくれる。
 第1章「プラハの名前をめぐって」では、リブシェ伝説、ヴルタヴァ川がドイツ語のモルダウ川と呼ばれた訳、国民劇場の誕生の歴史などを紹介。ヨーロッパの十字路、プラハの歴史的背景を概観する。

 その上で、第2章「プラハの歴史をめぐって」でチェコが時々の統治者によってどのように変わったか、宗教対立が何をもたらしたかを詳しく述べている。

 「中世都市としてのプラハの発展は、14世紀のチェコ王カレル一世・神聖ローマ皇帝カール四世の時代に頂点に達する」。「カレルはプラハ司教区を大司教区に高め(1344)、アルプス以北で最初の大学(カレル大学)を設立し(1348年)、旧市街に隣接して広大な新市(新市街)を創設した(1348)」。
 
 しかし、カレルが死ぬと、プラハは神聖ローマ帝国の首都の地位を失った。また、宗教改革とそれに由来する戦争が起こったために、チェコは周辺諸国から孤立したという。宗教改革の指導者になったのがプラハ大学の総長、ヤン・フスで、1415年に異端者として処刑されると、フス派とカトリック派との間で激しい争いが繰り広げられた。

 1576年にチェコ王および神聖ローマ皇帝となったルドルフ二世は「1609年に『信仰の自由の勅令』に署名し、信仰の自由がチェコ王国の法となった」「芸術・科学・錬金術のパトロンだったルドルフの時代のプラハには、ヨーロッパ各地から様々な文化人が集まった」。

 しかし、ルドルフが退位すると「反宗教改革が1610年代に再開され、カトリックはプロテスタントに対する攻撃を強めた」。そして30年戦争が始まる。1620年の白山の戦いでプロテスタントが破れると、カトリックがプロテスタントを徹底的に弾圧し始めた。ルドルフの「信仰の自由の勅令」も廃止され、プロテスタント系住民15万人が国を去った。「プロテスタント系チェコ人が去った後に、大量の外国人、とりわけドイツ人が入って来て、チェコ社会に大きな構造変化が起こった」。
 チェコで勝利したカトリック系勢力はバロック芸術を広めた。
 ドイツ系ないしドイツ化した貴族階級に対してはチェコ系の市民階級が勃興し、民族復興運動を推進する。また、民族復興運動と結びついたネオ・ルネサンス様式が、1860~1890年代に流行する。

 このように政治権力と宗教権力が様々に交錯して、チェコの新しい建築様式も生まれていった。

 チェコにはもう一つ、文化や社会を形づくる勢力がいた。ユダヤ人である。第四章「プラハのユダヤ人街をめぐって」は最も興味深い章だった。
 「プラハは、かつてヨーロッパ最大のユダヤ人街が存在した町であり、中世以来現代に至るまでほとんど途切れることなくユダヤ人共同体が存続してきた、数少ないヨーロッパの町の一つである」。

 「初めのうち、ユダヤ人は重んじられ、どこに住んでもよく、自由な商業活動をし、土地や建物を買ってもよかった。・・・しかし、ユダヤ人住民の法的な保護の不十分さが、・・・十字軍の時代にはっきりと現れ、・・・第一回十字軍のときにポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった」「ユダヤ人は・・・隔離されて、閉ざされた小さな地区(「ユダヤ人通り」、後のゲットー)にしか住めないようになった。またユダヤ人は、土地を所有することを禁じられ、農業と手工業に従事することを禁じられて、彼らの生業は事実上、キリスト教徒には禁じられていた利子の取得、つまり金貸しにほとんど制限されてしまった」。

 「権利の剥奪と社会の底辺への追放によって、ユダヤ人は君主の恣意に委ねられるように」なった。
 たとえば、ルドルフ二世はユダヤ人に好意的な態度をとったが、女帝マリア・テレジアは、ユダヤ人に極めて厳しい態度を取ったという。

 「第一次大戦後に、マサリクを大統領として成立したチェコスロヴァキア共和国は、ユダヤ人の民族性を公的に認めた」が、「1930年代末以降のナチスによるチェコ占領時代に、・・・チェコのユダヤ人は史上最悪の迫害を受けた」「多くのユダヤ人は・・・アウシュビッツに送られて殺された。チェコの約8万人のユダヤ人が死に、153のユダヤ人共同体が消えた」。

 チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の微妙なバランスのなかでの共生は、チェコのユダヤ系ドイツ語作家のフランツ・カフカを苦しめた。「カフカのようなユダヤ人は、当時、自分がドイツ人の目には『完全なドイツ人』とは映らず、ユダヤ人と映っていることを意識させられた。しかも、チェコ人の目には、自分がドイツ人ないしその同類と映っていることを意識させられ、自分が(ドイツ人によって)排除されているドイツ人に属すると言う、矛盾した状態に置かれて」いた。カフカを通じてチェコが置かれてきた立場を理解することができた。

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成田~プラハ、空からのシベリアが絶景

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 東京(成田国際空港)発ウィーン(シュベヒャート)行きのAUSTRIAN AIRLINES(オーストリア航空)OS052便に乗る。出発は10:55。到着予定は15:55。機体はボーイング777。縁起のいい名前だ。

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 久しぶりの成田空港。離陸を待つ飛行機の列。

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 座ったのは後ろのほうの席37A。2席で、通路側の人は韓国人男性で、11時間20分、会話はなかった。
 高度が1万mくらいになってから機内サービス。まずはスナック菓子と飲み物。

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 スナック菓子を食べる間もなく食事になった。チキンorテリヤキと聞かれた。何のテリヤキか分からないが、テリヤキにした。サーモンのテリヤキだった。そば(細いうどん?)もついていて、おいしかった。飲み物は緑茶、紅茶はおいしかったが、コーヒーはイマイチ。インスタントではないか?

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 モニターでは映画なども見られるのだが、現在いる位置を示すカーナビのような画面が面白く、ずっとそれにしていた(写真はヨーロッパに近づいてからのもの)。

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 やはり、窓際がいい。
 スタノヴォイ山脈上空。

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 アルダン高原上空

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 パトム高原(地図のA地点)と北極海のちょうど中間をノリリスク方面に向かって飛行。

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 ノリリスク手前。峡谷が見える。


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 エカテリンブルク(地図のA地点)、西シベリア低地の北側を飛行。先ほどのダイナミックな光景とは打って変わって、白一面の光景。

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 サンクトペテルブルク(地図A地点)方面に向かう途中の光景。キリンの肌のような景色。


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 流氷。

 シベリアは白と灰色の世界だったが、予想外にいろいろな姿を見せてくれた。

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 ウィーン到着まで1時間半となったころ(14時15分ごろ)、軽い食事。

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 本(石川達夫著『黄金のプラハ~幻想と現実の錬金術』)を読んでいたので、オレンジジュースやお茶を飲んでいたが、本は読み終え、ホワイトワインを頼んだ。
 プラハにさらに興味が湧き、ワインによる酔いも手伝って、ようやく、プラハの旅に出た喜びがこみ上げてきた。

 ウィーンに到着したが、乗り継ぎの時間はそんなにない。乗り継ぎのゲートに向かった。パスポートチェックは簡単に済み、手荷物検査へ。ベルトも外せと言われ、帽子もチェックされた。
 乗り継ぎの便はウィーン(シュベヒャート)発プラハ(RUZYNE)行きオーストリア航空OS709便。17:00発17:50着予定。30分前に着いたが、まだ搭乗できなかったので、ユーロを持って、バーに。
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 オーストリアのビール、オッタクリンガー(Ottakringer)の小(2.90ユーロ)を飲んだ。
 大急ぎで乗り継ぎの手続きをしたので、この一息のビールはうまかった。
 成田でも飲んだし、だんだんビール一色になってきた。

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 この飛行機に乗ってプラハへ。機内ではレモンティーを飲んだ。
 プラハのルズィニェ空港に着き、無事、預けたスーツケースを引き取って出口へ。荷物の預かり票はまったく不要。なんの手続きもなく出口を通った。こんなに簡単に出られるの?

 空港にはM君の長男、O君が迎えにきてくれていた。
 2006年1月にM君と群馬県に遊びにきたH君。すっかり大人になっていたので、すぐには分からなかった。こちらではビールが飲める年齢になっていた!


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 タクシーでM君自宅へ。

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 田園風景にほっとする。

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 右側通行。センターラインのないような道で猛スピードでタンクローリーなどとすれ違うのはちょっと怖かったが、無事、M君宅に到着。結構走ったが、料金は528チェココルナ。1チェココルナ = 4.89507334 円だから2585円。日本より安いのでは。


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 さっそくお土産をバッグから取り出した。並べると結構な量。M君の奥さん、H君が喜んでくれたのでよかった。(^_^)v
 十数時間で、チェコにいるのは、とても不思議な気持ちがする。

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 M君ファミリーが3万円分、チェココルナに両替してくれていた。バスのチケット(市内5日間)500チェココルナ(Kc)、カルロヴィ・ヴァリまでと、ピルゼンからプラハまでのバスチケット、プリペイド携帯なども用意してくれた。

 近くのコンビニにビールを買いに行った。

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 ビールを3種買った。

 晩御飯をご馳走になって、ビールを1杯。話をしていたら21時になった。日本時間は+7時間で28時。午前4時だ。急に睡魔に襲われ、残る2本は飲めず、ベッドへ。
 携帯電話は自動的に現地時間に変わっていて、日本時間も表示する。最近の携帯は頭がいい。時計を家に忘れてきたが、携帯で大丈夫だ。
 H君とはプリペイド携帯で連絡を取り合う。
 
 あすはカルロヴィ・ヴァリで1泊、翌日ピルゼンに行く。

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成田空港~教訓・お土産はほどほどにしよう。

 午前6時ちょっと前に東京・練馬の自宅を出た。渋滞もなく、追い越しをする必要もなく、気持ちよく走って55分で成田空港近くのシャトルパーキングに着いた。バスで空港第一ターミナルに送ってもらった。着いたのは7時15分。
 7時30分からチェックインの予定だったが早く対応してくれた。実にスムーズ・・・と思ったのだが。

 「機内持ち込み手荷物(Cabin Baggage)のかばん(お土産がいっぱいのかばん)がちょっとサイズが大きいのですが」
 「ほかの航空会社では大丈夫でしたし、ほぼ規定のサイズのようじゃないですか」?(持ち帰るわけにいかないので必死の説得)

 「わかりました。ただ、重量は8kgまでとなっていますが、12kgあります。4kg分、預け入れ荷物の方に移していただけますか」
 「はい」

 カウンター周辺で移し替え。
 「移し替えました」
 「まだ、1kg超過ですね。あと1kg移してください」
 「はい」。

 移すと言ってもカップ焼そばとか即席ラーメンばかりでカサがはる。一苦労。なんとか移し替えてOKとなったが――。
 
 「預け入れの荷物が6kg超過ですので、超過料金250ユーロをいただきます」
 250円?ユーロ?
 1ユーロ = 124.529898 円。250ユーロだと3万1132円。(゜o゜)

 高くついた。お土産はほどほどにしよう(スーツケースに味噌が入っていてすでに2kgオーバーの22kg。これだけだったら大丈夫だったようなのだが、即席ラーメンや花山うどんがアダになったようだ(ーー;)
 まあ、でも物は考え様。超過するほどのお土産って誠意がある感じがするし、罰金みたいに考える必要はまったくない。適正なコストを支払ったと思えばいい。

 早くチェックインしてよかった。窓側の席は取れたし、荷物を入れ替えたりしても、時間はたっぷりある。

 
 カルロヴィ・ヴァリは水着が要るそうだ。水着を用意するのを忘れて、成田空港で買うことにした。
 水着を売る店はあったが、目のやり場に困るような水着店だった。(@_@;)
Sanaimizugigakuen
 「三愛水着学園」(0476・33・5886)。
 女子高生向けの店のようだが・・・。奥のほうに男物の水着もあった。
 今どきのおしゃれな水着だった。試着させてもらった。
 Lサイズ。お尻が全部入らない(汗)。LLサイズ。かろうじてはけた。
 やはりメタボなのだろうか。フィットネスクラブ通いが3日坊主になった報いか。
 女性の店員さんが「この商品はサイズが表示より小さめなんです」。
 なぐさめてくれた。
 
 普通だとおじさんが選ばないような水着(6195円)が買え、よかった。温泉対策はOKだ。
 計量後のかばんに水着を入れた。(^^ゞ

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チェコ(プラハ)旅行準備②持ち物、携帯、空港アクセス

 ブログを書きながら持ち物チェック(^^ゞ
 海外旅行用品は、東京交通会館の海外旅行用品専門店トコー(東京都千代田区有楽町2-10-1東京交通会館2F
03・3213・8717)で先日買った。この店は年末年始(12月30日-1月3日)以外は無休。営業時間は平日9:30-19:00
土日10:00-17:30。
 

 ふだんは携帯で代用、持ち歩いていない時計(アナデジ、デジタルをプラハ時間にする)、パスポートを入れるポーチ、パスポートホルダー(スキミングガード付)、メッシュ整理袋、小物を入れる便利袋、ネームタッグ、スーツケースベルト、ひげそり、シェービングクリーム、歯ブラシなどを買った。
 
 入れ物に必携品を入れる。
✓ パスポート。パスポートはカラースキャンして、なくしても番号などを確認できるようにしておいた。
✓ Eチケットレシート。搭乗ごとに搭乗券と引き換えるらしい。
✓ 海外旅行保険契約証(控)とサポートブック。保険料9540円。保険金額は、傷害死亡5000万円、傷害後遺障害5000万円、治療救援UNLIMITED、疾病死亡3000万円、賠償責任1億円、携行品30万円、手荷物10万円、航空遅延3万円。 
✓ 日本円とわずかなユーロ。
 M君のメール。
 「お金の両替は必要ないと思います。ウィーンの空港でなにか買いたいときはユーロが必要ですが、それもカードで買えます。万が一のために10ユーロとか、それくらいを両替しておくのは悪くないと思います」「チェコのお金の両替は日本ではできません。ですので、プラハに来てからになります。普通は空港で両替したりするのですが、換金率がよくないです。あらかじめぼくのほうで3万円分、両替をしておきます」。
✓ クレジットカード。
✓ 全く使っていなかったシャープ電子辞書。
✓ デジカメと充電器
✓ 海外旅行用変換プラグ(ノートPC、携帯、デジタルカメラなどのACアダプターを確認、50/60Hz、240Vまで対応するので変圧器は不要)
✓ ノートPC 
✓ 服。
 M君のメール。 
 「ダウンもコートもいりません。ただ、朝夕は寒いと感じるかもしれません。軽井沢や那須に行く感覚で洋服を準備してください。いまは長袖のシャツに春の薄手のジャンパーを着ています。登山用のヤッケのようなものがあると
いいかもしれません」。
✓ 帽子
✓ 折り畳み傘

後は適当に・・・。

 携帯電話は海外でもそのまま通話できる設定だが、着信の場合も料金がかかり、日本との通話は日本国内の通話のほぼ9倍、プラハ内通話も約3倍料金がかかると聞いた。電話はよほどのことがない限り使わないほうがいい。留守番電話も1410に電話して停止(再開は1411)。
 メールも「パケ放題」が使えないということなので、メールは選択受信にして、帰国後聞くことにした。ドコモのアイチャンネルは自動更新を停止した。

 成田空港へはクルマで行くことにし、ネット上で評判のよかったシャトルパーキング(0476・33・0223)を予約した。利用料金は10日間で5040円(キャンペーン価格)。自分で所定の場所に駐車し、キーを預けなくていい。クルマは5台のカメラで24時間監視するという。ナビの設定は隣のセントラルパーキング成田の「千葉県成田市小菅1045」で設定するとのこと。

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チェコ(プラハ)旅行準備①お土産

 いよいよ、プラハへ明日出発。
 プラハではM君宅にお世話になる。
 今日はお土産を買いに行った。
 M君のご希望は――。
・味噌(麹味噌、赤味噌など、うまそうなもの。物産店で売っている
ような手作りっぽいのがベター)。
 群馬県神流町の「伝田郷味噌」(高橋みそ店、0274・58・2238)を用意した。この味噌、国産大豆100%の味噌でとてもおいしく、いつも取り寄せている。

・トラベルニン、キンカン
 買った。

・インスタントラーメン
 日清のラーメン屋さん3種。明星中華三昧3種。

・海苔、ふりかけ
 伊勢丹でおいしそうなのを買う。

 ご家族の要望はと聞くと――。
・娘は「かりんとう」「八戸せんべい」「キョロちゃんのチョコボール」
 こだわりがあるなあ。かりんとうは豆源と中村屋のを買った。
 八戸せんべい=南部せんべいということで、岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」(東京都中央区銀座5丁目15-1 南海東京ビル1F、03・3524・8282)に行った。
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 歌舞伎座の斜め向かいにある。

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 南部せんべいや漬け物などを、広い売り場で売っており、たいへん賑わっていた。ぐんまちゃん家は目と鼻の先。このくらいの売り場があれば・・・と思うがしかたがない。

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 南部せんべいは袋売りのものだと、割れて粉々になりそうなので、盛岡市、白沢せんべい店(019・622・7224)の箱入り、6種類入りの「白沢の南部せんべい」を買った。

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 歌舞伎座は4月いっぱいで休館。撮影をする人が大勢いた。

 ぐんまちゃん家にも寄り、館林うどん=花山うどん(0276・74・0718)を買った。

 「キョロちゃんのチョコボール」は平和台駅前のスーパーのライフにはなかったが、コンビニのファミリーマートには4種類もあった。スーパーには人気商品は並ばないのかもしれない。
 キョロちゃんのチョコボールはキャラメル、ピーナッツ、いちごに、刑事姿の「でか」を買った。奥が深そうなキョロちゃんだ。

 娘さんにはかなり尽くした。

・息子は「インスタント焼きそば
 ライフではマルちゃん「焼そば名人」、日清「ソース焼そば」を買ったが、もっと有名な商品があったはずだ・・・。 
 ファミマに行くと、日清焼そば「U.F.O」、明星「一平ちゃん」、ペヤング「やきそば」が並んでいる。スーパーの品ぞろえは変だ、と思った。お土産を通じて、いろいろ学べた。

・女房は「のりせんべい」
 伊勢丹でおいしいのを買いましたヨ。

・ぼくは「大間のマグロ」と「蒸しアワビ」
 無視。(-_-メ)

 そうそう、M君希望の本。
 ヴァーツラフ・クラウス著『「環境主義」は本当に正しいか? チェコ大統領が温暖化論争に警告する』(日経BP社)。

 お土産だけでもう一つのバッグはいっぱい。

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草津町の姉妹都市、カルロヴィ・ヴァリ(Karlovy Vary)

 なんと!チェコに群馬県草津町の姉妹都市があるではないか!
 カルロヴィ・ヴァリ(Karlovy Vary)だ。ぐんま観光特使(任期延長になりました(^。^))としては絶対行かなければ。

 草津町とカルロヴィ・ヴァリ市とは平成4年5月20日に姉妹都市となった。草津町のホームページによると、カルロビ・ヴァリ市は「チェコ共和国ウエストボヘミア州にある温泉リゾートで、旧名はカールスバード。古くからヨーロッパ随一の高級保養地として王侯貴族や芸術家を集めてきました。産業面においても、ボヘミアングラスなどのガラス工芸、酒の醸造等、この地方を代表する都市となっています。故ベルツ博士がその日記の中で草津と比較したことが縁で姉妹都市となり、手を携えて温泉リゾートとしての発展を図っています」とのことだ。

 『地球の歩き方』によると、プラハから急行が1日7便、所要時間3時間20分。バスは1時間に1便。所要時間2時間15分。これはバスしかないな。
 
 テプラー川、オフジェ川の浸食によって形成された、深い谷あいの地にある温泉の町。
 伝説によれば、14世紀、神聖ローマ皇帝カレル四世が、鹿狩りの最中に山の中で偶然温泉を発見したという。1358年、彼はそこに狩猟用のロッジを建て、自らの名前をもってこの土地の名前とした。カルロヴィ・ヴァリとは“カレルの温泉”という意味なのである。
 
 コロナーダ(飲泉所)めぐりが中心のようだが、温泉入浴やアロママッサージも可能。

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チェコと言えばビール。早く飲みたい!

 チェコと言えば、ビールだ。
 『自遊人』2008年9月号の「脱!『とりあえずビール』 新『ビール党』宣言!」の中に「聖地巡礼。ピルスナーの聖地、チェコ。ザーツ、ピルゼン、プラハへ――。」という記事がある。
 「チェコはピルスナータイプのビールが誕生した地である。今や世界のビールの大半を占めるピルスナーだが、ルーツとなったのは1842年にピルゼンで産声を上げた『ピルスナー・ウルケル』。モルト100%、チェコが誇るザーツ産ホップをふんだんに使った華やかな香りとコクのある味わいは、今も変わることなく人気を集めている」
 ザーツはチェコの首都、プラハの北西に位置する。 
 ザーツ産のホップは「ドイツ・ハラタウ産と並んでファイン(優れた)アロマホップの最高級品とされている」。サントリーのビールのイメージが変わった『ザ・プレミアムモルツ』も「通常の2倍量(サントリー自社成分比)のザーツホップを使うことで」思い通りの香りと苦みを実現したという。
 「ザーツはもともと火山地帯のため土は火山灰由来。地下水に恵まれている一方で水はけはきわめていい。こうした条件もホップの栽培にはうってつけなのだそうだ」
 「ホップは多年生の植物で、夏に花を咲かせて、やがて緑色で松笠状のコーン(毬花)に姿を変える。コーンの中にはルプリンという黄色い粒子が入っていて、これに香り成分やビールに苦みを与えるアルファ酸が含まれているのである」。
 しかし、ライトビールが全盛となると、プレミアムビールのような味や香りは不要ということで、栽培面積や生産量は最盛期の半分に減っているらしい。
 いいものをつくっても利益にならない状況が憂慮される。
 
 ピルスナータイプのビール発祥の地、ピルゼンはザーツ地方の少し南に位置している。「ピルスナー」とは「ピルゼン風の」という意味。
 「ピルゼンでは13世紀末にボヘミア王から醸造権を与えられて以来、市民醸造家たちがエールタイプのビールをつくり続けていた。ところが全般に品質が低く、1883年、38樽が『ろくでもないビール』として公衆の面前で破棄されるに及び、醸造家たちは品質向上のために共同で醸造所を設立することを決意。最新・最良の設備を備えた工場を建てるとともに当時、下面発酵(ラガー)ビールの先進地だったドイツ・バイエルンからヨゼフ・グロールという若き醸造家を呼び寄せた。1842年、彼が完成させた最初のビールは、当時バイエルンでつくられていたダークなラガーとはまったく異なり、美しい金色に輝いていた。それは彼の思惑を超えたもの、あるいは偶然の産物であったとも伝えられる」。

 「ザーツがホップの聖地、ピルゼンがピルスナーの聖地なら、プラハはさしずめビール飲みの聖地とでもいおうか。・・・街角にはあちこちにチェコ語で『ホスポダ』や『ピヴニッツェ』と呼ばれるビアホールがあり、開店したての朝11時頃からジョッキを手にした人の姿がひきもきらず、中にはスーツにネクタイのビジネスマンが商談しながら喉をうるおしている姿も珍しくない」「何しろチェコは国民一人当たりのビール消費量では不動の世界一。日本の3倍、ビールの国として名高いドイツやイギリス、ベルギーにもはるかに水をあけて首位の座に君臨し続けているのだ」。

 もっとも最近は外資によるビール会社の買収が相次ぎ、チェコ資本はブドヴァルのみ。ピルスナーウルケル社も、南アフリカが発祥の世界的ビール会社、SAB(サウス・アフリカ・ブリュワリー)の傘下に入っている。
 このため、チェコでは「地ビール」が静かなブーム。「ひときわ美味しさで名高いのがストラホフ修道院にあるミニブルワリーだ」という。

 この特集で、プラハ、ザーツ、ピルゼンの3つの町から1店ずつ、お薦めの店を紹介している。
 プラハの店は、行ったことがある人の一押しなのでぜひ行ってみたい。ピルゼンにある店にも立ち寄るつもりだ。

 ウ・ズラテーホ・ティグラ【プラハ】
 クリントン元大統領も訪れた150年もの歴史を誇る有名店。
 Husova17、Praha 電話+420-222-221-111
 ※行った人によると、タルタルステーキ(薬味がいっぱいついてきて美味!)がお薦めらしい。

 THE PUB【ピルゼン】
 テーブル中央に据え付けられたサーバーで、自らピルスナーウルケルをついで飲める。飲んだ量は自動集計されて、テーブルごとのランキングがスクリーンに表示される。
 Prešovská 16 Plzen 電話+420-377-221-131

 まあ、このあたりは現地でお世話になるM君が明らかに詳しいので期待!
 ナズドゥラヴィー(乾杯)!が待ち遠しい。 

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田中充子著『プラハを歩く』(岩波新書)を読み、プラハの見どころをチェック・その3 新市街

 『プラハを歩く』によると、「カレル四世は、14世紀になって、4番目の街として『新市街』をつくった」という。
 「ボヘミアを統一したカレル四世は、プシェミスル家とルクセンブルク家の血をひいている。・・・その彼は、プラハ城とヴィシェフラット(7世紀の伝説の王妃リブシェが住んでいた城)の再建、聖ヴィート大聖堂やカレル橋の建設、多くの教会や修道院の創建、そして中欧で最初の大学の創設などたくさんの事業をおこなった。・・・なかでも新市街の建設は、今日考えても、びっくりするほどスケールが大きい」。
 「カレルの都市計画の特徴は、広場と格子状の道路である。・・・カレルは新市街の核として、穀物市場(現在のセノヴァージュネー広場)、馬市場(現在のヴァーツラフ広場)、家畜市場(現在のカレル広場)という三つの広場を旧市街から放射線状に配置し、その間を広い道路でつないだ」。
 「プラハは、それまでもヨーロッパの大都市の一つに数えられていたが、新市街ができたことにより、面積においてはパリ、ロンドン、ベルリン、ウィーンなどの都市を抜いてアルプス以北で最大の都市となる」。
 「父の死後、カレルは・・・神聖ローマ皇帝の地位につき、・・・プラハを神聖ローマ帝国に相応しい街、つまりローマやコンスタンチノープルに匹敵する街にするため、次々にビッグプロジェクトを実行した。それにともなって貴族や商人、職人たちが増加し、膨張した人口は、マラー・ストラナと旧市街では吸収できなくなり、そのうえヴルタヴァ川の氾濫や火災が重なったこともあって旧市街の外側に隣接して新市街を計画し、商人や手工業者の街をつくったのである」。

 火薬塔の門の外が新市街。「火薬塔からヴァーツラフ広場までのおよそ1キロメートルはプラハきってのビジネス街である。1760年に旧市街を取り巻いていた濠を埋めてつくられたところから、ナ・プシコピェ通り(『お濠の上に』という意味)とよばれている。」
 「1860年代から1930年代にかけて、通りには、ホテルやレストラン、それにブルジョワ階級の家々が、ネオ・ルネサンスやネオ・バロック、さらにアール・ヌーヴォーなどの様式で建てられた」

 ヴァーツラフ広場は「『プラハのシャンゼリゼ』といわれる、プラハ随一のショッピング街である。広場の南端の高みには威風堂々とした国民博物館が屏風のように建っている」

 「その前には、馬にまたがった聖ヴァーツラフの像があって、いつもたくさんの人が待ち合わせをしている」

 「聖ヴァーツラフ像の前方に、このソ連軍の侵攻に抗議して焼身自殺したヤン・パラフの遺影がある。・・・ヴァーツラフ広場はソ連の軍事介入にたいする抵抗のシンボルとなった」。
 「そして1989年、スターリン主義的な共産党の一党独裁が内部から崩壊していく過程で、ほとんど暴力事件を伴わない『ビロード革命』が進行した・・・劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルが内外にむけて声明を発表したのも、この広場のビルのバルコニーからだった」

 新市街で必ず訪ねたいのが国民劇場だ。「チェコ人の手で建設された民族復興のシンボルである」。
 建築家ヨゼフ・ズィーテクがネオ・ルネサンス様式で設計したが、最後の仕上げをしていた時に火事で焼けおちてしまう。「この突然の不幸な出来事に、人々は茫然と立ちつくした。その時、一人の男が『また劇場を建てよう』といって帽子を回した。すると人々は競ってその帽子にお金を入れ始めたという。こうして再び劇場の建設は始まった」
 ズィーテクは火事の責任もとって弟子のシュルツの後を譲ったが、シュルツはズィーテクの設計をほとんど踏襲したという。「舞台の中央上部には・・・『民族が自分自身のために』という文字が刻みこまれた。こけら落としには・・・スメタナのオペラ『リブシェ』が上演された」。

 新市街ではキュビズム様式の建物も見ることができる。
 『地球の歩き方』によると――。
 キュビスム様式 1911~25年 ピカソやブラックなどの絵画で知られるキュビスムが建築に取り入れられたのは、世界でもチェコだけ。周辺ではモダニズム建築が主流になっていた20世紀初めに起こった。チェコのアバンギャルド芸術運動の一部だ。斜めのラインを立体的に組み合わせた、まるでボヘミアン・グラスのカットを思わせる多面性が特徴。
 代表的なのが黒い聖母の家
 
 最後にモダン建築。
 『地球の歩き方』によると――。
 モダン建築 20世紀後半~ 20世紀初頭から世界的な主流となっていた機能主義・合理主義を中心とするモダニズム建築。チェコでは、それが町に合わないという意見を持つ建築家たちによってキュビスム様式が確立された。しかしそれも賛否両論で幕を閉じ、模索の時代に入っていく。ダンシング・ビルはそれがユニークに現れた例だろう。
 「『ダンスをするビル』はヴルタヴァ川に架かるイラーセク橋のたもとの交差点の角にある。そこは戦後50年間空地だった。・・・プラハは第二次世界大戦中2発だけ爆弾をうけた。ともに誤爆であるが、その爆弾のひとつがここに落ち、バロックの建物は半壊し、以来、放置されたままだった。隣はたまたま劇作家ハヴェルの家で、彼は破壊される前のビルの1階のビヤホールで、よくビールを飲んでいたという」。

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田中充子著『プラハを歩く』(岩波新書)を読み、プラハの見どころをチェック・その2 旧市街

 旧市街の見どころの一番は、旧市庁舎
 『地球の歩き方』によると、市庁舎の塔につけられたカラクリ時計は9:00~21:00の毎正時になると仕掛けが動き出す。
 
 『プラハを歩く』の記述に戻る。
 時刻がくるとまず「死神」が鐘を鳴らし、二つの小窓が開く。すると、十字架や聖書を手にした「十二使徒」の人形が一方の小窓からつぎつぎあらわれて正面を向き、くるりと背を向けてもう一つの小窓へ姿を消す。一巡すると最後に「鶏」が人鳴きして窓が閉まる。
 
 そして、建物の説明。
 まず、1338年に広場の角地の「ヴォルフィン館」を買い取り、1364年にその一部にゴシック様式の時計塔を建てる。・・・19世紀になって、さらに西隣の「ミケシュ館」と「雄鶏館」が購入され、最後に北側が増築された。その結果、市庁舎は14-19世紀の様式の異なる建物の集合体となった。

 旧市街広場のど真ん中に、大きな台の上に立つ異様な像がある。
 「宗教改革者ヤン・フス(1372頃-1415)のブロンズ像である。周りには、兵士や亡命者たち、母子などの群像を従えている」

 「フスがカトリック教会を批判し、大衆に向かって説教をした聖ベツレヘム礼拝堂は、旧市街地広場から歩いて5、6分のところにある。・・・聖ベツレヘム礼拝堂はどこよりも簡素だ」
 
 ティーン教会についての最新情報は『旅名人ブックス プラハ歴史散歩~中世ヨーロッパの魅力を凝縮』(日経BP企画、第5版・分割新版)の記述を引用する。
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 「たくさんの小塔を飾りにつけた教会で、プラハでは大聖堂の次に重要な教会である。鋭い2本の尖塔はそれぞれに8本の小塔を持っている。そのため無数の小塔があるように見えて非常に美しい」「フス戦争以降はフス派の穏健派が拠点にしていた。・・・しかし、ビーラー・ホラの戦いでプロテスタント派が大敗した後はティーン教会もカトリック教会に変えられてしまった。これに怒ったプロテスタント信者が抗議のため教会の前を建物で塞いでしまった」。

 『プラハを歩く』では構成上、便宜的に第四章「新市街」の項に入っているが、火薬塔や市民会館はガイドブックでは「旧市街」に分類されている。
 「プラハ市民が歴史的な町並に新しい建物を建てることを好まない、というのは現代だけの現象ではない。火薬塔の隣には、かつて景観問題で騒がれた市民会館が建っている。・・・両者は様式も色彩も装飾も、ヴォリュームも形態もまったく異なるのだ」「市民会館は建設にさいしてたくさんの問題を抱えていた。その一つは画家のアルフォンス・ムハである。ムハはパリから帰国すると、市民会館の内装を一人で担当するかわりに、報酬は下絵の値段でいいと申し出た。これに対して新聞は『下絵の値段が高額すぎる』と書いた。・・・結局、ムハは市長サロンの内装だけを担当した」。

 アール・ヌーヴォー様式については、『地球の歩き方』を参照。
 アール・ヌーヴォー様式 19世紀末~20世紀初め フランスで発祥した装飾美術。花やつる草など、生物の流れるような柔らかいフォルムを取り入れた優美で官能的な装飾のことで、建築構造としての特徴ではない。機能主義が強いモダニズムが入ってくる少し前に新たな様式として登場したが、伝統を重んじる一部の人間からは非難の声を浴びることもあった。

 『プラハを歩く』の著者、田中充子さんがこの本の「はじめ」と「むすび」で取り上げたかつてのゲットー(ユダヤ人街)にはアール・ヌーヴォーの一大アパート群がある。
 「ヨーロッパのゲットーのなかでも、プラハのそれは最後まで残っていた。しかし、1848年に廃止されて、プラハ五区としてプラハ市に編入された。そして皇帝ヨーゼフ二世にちなんで『ヨゼフォフ』と名づけられた」「ところがスラム化がいっそう進んだため、20世紀初めに大規模に再開発された」「その新しいアパートの建築意匠としてアール・ヌーヴォー風のデザインが採用された」「まず彫刻がたいへん楽しい。それまで見たバロック彫刻の神話の神々や英雄などとは違って。子供、魚、鷲、熊、少女、太陽、花束などが生き生きと彫り込まれている」。

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田中充子著『プラハを歩く』(岩波新書)を読み、プラハの見どころをチェック・その1 プラハ城とその周辺

Praha
プラハを歩く (岩波新書)


 目次
 はじめに 人間が建築をつくる <ダンスをするビル>
第一章 城―木と石の技術
1.森になぜオオヤマネコがいるか <ボヘミアの森>
2.川になぜ水鳥が多いか <ヴルタヴァ川>
3.丘になぜ城か <フラチャヌィの丘>

 プラハに一度も行ったことがなくても、田中充子著『プラハを歩く』(岩波新書、2001年11月20日発行)を読むと、身近な話題から関心が芽生え始め、次第にプラハへの憧れが募ってくる。

 「プラハは千年の歴史をもつ古都である。・・・そのように美しく古い建築が残っているのも、幸運なことに第一次、第二次世界大戦の被害を免れたからだ。さらに第二次世界大戦後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことも大きい。その結果、プラハはロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ『ヨーロッパの建築博物館の街』になった」「どの時代の建築にもその時代の状況と思想がこめられている」。
 人と建築に愛情をこめる著者のガイドに従って、プラハの見どころをチェックしてみよう。

 まずは著者が「プラハのロマネスク建築のなかでは屈指の美しさである」という聖イジー教会。プラハ城内最古の教会だ。「火事に見舞われ、1142年に一対の塔を加えて木造で再建された」「白い2本の塔が建っているが、右がわずかに太い。太い方がアダムで細い方がイヴだそうだ」。

 建築様式の説明は『地球の歩き方 チェコ/ポーランド/スロヴァキア 2009~2010年版』に簡潔な説明があった。
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 ロマネスク様式 10世紀後半~13世紀 それまでの木造から石造へと建築資材が大きく変化した時代。・・・石のヴォールト天井(半小円型の天井)が生まれ、その重みを支えるために壁は厚く堅牢なものになった。構造上、窓が大きく取れず内部が薄暗くなったが、それを明るく見せるために登場したのがフレスコ画だった。

 『プラハを歩く』では、「外部はバロックの意匠に作り替えられ、赤と白のプラスター(漆喰の一種)で塗り分けられているが、内部の壁や床はコンクリートの打放しと同じように無垢の石のままで、接合部や積み方がよく分かる」と見学のポイントも説明してくれている。

 次はゴシック様式の聖ヴィート大聖堂。プラハ城のなかでもっとも大きなゴシック建築だ。
『地球の歩き方』によると――。
 ゴシック様式 12世紀中頃~15世紀初め 力強い印象のロマネスクとは対照的な繊細な印象のゴシック。ロマネスクのヴォールト天井に骨組みを足し、見た目が軽やかなリブヴォールトが生まれた。また、飛梁(とびはり)の発明により壁は薄くなり、より高い天井と大きな窓が造られ、華やかなステンドグラス装飾が可能になった。外観の特徴として、林立する尖塔も挙げられる。

 『プラハを歩く』の解説。「大聖堂のイメージは、どこでもその民族のはるか昔の森に求められる。ボヘミアの森に住んでいた祖先をもつチェコ人にとってそれは『ボヘミアの森』ではなかったか」。
 聖ヴィート大聖堂、早く見たい!
 
 ヴラジスラフ・ホール。「プラハ城の中で一番リラックスできるところといえば、旧王宮のなかにあるヴラジスラフ・ホールではないか」「天井がすばらしいのだ。ヴォールト天井を支える石のリブが流れるように美しい曲線を描き、それが花のパターンとなり、空間全体をふんわりと包みこむ」

 城の周辺の宮殿を訪ねればルネッサンス様式が楽しめる。
『地球の歩き方』によると――。
 ルネッサンス様式 15~16世紀初め イタリアで始まった古典古代文化復興の動き。曲線を用いたシンプルで端正かつ華やかさのあるデザインが特徴だ。国内では、教会改革を目指した戦争が勃発する一方で、実験を握っていたオーストリア・ハプスブルク家とカトリック教会、それを支えていた貴族によって、豪華絢爛な宮殿が多く建てられた時代でもある。

 プラハ城の第二の庭から北門をでると「鹿の濠」という谷がある。橋をわたった右手がベルヴェデーレ宮殿(離宮)の正門だ。「プラハ城には大聖堂をはじめ15を越える建物があるが、ここにあるのはわずか2つだけで、大部分は庭園である」「庭園はルネサンスの発明品だ」
 「離宮の屋根は船をひっくり返したような形で、その曲線は女性の体をイメージさせる」。

 1541年の大火によって、マラー・ストラナの街がほとんど壊滅したため、貴族や聖職者たちは、フラチャヌィにこぞって宮殿を建てた。
 「数ある宮殿のなかで注目したいのは、シュヴァルツェンベルク宮殿マルチニッツ宮殿だ。どちらもルネサンスの美しい壁絵がある。スグラフィットという独特の技法を用いて描かれている。しかし、技法は同じでも、表現されたものはまるで異なる。一方は幾何学的なパターンの繰り返し模様、他方は物語性のある絵だ」。
 
 バロック様式の建物もプラハ城周辺には多い。
 『地球の歩き方』によると――。
 バロック様式 17世紀初め~18世紀中頃 イタリアのローマで誕生し、フランスで花開いた建築様式。楕円や曲線を多用した動きのあるデザイン、派手ともいえる装飾が特徴だ。プロテスタントの宗教改革が敗北と言う結末を迎え、ローマ・カトリックが再び権力を付けた時代で、人々にわかりやすい華美でドラマ性のある装飾の教会が多く建てられた。

 まず、1140年に建てられたストラホフ修道院。17世紀に「神学の間」、18世紀に「哲学の間」が、バロック様式で増設された。
 「『哲学の間』は・・・赤い絨毯に飴色の書架。天井には、ウィーンの画家アントン・マウルベルチが描いた美しいフレスコ画がある」「廊下をさらに進むと『神学の間』がある。ここの天井にも、フレスコ画が描かれている」。

 「17世紀以降は、オーストリア帝国の貴族たちはウィーンとプラハの両方に宮殿を建てて住むことが慣習になっていた。・・・現在、その多くが大使館や官庁になっている」。
 「なかでもヴルタヴァ川とマラー・ストラナ広場の中間に位置するヴァルトシュテイン宮殿はプラハで最大の宮殿である」

 マラー・ストラナ広場に聖ミクラーシュ教会がある。「旧市街のティーン聖母教会がヴルタヴァ川右岸の横綱とするなら、マラー・ストラナの聖ミクラーシュ教会は左岸の横綱だ」
 「聖ミクラーシュ教会はもとはゴシック様式の教会として1283年に創建され、・・・1653年からは、プロテスタントをカトリックに改宗させるために、・・・バロック様式に改修された」。

 筆者の田中充子さんはロマネスクやゴシック建築を「心の建築」、ルネサンス建築は「頭の建築」とし、バロック建築は視覚に訴える「目の建築」と分析している。プラハ城周辺でこれらの様式をじっくり見学したい。

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吉川尚宏著『ガラパゴス化する日本』(講談社現代新書)~日本企業や日本が脱ガラパゴス化するための戦略本

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ガラパゴス化する日本

 吉川尚宏著『ガラパゴス化する日本』(講談社現代新書、2010年2月20日発行)を読んだ。
 海外に住む友人が、「日本は最近、政府も国民に引きこもっている感じがする」と言っていたが、日本の一部の製品だけでなく、日本国そのものや日本人がガラパゴス化していると本書は指摘する。そのケーススタディを読むと、まさにガラパゴス化に向かって突き進んでいる日本の姿が見える。しかし、一方で本書は脱ガラパゴス化戦略についてもきちんと提言する。ガラパゴス化の動きを甘く見ず、提言を本気で検討すべきだと強く感じた。

 「はじめに」でガラパゴス化について説明している。
 それによると、「もともと、このガラパゴス化という言葉は、筆者の同僚であった北俊一氏が『日本は本当にケータイ先進国なのかガラパゴス諸島なのか』という問題提起を行った論文で使ったのが最初である。北氏の指摘は携帯電話産業だけに閉じた話であったが、…議論の中で、どうやらこのガラパゴス化は携帯電話にとどまらないで、ICT(Information Communication Technology―情報通信技術)産業全般、あるいは広く日本の産業分野に及んでいる現象であることに気が付き、日本が独自進化して世界から逆にかけ離れてしまう現象を『ガラパゴス化現象』として、プロジェクトの中で筆者が明確に定義した」という。

 この本では、ガラパゴス化を次の3つから構成されるものとしている。
●日本製品のガラパゴス化
日本企業がつくりだすモノやサービスが海外で通用しないこと
●日本という国のガラパゴス化
日本という国が孤立し、鎖国状態になること。地方だけでなく、東京も含め日本全体が鎖国状態となるリスクをはらんでいること
●日本人のガラパゴス化
最近の若い人のように、外に出たがらなくておとなしい性向のこと

 ガラパゴス化が進行している日本のモノやサービスは携帯電話だけではない。
 医療サービスは、日本の医療関係者があまり知らない間に、世界でJCI(国際病院評価機構)の医療サービス基準が構築され、アジアではシンガポールで15、インドでは13の病院が認証を受けているが、日本で認証を受けている病院はたったひとつだという。
 大学ランキングの策定、国際会計基準でも、日本は乗り遅れた。

 日本という国もガラパゴス化している。
 「日本には2008年時点で3311の外資系企業が参入しているが、そのうち、じつに74.1%(2452)の企業が東京に日本本社を置いており、次いで多いのは神奈川県(282社、8.5%)となっている」。「東京は例外的にグローバル化は進んでいるが、地方はグローバル化との距離が遠く、グローバル化の恩恵も受けがたい構造になっている」。
 「それでは東京が安泰かといえば必ずしもそうではない」「2009年10月に開催された東京モーターショーでは、海外メーカーはわずか3社しか出展しなかったが、4月に開催された上海モーターショーでは20ヵ国以上から自動車メーカーが参加していた。すでに海外企業の目は東京に向いていない」。

 日本人のガラパゴス化は若者に顕著だ。日本から海外へ出国する日本人の数を年代別にみると、海外に行く若者が増えていないことがわかる。
 「20代については2004年にはいったん回復したものの、2005年以降は男女とも減少傾向にある。特に女性については2004年には191万人が出国していたのに対し、2007年には172万人と約20万人も減少している。男性についても、2004年には120万人であったのが2007年には110万人と10万人減少している」。

 「日本企業、日本国、日本人のそれぞれがガラパゴス化を続けるのか、それとも脱ガラパゴス化を果たせるかで、組み合わせの数は八通り存在する」
 それが①総ガラパゴス化シナリオ②若者日本脱出シナリオ③霞が関商社化シナリオ④国が先導し、若者が中心となる脱ガラパゴス化シナリオ⑤JUDOシナリオ⑥優良企業、有料人材脱出シナリオ⑦官民グローバル化シナリオ⑧完全開国シナリオ⑧′出島シナリオ――だ。
 完全開国に到達させるルートとしては筆者は⑧′→⑧または③→⑦→⑧が現実的であるとする。

 「第4章 脱ガラパゴス化へのヒント」が面白い。
 日本がデファクトスタンダードを握れないのは、競争のルールを作り出すことが苦手なのが原因として、ゲームのルールをつくる、あるいは変える手法を説明する。
 「市場を支配するルールを変えるには「提携戦略、メディア戦略、ロビー活動戦略といった、これまであまり日本企業が使ってこなかった筋肉を活用していくことが重要となる」という。
 また「日本の国や企業が目指す思想、哲学を具現化する指数を開発し、ゲームのルールをつくっていく」ことを提言する。

 「霞が関商社化」とは制度設計の輸出入を指す。まず、「日本の場合は、超高齢化、人口減少などの『課題先進国』となるが、ここでつくられる制度や仕組みを世界でも通用するものにしていく必要がある」。
 そして、「一定程度の経営資源を投入して世界標準になることが無理だとわかった後は、日本基準をあきらめ、海外の基準を持ち込むべきである」とする。

 出島シナリオとは、まず「企業の中に、『出島』の事業部門をつくり、ここでグローバル化の練習を積み、遺伝子をハイブリット化させていく」。
 さらに、「21世紀アジアの実験都市」となるような出島を設ける。東京そのものを出島化することも選択肢だという。
 地方再生も大切だが、東京に集中的に追加投資をするという視点は最近はあまり聞かない。しかし、一点集中で臨まなければ、もはや日本のガラパゴス化は止まらないのかもしれない。

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佐々木俊尚著『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書)

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電子書籍の衝撃

 佐々木俊尚著『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー携書、2010年4月15日発行)を読んだ。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「電子書籍(でんししょせき)とは、古くより存在する紙とインクを利用した印刷物ではなく、電子機器のディスプレイで読むことができる出版物である」という。出版物がデジタル化され、ネット上で流通し、デジタル機器で読まれるというのが電子書籍のイメージである。

 しかし、本書で取り上げる電子書籍はもっと広い概念のようだ。書籍が電子化されるということは、単に書籍の内容がネットに乗るというだけではない。紙の本ではできないさまざまな機能が盛り込まれ、従来の本とは全く違う形になるかもしれない。本を書く人間も必ずしもプロに限られない。新しい出版文化が生まれる可能性がある。
 本書は「本の電子化」がこれまでの出版文化や出版ビジネスをどう変え、どんな新しいコンテンツビジネスを生み出すかを展望した、とても刺激的な本である。
 
 「はじめに」で佐々木氏は「音楽の世界では、インターネット配信を中心にした巨大なデジタル生態系(エコシステム)がいまや立ち上がっています。電子ブックが紙の本にかわる、あるいは紙の本を補完する社会のインフラとして定着していくためには、同じように電子ブックを取り巻く生態系が形成されていかなければなりません」とする。そして、そのための条件は以下の4つであるという。
 第一に、電子ブックを読むのに適した機器(デバイス)が普及してくること。
 第二に、本を購入し、読むための最適化されたプラットフォームが出現してくること。
 第三に、有名作家か無名のアマチュアかという属性が剥ぎ取られ、本がフラット化していくこと。
 第四に、電子ブックと読者が素晴らしい出会いの機会をもたらす新しいマッチングモデルが構築されてくること。

 電子ブックリーダーとして最も注目されるのが、アマゾンのキンドル。キンドルの対抗馬になるのがアップルのiPADだ。ただし長い目でみれば、勝負のポイントになるのはハードの機能ではなく、「それぞれがどのようなプラットフォームを作り上げていくか」だという。
 アップルはiTunesミュージックストアの成功で音楽ネット配信の盟主になったが、本書によると、「アマゾンも、このアップルの戦略を丹念に研究し、同じ戦略によって電子ブックの世界へと打って出た」。それでは、アップル、アマゾンは、どちらが勝つのだろうか。
 その分析は、ぜひ本書で読んでほしい。

 プラットフォーム争いには、もう1社、巨人が参入してきている。グーグルだ。
 「アップルとアマゾンが電子ブックリーダーというハードウェア製品から切り込んだのに対し、グーグルは最も自信のある分野である『検索』から電子ブックに侵入してきました。グーグルブック検索です」。
 さらに、「キンドルやiPadが電子ブック販売と購読システム、デバイスまでをも垂直統合しているのに対し、グーグルのクロームOSやアンドロイド、そしてブック検索はいずれもオープンプラットフォームです」。
 「この戦いはどちらの勝利になるかはまだわかりません」と佐々木氏は言うが、間違いなく言えるのは、そこに日本企業はいないということだ。

 海外勢の動きに対し、日本でも「1998年、約150社の出版社と電機メーカーが集まって、本格的な電子ブックリーダーを開発して広めようと『電子書籍コンソーシアム』という団体を旗揚げしたことがありました」。しかし、「このコンソーシアムはわずか2年で閉鎖されてしまい、当初もくろんでいた事業化は失敗に終わりました」。
 
 電子ブックが広がるためには、「これらのプラットフォームに、書き手がいかにしてやすやすと参加できるのかという」仕組みが必要と佐々木氏は言う。 それが「セルフパブリッシング」だ。本書はセルフパブリッシングの可能性について1章を充てて詳しく説明する。 

 そして、佐々木氏は、「守るべき出版文化とは、決して『出版業界』ではありません」「最も大切なのは、『読者と優秀な書き手にとっての最良の読書空間を作ること』です」と言い切る。
 「健全な出版文化とは、マニアックな本、特定分野に特化した本、全員に読まれる必要はないけれどもある層の人たちにはちゃんと読まれたい本。そういう本がきちんと読者のもとに送り届けられるような構造をいいます」とし、「タレントやランキングのようなマスモデルに基づいた情報流路から、ソーシャルメディアが生み出すマイクロインフルエンサー(自分にとって最も良き情報をもたらしてくれる人)とフォロワーの関係へ――」情報の流れ方が変わっていくという。
 たとえば、丸善丸の内本店にある「松丸本舗」は、「評論家の松岡正剛さんが品ぞろえをプロデュースしたコーナーで・・・新刊と既刊、ジャンルなどはまったく無視されて、松岡さん独特のテーマに沿って本が並べられています」。こうした「作家名やジャンル、ランキングといった本のパッケージ(属性)ではなく、本棚というコンテキストに沿って本を並べ替えた」提示の仕方で、マイクロインフルエンサーから情報を得ることが、電子ブック全盛の時代には当たり前になるとみる。

 書店に並んでいる本一冊一冊はいろいろな人が、ある思い、着想、主張などを伝えようと時間をかけて著したものだ。時間があれば、すべて読んでみたいと言う誘惑に駆られる。電子書籍が、著者と読者の新しい関係を作り、コンテンツが埋もれることなく、興味のある人に着実に伝わっていく環境を構築するものであることに期待する。

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清澄庭園(きよすみていえん、東京・清澄)~名石と動植物が来園者を歓迎

 岩崎彌太郎ゆかりの都立公園として、旧岩崎邸庭園(東京・池之端)六義園(東京・本駒込)に続き、清澄庭園(江東区清澄3-3-9、03・3641・5892、入園料150円、開園時間午前9時~午後5時)に行った。岩崎家が集めたという様々な形をした名石をはじめとする「石」が印象的な庭園。庭園の鯉やカメと戯れるのも楽しい。

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 チケット裏の説明。
 本園は、初め江戸の豪商紀ノ国屋文左衛門の別邸であったといわれ、その後、諸大名等の下屋敷として用いられてきましたが、明治十一年にいたって岩崎家の所有とするところとなり、同二十四年和洋両館を含む大庭園となりました。
 池泉には、隅田川から水を導き、潮の干満により庭趣に変化をもたせた(パンフレットによると、現在は雨水でまかなわれているという)潮入りの回遊式築山泉水庭で、大小の島や磯渡りを造り、池辺には岩崎家が全国各地より蒐集した奇岩珍石が巧みに配置してあります。
 大正十二年の関東大震災後、現在の庭園部分を東京市が寄附を受けて修復し、昭和七年一般に公開しました。また、この間には皇室より下賜された大正天皇葬場殿を現在地に移設修築し、大正記念館と命名、集会場として一般に公開しています。
 昭和二十年三月、本園は全域にわたり戦火を受けましたが、戦後は記念館の再建と併せて、奇跡的に焼失を免がれた涼亭や池辺の庭石等をもとに逐次園景も修復され、今なお明治時代の代表的庭園として知られています。
 開園年月日 昭和7年7月24日
 面積(庭園部分) 38,967㎡
 休園日 年末年始(12月29日から翌年1月1日)

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 岩崎家は自社の汽船で全国の名石を各地から集め、園内に配置したという。写真は「伊豆磯石」のひとつ。

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 生駒石。

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 アケビがきれいだった。

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 伊豆式根島石。

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 現在は採取が禁止されている幻の石、佐渡赤玉石。

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 相州真鶴石。

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 これも生駒石。

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 加茂真黒石。

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 讃岐御影石。

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 これまた、生駒石。生駒石が好きなのかもしれない。(^^ゞ

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 若々しい松。

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 京都保津川石。

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 磯渡り。池の端に石を飛び飛びに置いて歩けるようにしたもの。広々とした池の眺めが楽しめる。

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 甲羅干しをするカメ。体を温め、血の循環をよくしているそうだ。

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 中の島へ。

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 秩父青石。

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 鮮やかなツツジ。

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 桜はわずかに花を残すのみだった。

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 鯉の餌(麩、1袋150円)を持ち歩いていると楽しい。カメも好きなようで必死に餌まで泳いでパクリ。競争相手が来ると、水中にもぐるのだが、一口では食べられず、食べ残しが水面に浮く。それに気づいて鯉も集まり、最後は鯉が大きな口で一のみ。

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 石仏群。

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 その説明。写真をクリックしてください。

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 表情のよいお地蔵様。

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 南から見た庭園。

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 世間話をする?カメ。

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 伊予青石。

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 紀州青石。

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 根府川石。

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 自由広場は八重桜(サトザクラ)が満開だった。

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 女の子も撮影。

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 牡丹のような花の形。

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 フキ。

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 シャガが一面に咲いていた。

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 近くでみたシャガ。

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 花菖蒲田。

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 芭蕉の句碑。
 説明があった、
 当庭園より北北西400m程の所に深川芭蕉庵跡(江東区常盤1丁目3番・都指定旧跡)があります。
 松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
 かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享3年(1685)の春、詠まれています。
 この碑は、昭和9年に其角堂九代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願いをしてこの地に移したものです。従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあると言うことではありません。
 なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採茶庵跡がありますが、芭蕉は元禄2年(1689)に「奥の細道」の旅をここから出発しました。

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 涼亭。 明治42年に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたもの。和60年度に全面改築工事を行った。集会場として利用できる。

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 伊豆川名磯石。

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 南から見た石橋。

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 讃岐御影石。

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 サギが1羽いた。

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 魚を狙っている様子。

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 飛び立とうとするサギ。

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 飛んでいるサギ。

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 石橋は鯉に餌をやりやすい場で大勢の人が立ち止まる。

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 鯉のぼりのような大きな口の鯉。

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 伊豆網代磯石。

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 隣にある清澄公園に行くと、「深川親睦園」当時の建物の写真がある(クリックすると拡大した画像で見られます)。この公園の場所に西洋館があったらしい。
●西洋館 Western-style house
英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理によるもので、明治19年(1886)に着工して明治22年(1889)に竣工しました。鹿鳴館時代の建築技術が生かされた建坪782坪(約2581㎡)で、鋳鉄製テラス、イスラム風ドーム、オランダ風の装飾破風などのデザインを有していました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の際に焼失してしまいました。

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●深川親睦園当時 Hukagawashinbokuen(The 1880's)
庭園の主な施設として河田小三郎が設計監理した日本館、英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理による西洋館がみられました。これらの建造物は鹿鳴館時代の明治文化を反映した豪華さにおいて、岩崎家の権勢を天下に誇示したものでした(クリックすると拡大した画像で見られます)。

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●現在(The present)
対象12年(1923)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌13年に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました。昭和7年(1932年)より清澄庭園として一般公開されました(クリックすると拡大した画像で見られます)。

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どぜう 伊せ喜(東京・江東、どぜう、鯉、うなぎ、なまず)

 清澄庭園に行く前に昼食。『江戸散歩・東京散歩』(成美堂出版)で紹介していた、「どぜう 伊せ喜」(東京都江東区高橋2-5、03・3631・0005)に行った。
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 明治20年創業のどじょう料理専門店。

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 伊せ喜の店内には、テーブル席とお座敷があり、合わせて130人収容可能。「座敷の方がくつろげるけど足が窮屈で・・・」という人には掘りごたつ式の席も用意している。

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 『江戸散歩・東京散歩』で写真のあった、どぜう丸なべ(2300円)を頼んだ。
 このほか、骨ぬきどぜうなべ(2300円)、柳川なべ(2200円)などがある。

 どじょうは島根産。店の水槽でどろを吐かせてから調理するため、まったく臭みがない。割り下とネギの組み合わせは絶妙。骨があっても、かえって歯ごたえのよさでおいしく食べられる。割り下を追加していくと味も濃くなり、シンプルなすき焼きのような感じになる。どじょうはあまり得意ではなかったが、おいしく食べられた。

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 どじょう以外はネギのみなのだが、ネギとどじょうが実によく合う。たくさんネギを食べた。

 営業時間は平日11:30~14:00、17:00~21:00(L.O.)
 土曜、日曜、祝日は11:30=21:00(L.O.)
 月曜定休。

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アイスランド火山噴火に伴う噴煙で、ヨーロッパの空港が相次ぎ閉鎖

 日経電子版の4月17日10時31分配信の記事によると、「アイスランドの火山噴火に伴う噴煙は16日夜、南東方面に流れ空港の閉鎖は南仏やイタリアなどに広がった。上空の火山灰は滞留し、閉鎖中のパリの空港も当初予定していた同日夜の再開を延期した。空港閉鎖に追い込まれた国は予定を含め、これまでに23カ国に達した。主要空港の閉鎖は17日も続き、週末も運航は乱れる見通しだ」とのことだ。

 なぜ、ブログにアイスランド火山噴火でヨーロッパの空港が閉鎖しているという記事を引用したか。
 そう、ゴールデンウイークにプラハに行くからだ。

 頼む、ゴールデンウイークまでには、火山の噴火よ、おさまってくれ。

 なぜ噴煙がまずいのか。日経電子版によると「ジェットエンジンに火山灰が入ると高温で灰の成分が溶けてエンジン内部に付着し、最悪の場合はエンジンが止まる。速度計に火山灰が目詰まりし、計器が混乱する恐れもある。仏の空港では駐機中の機体のエンジンにカバーをかけて火山灰が入り込むのを防いでいる。航空機にとって火山灰は大敵だ」とのことだ。
 なるほど。

 プラハ在住の友人も領事館のメールを転送してくれた。

「領事め~る(非緊急用)」
4月16日午後現在、アイスランドの火山の噴火による噴煙の影響で、プラハ空港を始めとするチェコ国内の複数の空港では、安全確保のため、航空便の運航が見合わされています。また、英国、ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、アイルランド、ポーランド等、欧州北部の多くの国で空港の全面閉鎖又は一部閉鎖措置がとられている模様です。なお、空港の再開時期は、火山の活動状況や噴煙の拡散状況等に左右されるため、現時点では予測困難な状況です。

欧州発着の航空路線を利用される予定の方は、当該航空会社や関係国の航空当局及び報道等で最新の情報を確認することをお勧めします。

在チェコ日本国大使館領事部

http://www.cz.emb-japan.go.jp/jp/ryoji_index_jp.html

 群馬にいるときは浅間山が噴火するし、噴火に縁がある?

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六義園(東京・本駒込)~山あり、川あり、海あり。一国を再現したような広大さを感じる庭園

 六義園(りくぎえん、東京都文京区本駒込6-16-3、03・3941・2222、入園料300円、開園時間午前9時~午後5時)に行った。
 山あり、川あり、海あり。1国がそのまま庭園になったような広大さと、和歌の名勝を再現した美しさを楽しめる名園だった。
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 チケットの裏の説明。
 この庭園は、元禄15年(1702年)川越藩主柳沢吉保が自ら設計指揮して完成した回遊式築山泉水(つきやませんすい)庭園であります。園は吉保の文学的教養により作庭され、園名は古今和歌集の序文に見える六義にちなみ命名され、園内八十八箇所の名勝と共に元禄時代を代表する和歌趣味豊かな大名庭であります。宝永3年(1706年)には霊元上皇は園内名勝の中から12境8景の20ヶ所を選んで吉保に賜わりました。
 園地は現在残された数少ない大名庭の一つであり、国の特別名勝として文化財保護法により指定されております。(昭和28年3月31日)
 開園 昭和13年10月16日
 面積 87,809㎡
 案内 みごろ
     2月・・・・・・・・・・梅
     3~4月・・・・・・・桜
     4~5月・・・・・・・つつじ、さつき
     11月・・・・・・・・・紅葉(もみじ、かえで等)
 休園日 年末年始(12月29日から翌年1月1日)

 東京都公園協会のホームページ「公園へ行こう!」によると――。
 六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園です。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来します。
 庭園は中之島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されています。
 明治時代に入り、岩崎弥太郎氏(三菱創設者)の所有となった当園は、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されることになりました。昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。

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 園内に入ると、ヤマブキがまず、出迎えてくれる。

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 園内数カ所でヤマブキは見られるが、日が良く当たるのか、入り口付近のヤマブキがもっとも元気がよかった。

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 内庭大門。庭園の中心に入るための門で広場にはシダレザクラの大木が植えられている。

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 ソメイヨシノ。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していた。藤野寄命の調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり1900年、「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名された。名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」とされたが「吉野(桜)」の名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、上野公園のサクラを調査した藤野寄命博士が「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名したという。

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 花は散ってしまったが、見事なシダレザクラ。高さ約15m、幅約20m。開花は3月下旬頃。

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 大泉水の池畔の「出汐の湊」あたりから見た風景。正面に見える橋は「田鶴橋」。

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 妹山・背山(いもやませやま)。中の島にある築山。古くは女性のことを妹(いも)、男性のことを背(せ)と呼び、この、中の島は男女の間柄を表現している。イザナギ、イザナミの故事にちなむ「せきれい石」もある。妹背山は、和歌山県の紀ノ川を挟む場所にあり、和歌の名所。

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 休憩所兼売店。お土産と食べ物、飲み物を販売。マイルドココア300円、こんぶ茶250円、アイスコーヒー300円・・・。

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 すだ椎の巨木。

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 左の小さな島は蓬莱島(ほうらいじま)。神仙思想を主題とした石組みの一種で、典型的な洞窟石組(アーチ形)ノ島。

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 滝見の茶屋。あずまやの横を渓流が走り、岩の間から落ちて水しぶきをあげている。

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 あずまやからは、滝や石組などの景観や水音が楽しめる。

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 奥が三尊石。手前の洞のある枕のような石が「枕流洞(まくらながしのどう)」、水を三つに分けている石が「水分石」。

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 尋芳径(はなとうこみち)。吟花亭跡に向かう小路。山に来たような気分になる。

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 石柱。庭内の88ヵ所の景勝地(六義園八十八境)には、それぞれに石柱が建てられていたが、現在は32ヵ所のみが残っている。

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 吟花亭跡の周辺は様々な種類のツツジが咲いている。

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 普通のツツジとはちょっと違う。

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 ミツバツツジというらしい。

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 吹上茶屋に向かっていくと大きな松がある。吹上の松。

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 ソメイヨシノが咲き乱れるところに集団が。11時と14時にスタートする無料のガイドツアーに参加する人たちだ。

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 吹上茶屋で休みたかったが、まずつつじ茶屋に行った。明治年間、岩崎氏の代に、つつじの古木材を用いて建てられたもの。戦災を免れ、現代にその希少な姿を伝えている。11月下旬には、紅葉したモミジに囲まれ、見事な景観になる。

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 柱につつじの古木材を使用。

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 天井にも。

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 花筏 (ハナイカダ)を発見。

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 吹上茶屋に戻って一休み。

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 和菓子付きの抹茶(500円)。和菓子は大きく、抹茶はおいしかった。

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 池の外側を歩く。正面に見えるのは山陰橋。

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 白く見えるのがドウダンツツジ。これだけ立派なドウダンツツジはあまりない。

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 近くで見るとかわいい花。

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 藤浪橋を渡り、蛛道(ささかにのみち、小道がクモの糸のように細かいことからこう名付けられた)を通って藤代峠へ。

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 藤代峠(ふじしろとうげ)は園内で一番高い築山で、標高は35m。紀州にある同名の峠から名付けられた。

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 いただきは「富士見山」と呼ばれ、素晴らしい展望が開ける。

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 庭園全体が良く見える。

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 藤代峠を大泉水側から見る。

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 白と黒の鴨。

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 渡月橋。「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき」の歌から名付けられた石の橋。2枚の大岩の重量感が、あたりの雰囲気を引き締めている。

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 モミジ。

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 モミジの花。

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 芦辺茶屋跡の方からみた渡月橋。

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 ハナカイドウ。

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 鳥居跡。和歌三神の一人、衣通姫(ソトオリヒメ)を祀っていたらしい。

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 見事なモクレン。

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 アケビ。

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 アケビの花。

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 入り口付近に戻り、心泉亭(しんせんてい、集会場)、宜春亭(ぎしゅんてい、茶室)に行く途中、馬酔木(アセビ)を見つける。ほとんど咲いていなかったが、かろうじて咲いていたのが写真のアセビ。

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 シャガも一面に咲いていた。

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魚源(東京・本駒込、日本料理)

 六義園に午後に行くつもりで、昼食を食べるところを探していたら、あった。魚源(東京都文京区本駒込5-74-7、03・3946・1631)だ。
 「元気みなぎる山手線3兄弟タウン 巣鴨・大塚・駒込」という特集を組んだ『散歩の達人』2007年1月号に紹介されていた店だ。
 魚屋さんの2階で手の込んだお弁当をお昼に
 お昼がお薦めなのだ。
 「大正11年の創業以来、大和郷のお屋敷、病院、お寺などの御用聞きとして地元で愛されてきた魚屋さん。その2階にあるお座敷では・・・1人前から気軽に料理が味わえる。築地から仕入れた良質で新鮮な魚の焼き物や揚げ物。1品ずつ別の鍋で炊き上げ、素材の味が染み出た野菜の甘煮が詰まった松華堂弁当は格別」。

 予約をして行ってみると、本当に六義園に近い。

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 ちょっと奮発して、雑誌で紹介していたのと同じ楓(かえで)膳(1700円)を頼んだ。

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 色とりどりで楽しい。お弁当だが、天ぷらは揚げたて。

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 白魚の入ったお吸い物付き。

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 座敷で、のんびりできる。

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 布袋様。

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 美人画。

 おいしかったし、くつろげた。

 営業時間は9:00~21:00。夜の食事は懐石コースのみ(要予約)。
 月曜定休。

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旧岩崎邸庭園(東京・池之端)~心やすらぐ庭とクラシックコンサートでもてなし

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 東京都立 旧岩崎邸庭園(東京都台東区池之端1-3-45、03・3823・8033、入園料400円、開園時間午前9時~午後5時)に行った。
 心やすらぐ庭園とクラシックコンサートでもてなされ、岩崎家の一員になったような贅沢な気分が味わえる。

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 正門からチケットを売るサービスセンターまでの道の両脇には、ちょうどショカツサイ(諸葛菜)=中国原産の一年草。ムラサキハナナとも呼ばれ、土手などに一面に咲く様子は紫色の菜の花といった趣です(花の説明はすべて財団法人東京都公園協会の『都立庭園花めぐり』より)=が咲いていた。

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 アブラナ科。

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 洋館北側。シュロの木が異国情緒を醸し出している。

 入場券裏にある説明が簡潔。
旧岩崎邸庭園
<重要文化財旧岩崎家住宅>

 三菱財閥岩崎家本邸として明治29年に完成。設計は日本の西欧建築の父ともいわれる英国人建築家、ジョサイア・コンドル。かつて1万5000坪を超える敷地に20棟以上の建物がありましたが、現存するのは洋館、和館、撞球(どうきゅう)室のみです。
【洋館】木造2階建・地下室付きの本格的なヨーロッパ式邸宅。装飾には17世紀のジャコビアン様式を見ることができ、全体的にはイギリス・ルネサンス様式が取り入れられています。
【和館】洋館と結合して建てられた純和風建築。完成当時は建坪550坪に及びました現存する書院造りの広間は、接客と一族の冠婚葬祭および節句の際に用いられ、現在も橋本雅邦の日本画などが残っています。
【撞球室】撞球室(ビリヤード場)もコンドル設計の建物で、ジャコビアン様式の本館とは異なり、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りとなっています。
【庭園】越後高田藩・榊原氏の屋敷跡に建てられた岩崎邸の庭は、大名庭園の形式を一部踏襲するといわれます。その後、埋め立てられた池部分に芝が張られ、庭石、灯籠、築山が設けられました。「芝庭」をもつ近代の和洋折衷庭園の初期の形といわれます。

開園時間:午前9時~午後5時
休演日:年末年始(12月29日~1月1日)

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 洋館を見学。

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 2階へ。

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 客室。

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 客室。壁の派手な装飾が印象的。

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 ベランダ。

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 庭園。ベランダから正面を見たところ。

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 庭園。ベランダから左を見たところ。

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 2階に、撞球室の壁紙に使われていた金唐革紙が展示されていた。同じ文様の金唐革紙は、国会議事堂参議院内閣総務官室にも貼られているという。

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 運よく、1階で「土曜ミニコンサート」が始まった。
 13時、15時の2回、30分ほどのコンサートが催される。15時のコンサートを聴いた。
 東京藝術大学出身の演奏家を中心にしたコンサートを、歴史ある建物と共に味わうという趣向。
 今回はヴィオラ・中川玲美子さん、ピアノ・後藤友香理の演奏だった。
 中川さんはオーケストラ・アンサンブル金沢を経て、現在、藝大フィルハーモニーのヴィオラ奏者。
 後藤さんは現在東京藝術大学ピアノ科教育研究助手。

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 ブラームス ソナタop78「雨の歌」より第一楽章
 ピアソラ ル・グラン・タンゴ
 ヴィエニアフスキ 夢想
 デュニーク ホラ・スタッカート。
 岩崎邸での音楽会、とてもいい。岩崎邸に招かれたようだ。ずっと続けてほしい。
 サポーター基金に500円募金した。

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 サンルーム。お土産なども売っていた。『岩崎彌太郎物語 黒潮の海、積乱雲わく』(300円)、『岩崎久彌物語 雲がゆき、雲がひらけて』(200円)を買った。

 2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、坂本龍馬33年の生涯を、三菱財閥を築いた幕末屈指の経済人、 岩崎彌太郎の視線から描いており、岩崎彌太郎ゆかりのこの公園には来てみたかった。
 もっとも、彌太郎はこの立派な邸宅には住んでいない。
 その辺の事情を、『都立庭園花めぐり』がこぼれ話として紹介している。
家づくり、親子二代の夢
 岩崎家茅町本邸(旧岩崎邸庭園)は、岩崎彌太郎が明治11年(1878)、同15年(1882)に敷地1万4400余坪を購入したことに始まりました。彼は湯島梅園町より移り住み、ここに和風の庭園を築造しました。自宅の完成後、訪ねてきた親友尾崎忠治に「庭は広いが家が粗末だ。君も今少し立派な普請をしてもよい身分ではないか」と言われ、「70になったら立派なものを」と返答したそうです。しかし、明治18年(1885)2月、50歳の時に彌太郎は病で没し、家の夢は長男久彌に引き継がれることになりました。
 岩崎久彌が明治26年(1893)に三菱合資会社の社長に就任した後、本邸の新築計画が具体化し、明治29年(1896)、ついに親子の長年の夢がこの高台に結実したのでした。

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 洋館から和館へ。

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 天井が高い。

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 広間。

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 お抹茶席で、お抹茶セット(500円)、抹茶ぜんざい(500円)、白玉ぜんざい(600円)、バームクーヘンセット(バームクーヘンと珈琲、紅茶、オレンジジュースのセット、500円)を楽しめる。

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 カントウタンポポ=春は旧岩崎邸庭園の芝庭がこの花で埋まります。都市部では外来のセイヨウタンポポが一般的となり、カントウタンポポが残る場所は少なくなってしまいました。キク科=。
  『都立庭園花めぐり』の花暦を見ると、ちょうど今頃訪ねるのが一番いろいろな花が咲いていて絶好のタイミングだった。
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 サクラがまだきれいだった。

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 洋館南側。ベランダには列柱が立ち並ぶ。

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 スイスの山小屋を思わせる撞球室。

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 洋館から地下道でつながっている。

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 スノーフレーク。ヒガンバナ科。

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 クリスマスローズ。キンポウゲ科。

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 色違いのクリスマスローズ。

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 オドリコソウがどこに咲いているか分からなかったが、ショカツサイの合間に、ひっそりと咲いていた。

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 花の形が笠をかぶって踊る人に似ていることから名付けられたシソ科の多年生草木。野、道ばたの半日陰に生え、直立して高さ30~50cmとなります。4~6月頃、葉の脇に白色又淡紅紫色の唇型花を数個輪生させます。

 調べていたら、都立公園で岩崎彌太郎ゆかりの公園はほかにもあった。
 一つが六義園(文京区本駒込6-16-3)。明治時代に、岩崎彌太郎 の所有となり、昭和13年に東京市に寄付された。
 もう一つが清澄庭園(江東区清澄3-3-9)。明治11年、岩崎彌太郎 は、荒廃したこの地を買取り、社員の慰安や貴賓を招待する場として竣工。後に清澄庭園は、関東大震災で避難場所の役割を果たし、多くの人命を救った。岩崎家は、こうした庭園の持つ防災機能を重視。公園用地として東京市に寄付した。

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歌舞伎座さよなら公演「御名残四月大歌舞伎」第三部を観た~その4 歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)

 助六由縁江戸桜の配役は以下の通り。
 花川戸助六  團十郎
 三浦屋揚巻  玉三郎
 通人里暁  勘三郎
 福山かつぎ寿吉  三津五郎
 三浦屋白玉  福 助
 男伊達 山谷弥吉  権十郎
 同   田甫富松  松 江
 同   竹門虎蔵  男女蔵
 同  砂利場石造  亀三郎
 同   石浜浪七  亀 寿
 傾城八重衣  松 也
 同  浮橋  梅 枝
 同  胡蝶  巳之助
 同  愛染  新 悟
 金棒引  種太郎
 同  萬太郎
 同  廣太郎
 同  廣 松
 禿たより  玉太郎
 白玉付番新梅ヶ香  歌 江
 奴奈良平  亀 蔵
 国侍利金太  市 蔵
 遣手お辰  右之助
 番頭新造白菊  家 橘
 朝顔仙平  歌 六
 曽我満江  東 蔵
 三浦屋女房お松  秀太郎
 髭の意休  左團次
 くわんぺら門兵衛  仁左衛門
 白酒売新兵衛  菊五郎
 口上  海老蔵

 パンフレットによると――。
 【助六由縁江戸桜】新吉原の三浦屋の格子先に、花魁の揚巻や白玉が居並ぶ中、髭の意休が揚巻を口説きます。しかし助六という間夫がいる揚巻は、意休に悪態をついて見世の中へと去ってしまいます。ここへ助六がやって来て、意休に喧嘩をしかけます。やがて意休の子分くわんぺら門兵衛が、福山かつぎ寿吉に言い掛かりをつけるので、助六は門兵衛やその弟分の朝顔仙平を懲らしめて意休を挑発しますが、意休は我慢してその場を去ります。そこへ白酒売の新兵衛が通りかかり、助六を呼び止めます。実は助六は曽我五郎の世を忍ぶ姿で、新兵衛は兄の十郎。弟の行状を心配する十郎に対して、五郎は紛失した源氏の重宝友切丸の行方を訊ねるために喧嘩を売っていることを明かすと、共に通人里暁などに喧嘩を売ります。ここへ兄弟の母の曽我満江が現れ、二人を諭します。満江と入れ替わるように再び現れた意休が、ついに抜いた刀はまさしく友切丸。五郎は揚巻の助けで意休の帰りを待ち伏せすることとするのでした。歌舞伎十八番の、華やかな舞台をお楽しみください。

 歌舞伎については専門的なことは何も知らないが、絢爛豪華。江戸絵巻を観ているようだった。
 歌舞伎は脚光を浴びている役者以外は「静止画」であり、「背景」になってしまうのが面白かった。
 静と動の転換、心地よい間の取り方、台詞と浄瑠璃のテンポの良さ。ユーモアもふんだんにある。冗長な部分がない、削り込んだシンプルな脚本も良かった。
 最も盛り上がったのが役者が花道で大見得を切るとき。役者の顔が浮かぶくらいになっていれば、さらに10倍、歌舞伎は面白いのだと思う。

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 歌舞伎初心者だが、人生は長い。新歌舞伎座が出来る時には、目当ての役者を観に行けるくらいになっていたい。

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歌舞伎座さよなら公演「御名残四月大歌舞伎」第三部を観た~その3 吉兆

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 幕間は25分(午後7時15分から7時40分まで)しかないが、吉兆(東京都中央区銀座4-12-15歌舞伎座2階、お問い合わせ・予約専用電話03・3541・8164=受付時間10:00~17:00、吉兆直通電話03・3542・2450)でゆったり過ごした。

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 松花堂弁当(6300円)を頼んでおいた。

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 おしながき。

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 席でエビスビール(840円)も頼んだ。お弁当だと、刺身、天ぷら・・・などでだまされしまうことが多いが、煮物なども大変美味しく、まずいものがなかった。吉兆の料理は生まれて初めて食べた。うれしい。

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 ご飯とお吸い物。ご飯はおかわり自由。

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 20テーブル、78席。全席禁煙。
 5分前に席に戻ったので20分の食事だったが、楽しかった。
 営業時間は歌舞伎座公演に準じる。

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歌舞伎座さよなら公演「御名残四月大歌舞伎」第三部を観た~その2 実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)

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 2階の入り口には歌舞伎役者の胸像。

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 2階の一等席。

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 花道はやや見づらいが、全体を観るのにはいい席だった。

 実録先代萩の配役は以下の通り。
 乳人浅岡  芝 翫
 松前鉄之助  橋之助
 局錦木  萬次郎
 局松島  孝太郎
 腰元梅香  児太郎
 亀千代  千之助
 千代松  宜 生
 局呉竹  扇 雀
 局沢田  芝 雀
 片倉小十郎  幸四郎

 パンフレットによると――。
 【実録先代萩】 奥州伊達家では、お家乗っ取りを企む江戸家老の原田甲斐一味が、幼い藩主の亀千代の命を狙っているため、伊達の一門、伊達安芸が一味の反逆をくいとめようと闘っています。安芸の娘である乳人浅岡も父と心を合わせ、忠臣松前鉄之助とともに亀千代を日夜守護しています。ある日、御殿に籠りきりの亀千代を、局の沢田、錦木、呉竹、松島らが慰めるところ、家老片倉小十郎が、甲斐一味の連判状を持参して出府します。一味の悪事の証拠が手に入って喜ぶ浅岡に、小十郎は国元から連れてきた子をお目見得させたいと申し出ます。この子こそ、離れ離れに暮らしてきた浅岡の実子の千代松。わが子に会いたさにちぢに乱れる浅岡でしたが、主君への奉公が第一と、会わずに帰そうとします。ところが亀千代の命で召し出された千代松。浅岡はお家の危機を語り、お家安泰となった時には親子と名乗ろうと話すと、千代松もそれを受け入れるのでした。〝子別れ〟の代表的な一幕をお楽しみください。

 亀千代、千代松を演ずる子供の役者の声がよく通り、かわいらしさもあって、引き付けられた。
 場面の展開はほとんどないのだが、シンプルさが歌舞伎の良さなのだろう。
 浄瑠璃がすばらしく、心を打たれた。

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歌舞伎座さよなら公演「御名残四月大歌舞伎」第三部を観た~その1 あと24日で歌舞伎座休館

 今、歌舞伎座(東京都中央区銀座4-12-15、03・3541・3131)が大変な人気だ。歌舞伎の殿堂として、121年の伝統と歴史を育んできたが、この4月の興行をもって、改築のため、休館となるからだ。
 「歌舞伎座さよなら公演」のチケットは入手困難と言われている。
 しかし、昨日になって、今日の公演に行けなくなった友人がチケットを譲ってくれることになった。今日はIT関連のシンポジウムに行く予定だったが、迷わず歌舞伎座での観劇を選んだ。
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 “プラチナチケット”。

 松竹のプレスリリースのよると――。
 「重要無形文化財に指定され、また、ユネスコにも世界無形文化遺産として登録されている歌舞伎、その歌舞伎の殿堂である現在の歌舞伎座は、大正13年12月に竣工した躯体を基に、昭和25年の戦災被害による改修工事を経て、現在に至っております。すでに築後84年、改修後58年が経過し、建物の老朽化や劇場舞台機構の陳腐化がみられ、耐震性能や防災性能の確保、バリアフリー化への対応など諸機能の更新が急務となっております。当社は、歌舞伎というかけがえのない日本の財産を後世に伝えるために歌舞伎座を建替える必要があると判断し、株式会社歌舞伎座と共同で、劇場と賃貸オフィスビルを併設した建物を建設することと致しました」。
 「今回の建替えの主眼は、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」の継承と考えております。そのため、劇場は従来通りに低層で構え、その独立性を重視した日本様式の外観デザインとし、銀座の街並みに融合するものを目指します。また、新たに魅力溢れる文化施設も整備し、最先端のオフィスの提供や防災支援、緑化整備等さまざまな機能向上も兼ね備えた建物に致して参ります」。
 敷地面積約6790㎡ 。建物は、地下4 階、地上29 階、塔屋2 階で、延べ床面積約9万3900㎡。劇場のほか、事務所、店舗、駐車場などを設ける。
 平成22年5月に着工し、平成25年春竣工の予定。三菱地所設計+隈研吾建築都市設計事務所 による共同設計。
 劇場の客席数は現存(第四期)と同程度を想定 【参考:現存は1859 席 一幕見席除く】。
 舞台寸法も現存(第四期)と同程度を想定 【参考:現存は間口27.5×奥行20.6×高さ6.3m】。
 事業費は約180億円。

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 ぱらぱらと雨が降っていたが、歌舞伎座前はものすごい人だかりだった。

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 「御名残四月大歌舞伎」の垂れ幕。

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 演目は第一部が
 一、御名残木挽闇爭(おなごりこびきのだんまり)
 二、熊谷陣屋(くまがいじんや)
 三、連獅子(れんじし)
 第二部が
 一、寺子屋(てらこや)
 二、三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)
 三、藤娘(ふじむすめ)
 第三部が
 一、実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)
 二、助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)
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 カウントダウン。休館まで、あと24日。

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 歌舞伎座の歌舞伎は、2007年8月に「一幕見席」で観たことがあるが、4階以外には行けず、正直言って十分には楽しめなかった。今日はどこでも行ける。(^O^)/
 映画館の売店くらいの規模かと思っていたので、売店が多さに驚いた。歌舞伎はお弁当やお土産とセットで楽しむものだと、思った。

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 人形焼。

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 「めでたい焼」などもある。和菓子は豊富だ。

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 席が二階だったので「芝居茶屋」で――。

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 くず餅を買った。一等席だったけれど、あまり広くはないので、蜜をかけるようなものはやめた方がよかったが…。

 幕間の食事は「吉兆」で松花堂弁当(6300円)を予約。こうなったら徹底的に豪勢に(^-^)。

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花見その3 皇居周辺

 桜と言えば皇居周辺。ただ、その中でも、ゆっくり花見ができる穴場がある。東京国立近代美術館のカフェ・レストラン、クイーン・アリス アクア(東京都千代田区北の丸公園3-1 東京国立近代美術館2F、03・5219・3535)だ。
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 今日のようなちょっと寒い日でも暖かく、桜を見ながらゆっくり読書できる"特等席"。

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 この後、皇居沿いを散歩。

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 高速道路の向こうに見える千鳥ヶ淵は満開。

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 千鳥ヶ淵交差点から内堀通りを半蔵門方面へ行ったところ。

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 イギリス大使館前。

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 年末に行った国会前庭に行ってみる。そこから見る皇居。

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 南地区の回遊式庭園に桜が咲いていた。あまり人もおらず穴場かもしれない。

 ゆっくり花見を楽しんだ3日間だった。

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花見その2 都立小金井公園内

 都立小金井公園に面したところに自宅があり、小金井公園をまるで自分の庭のように思っている会社の先輩、Kさん主催の恒例の花見の会に参加した。
 場所は「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市桜町3-7-1、042・388・3300)の入り口の右側。毎年の定位置。小金井公園の桜はこの付近が一番美しい。

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 江戸東京たてもの園入り口までの道の両脇に桜が植えてある。

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 満開の桜の前では、いろいろなイベントが繰り広げられ、大勢の人でにぎわっていた。

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 われわれの花見グループはとても見つからないと思ったが、後輩に、顔のでかいS君がいて、意外にもすぐにみつけられた。

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 ちょっと寒かったが、シートを敷いて、酒を飲む、おきまりの形がいい。これぞ花見。

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 地元密着路線のケーブルテレビ会社、J:COMが撮影に来ていた。

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 宴は午前11時過ぎから午後3時ごろまで。すっかり酔ってしまった。

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 気持ちが晴れ晴れするきれいな桜。

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花見その1 市ヶ谷・外濠公園の夜桜

 東京は桜が満開。桜の木の周りは急に晴れ舞台に変わる。
 さっそく友人の催す夜桜の花見の会に行った。
 場所は、千代田区五番町の「五番町児童公園」。
 
 この公園は外濠公園の一部。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「外濠公園(そとぼりこうえん)とは、東京都千代田区(一部新宿区)にある公園である。江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、濠に沿ってJR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅南側までの約2kmにわたって細長く続く」。「新見附橋付近、市ケ谷駅付近、四ツ谷駅付近でそれぞれ街路により分断されて」いる。市ヶ谷駅で分断された公園が再び始まるのが、この児童公園だ。

 この児童公園の隣に友人の勤める会社があり、彼らが自分の庭のようなこの場所で花見の宴を催した。
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 今年初めて、参加させてもらった。気温は低かったが、なかなかの夜桜だった。

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 彼の大学、高校の友人、お祭りで一緒に阿波踊りを踊る仲間などが集まった。

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 それぞれに自慢の花見の場所があるのだなあと感心。

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