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田中充子著『プラハを歩く』(岩波新書)を読み、プラハの見どころをチェック・その3 新市街

 『プラハを歩く』によると、「カレル四世は、14世紀になって、4番目の街として『新市街』をつくった」という。
 「ボヘミアを統一したカレル四世は、プシェミスル家とルクセンブルク家の血をひいている。・・・その彼は、プラハ城とヴィシェフラット(7世紀の伝説の王妃リブシェが住んでいた城)の再建、聖ヴィート大聖堂やカレル橋の建設、多くの教会や修道院の創建、そして中欧で最初の大学の創設などたくさんの事業をおこなった。・・・なかでも新市街の建設は、今日考えても、びっくりするほどスケールが大きい」。
 「カレルの都市計画の特徴は、広場と格子状の道路である。・・・カレルは新市街の核として、穀物市場(現在のセノヴァージュネー広場)、馬市場(現在のヴァーツラフ広場)、家畜市場(現在のカレル広場)という三つの広場を旧市街から放射線状に配置し、その間を広い道路でつないだ」。
 「プラハは、それまでもヨーロッパの大都市の一つに数えられていたが、新市街ができたことにより、面積においてはパリ、ロンドン、ベルリン、ウィーンなどの都市を抜いてアルプス以北で最大の都市となる」。
 「父の死後、カレルは・・・神聖ローマ皇帝の地位につき、・・・プラハを神聖ローマ帝国に相応しい街、つまりローマやコンスタンチノープルに匹敵する街にするため、次々にビッグプロジェクトを実行した。それにともなって貴族や商人、職人たちが増加し、膨張した人口は、マラー・ストラナと旧市街では吸収できなくなり、そのうえヴルタヴァ川の氾濫や火災が重なったこともあって旧市街の外側に隣接して新市街を計画し、商人や手工業者の街をつくったのである」。

 火薬塔の門の外が新市街。「火薬塔からヴァーツラフ広場までのおよそ1キロメートルはプラハきってのビジネス街である。1760年に旧市街を取り巻いていた濠を埋めてつくられたところから、ナ・プシコピェ通り(『お濠の上に』という意味)とよばれている。」
 「1860年代から1930年代にかけて、通りには、ホテルやレストラン、それにブルジョワ階級の家々が、ネオ・ルネサンスやネオ・バロック、さらにアール・ヌーヴォーなどの様式で建てられた」

 ヴァーツラフ広場は「『プラハのシャンゼリゼ』といわれる、プラハ随一のショッピング街である。広場の南端の高みには威風堂々とした国民博物館が屏風のように建っている」

 「その前には、馬にまたがった聖ヴァーツラフの像があって、いつもたくさんの人が待ち合わせをしている」

 「聖ヴァーツラフ像の前方に、このソ連軍の侵攻に抗議して焼身自殺したヤン・パラフの遺影がある。・・・ヴァーツラフ広場はソ連の軍事介入にたいする抵抗のシンボルとなった」。
 「そして1989年、スターリン主義的な共産党の一党独裁が内部から崩壊していく過程で、ほとんど暴力事件を伴わない『ビロード革命』が進行した・・・劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルが内外にむけて声明を発表したのも、この広場のビルのバルコニーからだった」

 新市街で必ず訪ねたいのが国民劇場だ。「チェコ人の手で建設された民族復興のシンボルである」。
 建築家ヨゼフ・ズィーテクがネオ・ルネサンス様式で設計したが、最後の仕上げをしていた時に火事で焼けおちてしまう。「この突然の不幸な出来事に、人々は茫然と立ちつくした。その時、一人の男が『また劇場を建てよう』といって帽子を回した。すると人々は競ってその帽子にお金を入れ始めたという。こうして再び劇場の建設は始まった」
 ズィーテクは火事の責任もとって弟子のシュルツの後を譲ったが、シュルツはズィーテクの設計をほとんど踏襲したという。「舞台の中央上部には・・・『民族が自分自身のために』という文字が刻みこまれた。こけら落としには・・・スメタナのオペラ『リブシェ』が上演された」。

 新市街ではキュビズム様式の建物も見ることができる。
 『地球の歩き方』によると――。
 キュビスム様式 1911~25年 ピカソやブラックなどの絵画で知られるキュビスムが建築に取り入れられたのは、世界でもチェコだけ。周辺ではモダニズム建築が主流になっていた20世紀初めに起こった。チェコのアバンギャルド芸術運動の一部だ。斜めのラインを立体的に組み合わせた、まるでボヘミアン・グラスのカットを思わせる多面性が特徴。
 代表的なのが黒い聖母の家
 
 最後にモダン建築。
 『地球の歩き方』によると――。
 モダン建築 20世紀後半~ 20世紀初頭から世界的な主流となっていた機能主義・合理主義を中心とするモダニズム建築。チェコでは、それが町に合わないという意見を持つ建築家たちによってキュビスム様式が確立された。しかしそれも賛否両論で幕を閉じ、模索の時代に入っていく。ダンシング・ビルはそれがユニークに現れた例だろう。
 「『ダンスをするビル』はヴルタヴァ川に架かるイラーセク橋のたもとの交差点の角にある。そこは戦後50年間空地だった。・・・プラハは第二次世界大戦中2発だけ爆弾をうけた。ともに誤爆であるが、その爆弾のひとつがここに落ち、バロックの建物は半壊し、以来、放置されたままだった。隣はたまたま劇作家ハヴェルの家で、彼は破壊される前のビルの1階のビヤホールで、よくビールを飲んでいたという」。

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