田中充子著『プラハを歩く』(岩波新書)を読み、プラハの見どころをチェック・その2 旧市街
旧市街の見どころの一番は、旧市庁舎。
『地球の歩き方』によると、市庁舎の塔につけられたカラクリ時計は9:00~21:00の毎正時になると仕掛けが動き出す。
『プラハを歩く』の記述に戻る。
時刻がくるとまず「死神」が鐘を鳴らし、二つの小窓が開く。すると、十字架や聖書を手にした「十二使徒」の人形が一方の小窓からつぎつぎあらわれて正面を向き、くるりと背を向けてもう一つの小窓へ姿を消す。一巡すると最後に「鶏」が人鳴きして窓が閉まる。
そして、建物の説明。
まず、1338年に広場の角地の「ヴォルフィン館」を買い取り、1364年にその一部にゴシック様式の時計塔を建てる。・・・19世紀になって、さらに西隣の「ミケシュ館」と「雄鶏館」が購入され、最後に北側が増築された。その結果、市庁舎は14-19世紀の様式の異なる建物の集合体となった。
旧市街広場のど真ん中に、大きな台の上に立つ異様な像がある。
「宗教改革者ヤン・フス(1372頃-1415)のブロンズ像である。周りには、兵士や亡命者たち、母子などの群像を従えている」
「フスがカトリック教会を批判し、大衆に向かって説教をした聖ベツレヘム礼拝堂は、旧市街地広場から歩いて5、6分のところにある。・・・聖ベツレヘム礼拝堂はどこよりも簡素だ」
ティーン教会についての最新情報は『旅名人ブックス プラハ歴史散歩~中世ヨーロッパの魅力を凝縮』(日経BP企画、第5版・分割新版)の記述を引用する。
「たくさんの小塔を飾りにつけた教会で、プラハでは大聖堂の次に重要な教会である。鋭い2本の尖塔はそれぞれに8本の小塔を持っている。そのため無数の小塔があるように見えて非常に美しい」「フス戦争以降はフス派の穏健派が拠点にしていた。・・・しかし、ビーラー・ホラの戦いでプロテスタント派が大敗した後はティーン教会もカトリック教会に変えられてしまった。これに怒ったプロテスタント信者が抗議のため教会の前を建物で塞いでしまった」。
『プラハを歩く』では構成上、便宜的に第四章「新市街」の項に入っているが、火薬塔や市民会館はガイドブックでは「旧市街」に分類されている。
「プラハ市民が歴史的な町並に新しい建物を建てることを好まない、というのは現代だけの現象ではない。火薬塔の隣には、かつて景観問題で騒がれた市民会館が建っている。・・・両者は様式も色彩も装飾も、ヴォリュームも形態もまったく異なるのだ」「市民会館は建設にさいしてたくさんの問題を抱えていた。その一つは画家のアルフォンス・ムハである。ムハはパリから帰国すると、市民会館の内装を一人で担当するかわりに、報酬は下絵の値段でいいと申し出た。これに対して新聞は『下絵の値段が高額すぎる』と書いた。・・・結局、ムハは市長サロンの内装だけを担当した」。
アール・ヌーヴォー様式については、『地球の歩き方』を参照。
アール・ヌーヴォー様式 19世紀末~20世紀初め フランスで発祥した装飾美術。花やつる草など、生物の流れるような柔らかいフォルムを取り入れた優美で官能的な装飾のことで、建築構造としての特徴ではない。機能主義が強いモダニズムが入ってくる少し前に新たな様式として登場したが、伝統を重んじる一部の人間からは非難の声を浴びることもあった。
『プラハを歩く』の著者、田中充子さんがこの本の「はじめ」と「むすび」で取り上げたかつてのゲットー(ユダヤ人街)にはアール・ヌーヴォーの一大アパート群がある。
「ヨーロッパのゲットーのなかでも、プラハのそれは最後まで残っていた。しかし、1848年に廃止されて、プラハ五区としてプラハ市に編入された。そして皇帝ヨーゼフ二世にちなんで『ヨゼフォフ』と名づけられた」「ところがスラム化がいっそう進んだため、20世紀初めに大規模に再開発された」「その新しいアパートの建築意匠としてアール・ヌーヴォー風のデザインが採用された」「まず彫刻がたいへん楽しい。それまで見たバロック彫刻の神話の神々や英雄などとは違って。子供、魚、鷲、熊、少女、太陽、花束などが生き生きと彫り込まれている」。
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