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プラハ“1日観光”コースその2 カレル橋~旧市街

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 橋塔。

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 カレル橋のたもとにある"3羽のダチョウ"ホテル。
 Hotel U 3 Pstrosu
 Dražického náměstí 12, 11000 Prague

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 カレル橋。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「カレル橋(カレルばし、チェコ語:Karlův most, 英語:Charles Bridge )はチェコ共和国の首都、プラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっている橋である。
 ヨーロッパに現存する最古の石橋。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成した。1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。また、西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった」。
 「橋の長さは516mで幅は10m。16連のアーチから構成されている。また橋を守るために3つの塔が建てられておりとくに旧市街側の塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいる。その多くはバロック様式である。カトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ多くの人に触られたためつるつるになっている」。
 
 左右の欄干にある聖人像は17世紀から19世紀にかけて加えられたものだと言う。

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 ヴルタヴァ川を眺める観光客や物売りで、昼間はいつも混雑している。

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 聖ヤン・ネポムツキー像。
 『黄金のプラハ』によると、聖ヤン・ネポムツキーは異色の聖者である。「伝説によれば、カレル4世の息子のヴァーツラフ4世は、品行が悪かった上、ソフィア王妃を疑って、妃の聴聞司祭だった・・・ヤン・ネポムツキーから妃の告解の秘密を聞き出そうとしたが、ネポムツキーは秘密を漏らすことを拒んだ。そのため、ネポムツキーはヴァーツラフ王の命令で拷問にかけて殺され、夜のカレル橋からヴルダヴァ川に投げ込まれた。そして、ネポムツキーが水中に消えていったとき、そこに五つの星が現れて水面に輝いたという。・・・そこから神の祝福を示す棕櫚(しゅろ)の枝を持った天使が降りてきたという。このために、聖ネポムツキーの図像において、五つの星と棕櫚の枝がネポムツキーを示すシンボルになったのである」。
 ところが同書によると、この伝説自体が怪しいという。伝説のモデルになったネポムクのヤンは実直な法律家で、国王が知りたがったのは対立する大司教の政治的計画だったという。ヤンが拷問にかけられて死んだのは事実だが、聖人ではなかったのである。詳しくは同書を読んでいただくとして、「チェコの民族主義者たちは、聖ヤン崇拝は反宗教改革の時代にイエズス会がフス崇拝を置き換え消し去るために捏造したものだと見なして、これを攻撃した」らしい。「今では、もっぱら鑑賞の対象になった往時の聖ヤン崇拝の記念物が、プラハの町を飾るばかりである」。

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 ネポムツキーが投げ込まれた場所を示す十字架。

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 この十字架に触れると良いことがあるとされ、触れていく観光客があとを 絶たない。

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 ブロンズの十字架像は1657年に建立された。
 『旅名人ブックス プラハ歴史散歩』によると、「旧市街側の突起部分は橋の建設当初から処刑場として使われていた。ここで首を切られ川に投げ捨てられる罪人が最後の祈りを捧げるようにと刑場の向かい側に十字架が建てられた」という。
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 十字架を飾る金文字がヘブライ語で書かれているのは、「十字架をあざ笑ったあるユダヤ人から徴収した罰金で作ったから」だそうだ。

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 旧市街地側の橋塔。

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 14世紀のカレル一世・神聖ローマ皇帝カール四世の像。ガイドブックや本では「カレル一世」と「カレル四世」の表記が混在しているが、プラハを大きく発展させたカレルの像のようである。

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 アップで。

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 クレメンティヌム。『地球の歩き方』によると、「強大化する一方のフス派におそれをなしたフェルディナント1世が、フス派に対抗するため宗教勢力としてカトリックのイエズス会をプラハへ招き、1556年に修道院を創建したのがそもそもの始まり。1601年にはプラハで最初のプラハで最初のイエズス会の教会である聖サルヴァートル教会も建てられた」。

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 ドイツの天文学者、ケプラーの家。1599年、ティコ・ブラーエ(1546-1601)に助手としてプラハに招かれて、ケプラーはプラハに住んだ。ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe 、1546年12月14日 - 1601年10月24日)は、デンマークの天文学者。厖大な天体観測記録を残し、ケプラーの法則を生む基礎を作ったという。

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 クラム・ガラス宮殿。正面玄関の力強いヘラクレス像の彫刻(バロック様式)が有名。

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 旧市街地広場。

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 旧市庁舎。 『地球の歩き方』によると、市庁舎の塔につけられたカラクリ時計は9:00~21:00の毎正時になると仕掛けが動き出す。まもなく14時だ。楽しみに待つ。

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 『プラハを歩く』によると――。
 時刻がくるとまず「死神」が鐘を鳴らし、二つの小窓が開く。すると、十字架や聖書を手にした「十二使徒」の人形が一方の小窓からつぎつぎあらわれて正面を向き、くるりと背を向けてもう一つの小窓へ姿を消す。一巡すると最後に「鶏」が人鳴きして窓が閉まる。

 期待は高まった。ところが――。
 小窓の向こう側を人形がくるくる回るだけでよく見えない。有楽町マリオンの時計台みたいに人形がせり出してくるイメージを持っていたのが間違いだった。人形たちは極めて控えめな登場の仕方だった。(^^ゞ

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 ティーン教会。ゴシック様式の建物。15世紀前半はフス派の本拠地だった。

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 ヤン・フス像。
 『黄金のプラハ』によると、「宗教改革の指導者になったのがプラハ大学の総長、ヤン・フスで、1415年に異端者として処刑されると、フス派とカトリック派との間で激しい争いが繰り広げられた」。
 『地球の歩き方』によると、「フスの像は、フスの没後500年の1915年に彫刻家ラジスラフ・シャロウンによって造られた。フス像の周りには、フス派の戦士たちや国家再生の意味を込めた母の像が彫られている」。

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 ゴルツ・キンスキー宮殿=ロココ様式(左)と石の鐘の家=ゴシック様式。

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 旧市街広場から火薬塔まで続くツェレトゥナー通り。『プラハ歴史散歩』によると、「ウンゲルト(外国商人が無料で泊まることができた教会管理の無料宿泊所)に入りきれなかった外国商人は外の道路にテントを張って寝泊まりしていた。中世ではパン屋ばかり並んでおり、・・・20世紀初頭以降はお洒落な店が集まるようになり・・・今日ではちょっと高めの土産物屋が集まっている」。

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 黒い聖母の家。ヨゼフ・ゴチャール設計の代表的なキュビスム建築。

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 火薬塔。もともと1475年にゴシック様式で建てられた城壁の門だった。17世紀に火薬倉庫として利用されたため、こう呼ばれるようになった。現在の建物は19世紀に修復されたもの。

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 下から見上げたところ。
 
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 市民会館。内部は、チェコの芸術家たちによるアール・ヌーヴォーの華麗な装飾が施されている。 

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 ガイドツアーの受け付けやスメタナ・ホールのチケットなどは半地下にあるインフォメーションで。

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