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内田樹著 『街場のメディア論』(光文社新書)

Matibanomediaron
街場のメディア論

 内田樹著 『街場のメディア論』(光文社新書、2010年8月20日発行)を読んだ。
この本のもとになったのは、「神戸女学院大学で2007年に行われた『メディアと知』という題名の大学2年生対象の入門講義」だ。
 「この授業を受けていた学生たちはまだ19歳か20歳くらいです。ほとんど『メディアの虜囚』と言って過言でないくらいに、メディアに知性も感性も、価値観も美意識も支配されている年齢です(気の毒ですけど)。その彼女たちが『メディアを論じる』ためには、彼女たち自身に深々と血肉化している、ものの見方、感じ方、言葉のつかい方、美醜や適否の判断基準そのものを反省的に主題化しなければならない」。

 「まえがき」を読んだだけで、これは、最近のメディア論とは違うぞ、と思った。本のタイトルから連想したのは居酒屋あたりでおっさんが一杯やりながら、「最近のテレビは何だ。ツイッター?そんなもん、何の役に立つんだ」とくだを巻く姿。そういう本かと思い、しばらく手に取らなかったのが大間違いだった。友人に勧められて読んだが、こんなに心に突き刺さるメディア論は最近読んだことがない。「ネットが悪、旧来メディアが善(あるいはネットが善、旧来メディアが悪)」といった感じのメディア論が「血肉化」していた私は、内田氏の「メディアについて批評的に語るということは、何よりもまず、現にメディアを通じて定型化・常套句化しているメディア批判の言説から一歩離れて、軽々にそれを繰り返さないということです」という言葉を戒めとしながら、この本を読んだ。

 この本(授業)でまず取り上げるのが「マスメディアの凋落」だ。
 内田氏は言う。「マスメディアの凋落の最大の原因は、僕はインターネットよりもむしろマスメディア自身の、マスメディアにかかわっている人たちの、端的に言えばジャーナリストの力が落ちたことにあるんじゃないかと思っています」。
 「『その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか』。それによってメディアの価値は最終的には決定される。僕はそう思っています」。
 「メディアの価値を考量するときのぎりぎりの判断基準は『よくよく考えれば、どうでもいいこと』と『場合によっては、人の命や共同体の運命にかかわること』を見極めることだろうと思います。…どのメディアが生き残るべきで、どのメディアが退場すべきかがもっぱらビジネスベースや利便性ベースだけで論じられていることに、僕は強い危機感を持っています」。

 内田氏はまず、テレビの劣化に言及する。
 「テレビの放送を担っている当事者たちから『どんなことがあってもテレビは消滅してはならなりません。なぜなら……』という文型で、テレビの有用論の論拠を聞いた覚えが、僕はありません」。
 「とりあえずは視聴率が下がったとか、番組製作費が減ったとか、スポンサーが見るからないとか、そういう今日明日の『米びつ』にかかわる問題で手いっぱいで、どうして『こんなこと』になったのか、という根本の問いはニグレクトされたままです」。

 そして、内田氏は、「テレビ視聴者がこれまで聴いたこともないような根源的な『テレビ論』を語らなければならない」という。しかし、「僕たちが見ることのある『テレビ論』は、新聞の提灯記事的『番宣』と週刊誌の『辛口テレビ評』の類と『昔のテレビはこんなにワイルドで、活気があった』という『懐メロ』的回顧エッセイくらいです」。
 「僕はこの批評性の欠如はテレビの没落の『結果』ではなく、むしろそれこそが『原因』ではないかと思うのです」。
 
 さらに、このようなテレビについて新聞が知らないふりをしていると、内田氏は批判する。納豆ダイエットをバラエティ番組が放送した後、「どこの新聞の社説にも、『こんなインチキは番組を作って視聴者を騙す、なんて信じられない』というようなことが書いてあった」が、「そlれは嘘だろう」と内田氏。
 「プロの記者であれば、テレビ局がどんなふうに番組を作っているか、その現場のモラルがどれほど荒廃しているか、テレビ局は制作費を『中抜き』するだけで、実質的な制作を下請けプロダクションに『丸投げ』しており、それゆえ番組内容を十分にコントロールできていないという、今の制作体制について熟知しているはずです」。
 「しかし、実状を知っていながら、刑事事件になるまで、新聞は『知らないふり』をしていた」。
 「それ以上に『たちが悪い』と思ったのは、この『知っているくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる』ということそれ自体がきわめてテレビ的手法だったということです」。
 「僕は報道に携わる人間にとっては『こんなことが起きるなんて信じられない』というのは禁句だと思うんです。…人々が『まだ知らないこと』をいち早く『知らせる』のがメディアの仕事であるときに、『知らなかった』という言葉はメディアの人間としては『無能』を意味するのではないですか」。

 「このようなメディアが好んで採用する『演技的無垢』は、それを模倣する人々の間に社会的な態度として広く流布されました。そして、おのれの無垢や未熟を言い立てることで責任を回避する態度、それはいまや一種の社会的危機にまで肥大化しつつあります」。

 このあたりから、内田氏がまえがきで言う「メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調である」という言葉が何を指しているかが分かってくる。メディアの演技的無垢が「クレイマー」を生み出したのだ。

 クレイマーとは「自分の能力や権限の範囲内で十分に処理できるし、処理すべきトラブルについて、『無知・無能』を言い立てて、誰かに補償させようとする人々」だ。
 
 「市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されている」にもかかわらず、クレイマーという人たちには「身銭を切って、それを支える責任が自分たちにはある」という意識がない。「市民の仕事はただ『文句をつける』だけでよい」「批判さえしていれば医療も教育もどんどん改善されてゆく」と考える。

 こうしたクレイマーたちの出現にマスメディアは深くコミットしてきたと、内田氏は言う。

 内田氏は「言葉に責任を負わないメディア」という形でさらにメディア批判を行う。
 『医療崩壊』を書いた虎の門病院の小松秀樹先生の「記者が、責任の明らかでない言説を反復しているうちに、マスコミ通念が形成される。これが『世論』として金科玉条になる」という言葉を引用した上で、「このときの洪水的な医療機関バッシング報道には『私が最終的にこの報道の責任を負う』と言う個人がどこにもいませんでした」と指摘。
 週刊誌や月刊誌の記者には、「具体的事実そのものではなく、『報道されているもの』を平気で一次資料として取り出してくる」と苦言を呈する。

 「メディアの『暴走』というのは…そこで語られることについて、最終的な責任を引き受ける生身の個人がいない、『自立した個人による制御が及んでいない』ことの帰結だと僕は思います」。
 「『真に個人的な言葉』というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられる機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです」。
 「仮に自分が口を噤んでも、同じことを言う人間がいくらでもいる言葉については、人は語るに際して、それほど情理を尽くす必要がないということになる。…『暴走する言説』というのは、そのような『誰でも言いそうな言葉』のことです」。

 「メディアが急速に力を失っている理由は、決して巷間伝えられているように、インターネットに取って代わられたからだけではないと僕は思います。そうではなくて、固有名と、血の通った身体を持った個人の『どうしても言いたいこと』ではなくて『誰でも言いそうなこと』だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった。そういうことでないかと思うのです」。

 内田氏はさらに「世論」と「知見」の違いやメディアとビジネスについて論じる。
 電子書籍や著作権などメディアをめぐる最近の話題についてもその本質的な部分に触れる。

 ネット時代にあって表層の動きは激しく、ついついその波の動きばかりをウォッチしてしまうのだが、あらゆるメディアの問題を本質的な部分で語ってくれる本書は、メディアにかかわるあらゆる人間が読むべき1冊ではないかと思う。

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