デジタル教育は是か非か?その(3)『デジタル教育は日本を滅ぼす』vs『デジタル教科書革命』
田原総一朗著『緊急提言! デジタル教育は日本を滅ぼす』(ポプラ社)と、中村伊知哉、石戸奈々子著『デジタル教科書革命』(ソフトバンククリエイティブ)。2つの本は真っ向から対立する内容のようだが、よく読めば、相容れる部分が多いのではないかと感じた。
中村伊知哉、石戸奈々子両氏は、NPO法人「CANVAS」の副理事長を務めている。
CANVASは、「こども向け参加型創造・表現活動の全国普及・国際交流を推進するNPO」だ。本書でもアニメ教室、映像編集プロジェクト、音楽編集プロジェクトなどの紹介をしている。パソコンソフトやインターネットなどを使って、デジタルコンテンツを生み出していく子どもたちの様子を見ながら、二人の著者は、「デジタル・ネット時代のコンテンツは、この世代が生み出していく」と確信する。
それだけに、デジタル教科書に対しても「恐らく詰め込み・暗記型の教育から、思考や創造、表現を重視する学習へと教育の中身にも変化をもたらすのではないか」と強い期待を抱く。
だから、『デジタル教育は日本を滅ぼす』の中で田原氏がデジタル教科書について「音楽も聴けるし、算数の解き方もレベルに合わせて音声で解説してくれるだろう。それでもまだわからないことがあれば検索すればよい…つまり、問題を解く、正解を出すという作業が自己完結してしまうのである。これは便利で効率がよい。だが、実はこのことこそが問題なのである。…ネットの上で自己完結するこいうことにより、教師も学校もいらなくなってしまうのである」と述べていることに対して、強く批判する。
「『デジタル教科書=ドリル』と『情報端末=電卓』で自習、という観念に縛られている」と。
そして「コンピューターはとうに電子計算機を脱し、映像・音楽の創作・表現ツールになっている。コンピューターは世界中とつながるコミュニケーションツール。教育情報化は、これまでできなかった自己表現や創作を可能にして、先生や生徒が常時つながる中で、新しい教科書や教材で学ぶというものだ」と主張する。
ただ、田原氏はデジタルメディアに疎いわけではない。iPadも購入し、使っている。
「ネットニュースでは、同列に並んだトピックスの中から、自分の読みたい記事を選び指で大きくして読むことができる。…さらにニュースを読みながら、その感想をコメント欄に記入して他人に読ませることができる。他人の意見を聞くことができる。自分自身のブログとリンクさせて関連情報を書き込んだり、最近ではツイッターで感想を“つぶやく”人も多いだろう。このように『誰もがニュースを発信できる』というのもネットならではの特徴である」と、ソーシャルメディアにも言及している。
そして、「デジタル教科書推進者は、単に映像や音声による学習内容の配信だけでなく、チャットやツイッターを交えて教師と生徒、または子ども同士が話し合い情報交換し合うこと。そのことによる効果的な学習というものを想定している」と、デジタル教科書が有力なコミュニケーションツールになりうるという意見があることもよく知っている。しかし、チャットやツイッター、メールなどのデジタルなコミュニケーションには限界があることを指摘するのだ。
田原氏は司会を務めるテレビ朝日の「朝まで生テレビ!」のようにぶつかり合うことが本当のコミュニケーションであると言っている。
「私は発想とかアイデアはぶつかる中でしか出てこないのではないかと思っている。ぶつかりは何かといえば、それがコミュニケーションであり、討論でもあるのだ」。
田原氏はネットでなければコミュニケーションできない日本人が急増していることを指摘。フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションの大切さを説く。
ネットコミュニケーションはできても、面と向かって発言できない、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが苦手な人がいるのは事実である。デジタル教育を推進する人たちは、こうした一般の人が持つような素朴な意見に反論できなければ、万人を納得させられないだろう。
田原氏は「もし前向きに考えるなら、デジタル教科書の導入は教師のあり方を変えるチャンスでもある」とも言っている「『はい、正解』『間違い、次』とやっているならデジタル教科書があれば事足りてしまう」からだ。
中村氏らも世の中に教育のデジタル化に対する不安があることはよく理解している。
「急激な変化に対する不安もある。学校現場は対応できるのか、忙しい先生の負荷を増やすことにならないのか。情報化の予算は大丈夫か。そもそも情報化は子どもたちの学力向上に効果があるのか。子どもたちの成長にとってデジタル機器に危険なことはないのか。画一的な教育、無味感想な教育がはびこるのではないか。紙の教科書と黒板と先生による授業に勝るものはないのではないか……」。
そして、「デジタル技術も、その上で使われる教科書や教材も、それを使った授業の手法も、開発途上だ。開発しながら、学校の現場で先生たちに試してもらいながら、生徒たちにも使ってもらいながら、よりよいものに進化させていく必要がある。不安を取り除いていく必要がある」と述べている。
中村氏らはまた、「教育についての議論がされないまま教科書のデジタル化だけが一人歩きを始めています。今こそ、教育について真剣に考えようではありませんか」との田原氏の指摘も認め、「デジタルの技術うんぬんの前に、学校をどうする、教室をどうする、先生をどうする、教科書の中身をどうする、といった『アナログ』の問題が大事になる」とも書いている。
中村氏らはデジタル教育の理想形を描くのに対し、田原氏は、「ゆとり教育」でさえ混乱した教育現場を見て、極めて現実的な意見を述べている、と見ることもできる。
たとえば、中村氏らは「デジタル教科書+情報端末」は1.自ら作って表現する創造力・表現力を養う、2.教室でも校庭でも先生・生徒とつながって共有する、3.世界とつながり多様な知識と価値観を得る、というメリットを追求するもの」と言うが、「検定・採択」といった仕組みがデジタル教科書にも引き継がれれば、自由に世界とつながることはできないだろう。検定でOKの出た情報とだけつながるという閉鎖的な世界がむしろ構築されるのではないか。
また、現場の教師の力量が伴わなければ子どもたちに「創造力・表現力」が養われるかどうかも疑問だ。
予算も限られた中では田原氏が想定するような「電卓のような」電子教科書が出現する恐れは十分ある。
中村氏らが描くデジタル教科書の理想形を実現するためには、関係者の理解、熱意を得たうえで莫大なおカネを投入する必要がある。中途半端な形で電子教科書が導入されると、とんでもないデジタル教育になってしまうのではないだろうか。
『デジタル教科書革命』については、はっきりしない点もあった。ITリテラシーを養うデジタル教育は必要だと思うのだが、それがどう電子教科書とつながるのかが、明確ではない。
世の中の本がすべて電子書籍にならないであろうと予想されるように、教科書をすべて電子に置き換える必要が本当にあるのか(中村氏らは並存を認めているが)。ITリテラシーを養う教育と電子教科書がどうつながってくるのかが、いまひとつ分からなかった。
しかし、「ゆとり教育」でさえ混乱した教育現場だ。デジタル教育と言われて慌てふためかないように、さまざまな実験を繰り返す必要はあるだろう。
そうした実験をも否定するような「デジタル教育は日本を滅ぼす」といった本のタイトルは、いただけない。
恐らく本を売らんがために出版社がつけた営業的色彩の濃いタイトルなのだろう。このタイトルが一人歩きすることを中村氏らは危惧したのだと思う。
このタイトルを除けば、建設的な内容の2冊だった。
教育や教育分野でのデジタルの活用に大いに関心を持つことができた。
| Permalink | 0
The comments to this entry are closed.
Comments