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増田幸弘著『プラハのシュタイナー学校』(白水社)

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プラハのシュタイナー学校

 増田幸弘著『プラハのシュタイナー学校』(白水社、2010年6月30日発行)を読んだ。

 著者の増田氏の家族4人は2006年4月、チェコの首都プラハで暮らし始めた。プラハで子どもたちを通わせる学校として選んだのが日本ではシュタイナー学校として知られるヴァルドルフ学校だった。
 子どもたちにとっては言葉がまったくわからないチェコの学校に入ることだけでも相当なプレッシャーだったと思うが、さらにシュタイナー学校と言われる個性的な学校に通うことになった。
 「思春期を迎えた子どもたちの教育環境を変え、ばらばらになりかけた家族を再生する舞台として、この街をあえて選び、移り住んだ」という著者の勇気、父親としての責任感の重さには敬意を表するが、それ以上に新しい環境に順応し、さまざまな問題を乗り越えていった、子どもたち二人に敬服する。

 この本はそんな「信じられないドラマ」をありありと伝えてくれるものの、決してプラハのシュタイナー学校の珍しさだけをリポートしているわけではない。教育の本質や日本の教育のあり方を深く考えさせてくれる。
 
 シュタイナー教育は、「人間の成長を7年周期でとらえたうえ、年齢に応じた教育をすべきであるとする」「第一期は0~7歳で、人間にとって意志の成長が育まれる時期とされる。同様に第二期(7~14歳)は感情の成長、第三期(14~21歳)は思考の成長の時期にあたる」。

 「プラハのシュタイナー学校では小等部の5年間は第二期に、中等部の4年間は第二期のまとめと第三期への移行期にあたるわけだ」。
 
 長男のヒラク君が日本と同じ学年にあたる7年生、長女のツドイちゃんが1学年下げた4年生に転入した。
 
 「シュタイナー学校には教科書というものがない」「黒板に先生の書く文章や図、絵などを写すノートがそれに代わる」「このノートは多彩な色画用紙を表紙に、罫線のないわら半紙をホッチキスで綴じたシュタイナー学校特製のものである」「あたらしいエポック(集中授業)がはじまるときなどに、先生から配られる」。

 「シュタイナー学校では最初の1時限目、エポックと呼ばれる独特の授業ではじまる」「算数なら算数、歴史なら歴史と、同じ授業を毎日、1ヵ月程度続けるのである」「エポックの授業は8時30分から10時30分までのたっぷり2時間」。

 日本の授業では「公式や年号、人名、漢字など、授業を通じて多くのものを覚えていく必要がある。学習する内容をしっかり覚えなくてはならない『記憶型』と呼ぶべき授業」「学んだことをきちんと覚えているかどうかのテストがあり、その結果にもとづいて成績がつけられる」。
 しかし、「シュタイナー学校で導入されているエポックは、その逆に『忘却型』というべきものである」「子どもたちが忘れてしまうことを前提に授業をしているのだ。授業中もなにかを覚えておくようにとは言われないし、覚えたかどうかを確認するためのテストもない。忘れていくなかでも、本当に大切なことや興味深いことなどはしっかりイメージとして記憶に刻み込まれる」「大切なのは、ずっとそれを忘れないようにすることではなく、いかに思い出すことができるかである」。

 例えば、古代ローマ帝国の歴史を学ぶエポック。「小学校6年生の授業なのでローマ帝国の大枠が伝わればそれでよさそうなものだが、日本で使われている高校生向けの世界史の教科書よりも細かく、深い内容まで教えている。それでも生徒は音を上げることはなく、興味を持って授業を受けていた。…授業に出てくる年号や人名、地名などを記憶することは求められていないからだろう。…あくまで歴史の流れがつかめればそれでよいのだ」。

 「シュタイナー学校の教え方は、先生に求められるものがおのずと大きくなり、レベルも高くなる」「教科書を使わないため、内容も質も先生次第だ」「うまくいけばイメージが流れるように子供たちの頭の中を駆け抜けていくことだろう。しかし、もし中途半端な付け焼き刃の知識で授業に臨んだら、授業の内容は支離滅裂なものになりかねない」「一筋縄ではいかない、むずかしい授業なのである」。
 「こうした困難に立ち向かう原動力は、教師と言う職業に対する高い意識と、親が子どもを育てるような熱意や信念にある」。
 「シュタイナーの考えた教育論とは、結局、教師という職業の心髄なのではないだろうか」。

 シュタイナー学校は生徒を数字で評価しないのも特徴だ。
 「通知表にも数字による評価はなく、なにをどのように理解し、問題はどこにあるかなどが具体的に言葉で示される」
 日本のように「テストで何点とるかよりも、なにをどのように理解したのか、そして理解していないのか、自分で知ることを重視しているのである」。
 日本では二人の子どもはテストの点数が悪いと、親に隠していたらしいが、「本当はできなかったテストを見直し、なぜ間違えたのか、なにが理解できていないのか、確認していくべきなのである」。

 シュタイナー教育では父母が積極的に教育に参加する。
 父母会は、「この学校では月1回という、父母会にしては頻繁と思えるペースで開かれ、しかも時間をかけていくつもの話題について話し合う」。

 増田氏は「シュタイナー学校というのは実は教師と親のための学校ではないかと感じることがある」と振り返る。「それはシュタイナー教育というものが、学校や教師からなにかを一方的に与えられるものではなく、学校という場で教師と親と子どもが一体となってつくっていくものだからなのだろう」。
  
 なぜ、日本を離れてプラハで学ぶことになったのか、チェコ語にもがき苦しみながらも克服していく二人の様子、理想と現実のズレとそれを埋めようとする教師の努力などにも心が動かされた。

 増田氏は最後に言う。「いつしかなかなか先の見通せない時代になった。そんななか、ぼくら4人の家族が日本を離れ、プラハの街で一緒に暮らした日々は、かけがえのないものだったはずだ。ヒラクとツドイの2人がプラハのシュタイナー学校で学んだことは、これから先、きっと生きる支えになっていくことだろう」。

追記2015.5.5)増田氏の著書『棄 国ノススメ』(新評論、2015年3月11日発行)を読むと、すべてがうまくいったわけではなかったことがわかる。

 「クラスに溶け込んだのは喜ぶべきことのはずだった。しかし、実際にそうなってみると、思ってもいない事態に陥った。子どもたちはまるで自分がチェコ人になったかのように振る舞いはじめたのである」「なにをするのも自由だとばかりに、勝手気ままに自己主張を繰り返したのである。チェコのよさだと思っていた素朴さは、裏を返せばワイルドで、粗雑なことだった」。

 「プラハという街と、シュタイナー学校のもつ自由な雰囲気が子どもたちにうまく作用し、日本の学校に通ううちに萎縮していった心が少しずつときほぐされ、のびのびしはじめた。しかし、いつしか自由のもつ毒牙にすっかりあてられ、自分で自分を抑えられなくなっていた」

 増田氏自身も、ストーカーに執拗に追い回され、外国人ということで、仕事で理不尽な扱いを受け、プラハを離れ、スロヴァキアのブラチスラヴァに移り住む。そこで、「第三の目」を持ち、『棄 国ノススメ』を書くに至る。『棄 国ノススメ』の冒頭にある10の『棄 国ノココロガケ』は彼でなければ書けないリアリティのある見方であると思った。 

 しかし、国に対峙することもなく、会社でのうのうと定年まで勤め上げようとしている私には、増田氏の書いていることをきちんと理解する経験が不足していると思わざるを得ない。これから定年を迎え、会社という「保護者」を失って、はじめて、見えてくるものがあるのかもしれない。 

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