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小寺信良著『USTREAMがメディアを変える』(ちくま新書)

Ustreamgamediawokaeru
USTREAMがメディアを変える

 小寺信良著『USTREAMがメディアを変える』(ちくま新書)を読んだ。

 本書によると、小寺信良氏はテクニカルライター/コラムニスト。1963年宮崎県生まれ。テレビ映像の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、94年にフリーランスとして独立。以降映像・音楽を軸に、AV機器からパソコン、放送機器まで、幅広く執筆活動を行う。

 「はじめに」で、小寺氏は「放送レベルの専門的な話は、ごく一部の限られたメディアや講演の中でしか披露してこなかった。それがユーストリーム(USTREAM)をはじめとするネット生放送の台頭で、いよいよ一般の人にも放送のことを話す時代が来たわけである」と言う。

 面白い話が読めそうだと期待して「はじめに」の続きを読むと、そこからもう本文に入ったような中身の濃い話が始まる。
 
 「このネット生放送台頭の時代に名前をつけるならば『論の時代』ではないかと思う。多くの人が政治や社会制度に疑問、不満、意見を持ち、それを発散する場所が居酒屋の片隅ではなく、シラフで堂々とブロードキャスティング(放送・放映)する時代へ入ってきた」。

 「このネット生放送台頭の裏側では、かつて1980年代に起こった『ニュースの娯楽化』がもう一度起こっているような気がしてならない」「テレビがニュースの娯楽化に踏み込んだのは、82年から放送開始した日本テレビの『久米宏のYVスクランブル』が最初だったろう」「ニュースというのは人の意見を加えるとこれほどおもしろいのかということに、多くの人が気づいた」「ソーシャルネットワークを通じて放送に対して自由にコメントが付けられるというCGM(コンシューマ・ジェネレーテッド・メディア:消費者によって内容が生成されてゆくメディアのこと)的機能が娯楽要素を付加している」。

 「台頭の要因は、他にもある。成熟した社会では、市民ジャーナリズムが成立し得るということである」「ユーストリームは、その登場のタイミングもよかった。総選挙、政治不信、ツイッター(Twitter)のキャズム(一般普及までの溝)越えなど複数の要因が下敷きとなり、公開議論の場がどうしても必要だったところに、うまくはまったのである」。

 「ツイッターは、思いついたことがどんどんオンラインに流れ出す。多少の誤字は誰も気にしていない。うまく伝わるかどうかも気にしない」「ユーストリームの実際の放送も・・・『じゃあもう配信スタートしとくね!』と気楽なものである」「この『生は気楽』という雰囲気の醸成により、一般の人がメディアにコンテンツを出すことに抵抗感をなくしている」。

 第一章 ユーストリームという世界
 「ゴールデンタイム(プライムタイムとも言う)で放送されるバラエティ番組のスポンサー料は、1時間番組で約1億円と言われている。実際にはその半分ぐらいが電波料に消えるので、ざっと番組制作費は5000万円である」「一方ユーストリームで流れている番組は、個人が趣味でやっているようなものが大半である。制作費は、ほとんどの場合0円。・・・ユーストリームで放送するのもタダなのだ」「0円vs5000万円である。普通だったらまず勝負にならない」。
 だが、「自分が普段から疑問に思っていること、自分がいきづまっていることに対してヒントを与えてくれるような番組だったり、趣味にガッツリど真ん中の話題であったり、あるいは癒しを与えてくれたりするものが、制作費0円の番組に存在したらどうだろう。これはもしかして、勝負になりはしないか?」

 第二章 ユーストリームの可能性
 「ユーストリームで様々な放送を見、また自ら放送したり演出をしてみて強く感じるのは、実はユーストリームは意外にテレビ的ではないということである」「多くのコンテンツがビジュアルよりも語られるテーマや内容を重視している点、また視聴者とのインタラクティブ性を考慮するという点で、ユーストリームの本質はむしろラジオに近い」「リサーチによるネタ探しから本番に持ち込むまでのプロセスは、テレビよりも大幅に省力化されている。基本は、その件に関する第一人者など、ちゃんと責任を持って話せる人を捕まえて、本人に話させるという手法である」「ラジオ番組とユーストリーム番組のもう一つの共通点は、パーソナリティのキャラクターへの依存度が高いという点である」。

 「生の力」もユーストリームの魅力だ。「ユーストリームは、少人数ではあっても世紀の瞬間に立ち会いたい、今起こっていることと同期したいという人の、強い思いに応えることができるメディアである」。
 
 「意義だけでその現場を伝えられるのが、ユーストリームの強みだ」「大がかりにやろうと思えばテレビ放送に近い機材を導入できるし、簡単にやろうと思えばiPhoneがあればいい。すべては放送する側の決断で選択できる」「そこまでのグレードやクオリティの違いがありながら、それらを等価でフラットに見せてしまう映像伝達システムは、これまで存在しなかった」。

 ただ、放送である限り、やりたい放題というわけにはいかない。
 「テレビ中継の場合は、カメラマンを含めた現場スタッフ、中継を受ける本局側スタッフともども、倫理的に放送できる範囲の教育が施されている」「誰もが放送できるようになると、その倫理観は完全に放送する本人、個人に依存するという、社会的な脆弱さがある」「今後ネット放送が社会的影響力を強めるにしたがって、あまりにもやりたい放題、さらには公序良俗に照らして目に余るということになれば、なんらかの公的規制がかけられる可能性が高い」。

 もちろん「ユーストリーム側でも、利用規約としていくつかの制限を設けている」「最も重点を置くのは、著作権で保護されたコンテンツや商標などの知的財産権を持つものの不正使用にかんするものだが、公序良俗に関する項目も、広く網羅されている」。

 第三章 ユーストリームとツイッターの相乗効果 
 「ツイッターはシリアスな議論には向かないメディアでもある。一発言が140文字に制限されているため、相手の言葉を引用しつつの発言では、言いたいことがあっても入らないことが多い」「そのような弱点があるツイッターと、人と人の生の話をそのまま伝えるユーストリームは、うまい具合に補完関係を形成する」「シリアスな議論はリアルに対面で行ない、興味のある人はツイッターを使って外から意見を投げる」「ユーストリームとツイッターの組み合わせは、非常に理想的な議論の場を、トータルなシステムとして提供するわけである」。

 「ある一つの属性によって人間関係が形成されている状態を、ツイッターでは『クラスタ』などと呼んでいる」「一人の人は一つのクラスタだけに属しているわけではない。多くをフォローし、またフォローされている人は、それだけ多くのクラスタに属していると考えられる」「ユーストリームの場合、その方向性に合致するクラスタの誰かが視聴し、そこで発言すれば、同じクラスタの人を引き寄せてくる。したがって専門性の高い番組であっても成立する、つまりそこそこの視聴者数が確保できるという状態になる」。

 第四章 ユーストリームがビジネスを変える
 製品発表会などをユーストリームに乗せる場合のメリットは、以下の点だ。
 ①時間的な制約がないため、詳細を十分に説明できる
 ②制作コストがかからないため、費用対効果が高い
 ③特定層の集客を視聴者がやってくれる
 ④ターゲット層の反応が調査できる
 ⑤イベントの集客以上の伝播力がある

 コストはどうか。
 「なんらかの発表イベントを撮影会社に外注し、カメラ3台、マイク4本を使って配信すると仮定してみる」
 「これを撮影会社に外部委託すると、機材費と人件費合わせて、だいたい60万円くらいになる」

 テレビ放送の場合は「30分番組の撮影から編集、整音から音楽効果まで入れて、だいたい500万から1000万円くらいである」「通常はその上に広告代理店が入るので、トータルの発注金額としては約3倍以上にふくれあがる」。

 第五章では「ユーストリーム番組制作のポイント」を解説。

 第六章は「ユーストリームがテレビを殺す」というタイトルだが、中身は“テレビ放送の自滅”を論じている。
 「かつては権利処理の複雑さを理由にネット進出を拒み、現状のビジネスモデルの崩壊を防いできた。テレビ放送のプレミアム感を維持するために、露出を意図的に絞ってきたわけである」「だが、現実はそれほど甘くはなく、テレビ離れは深刻だ」。

 「テレビ視聴の魅力後退の原因として厳しすぎるDRM、すなわちコピー制限が考えられる」「アナログ時代には、録画しても見る時間がない人は、ポータブルプレーヤーやケータイ、パソコンに番組を転送して視聴するという手段があった。アナログ時代は自由にコピーできたからである。・・・録画番組を別の機器に転送して視聴するのは、タイムシフト+プレイスシフトとなる」「一方デジタル放送では、デジタル放送開始時に、複製を許さないコピーワンスが、大した議論もなく導入された。・・・後にこれは大問題となり、その緩和策とも言えるダビング10がスタートした」「ダビング10では、ごく一部の限られたレコーダと同じメーカー製のゲーム機や一部ケータイの組み合わせで、なんとか消費者も納得できるタイムシフト+プレースシフトができるようになった。・・・しかし、ダビング10でもまだ、一度コピーしたものから別のものにコピーする、いわゆるメディアの世代交代は許されないままである」「2003年から5年間の間に、テレビ番組を別のデバイスにコピーして見るという文化は、壊滅状態となった」「単純にテレビ放送を生で見る時間のなかった人たちを、視聴率に関係ないからという理由で追い出してしまったのである」。

 「テレビというコンテンツは、一方的に情報を投下するだけでなく、連続した実時間を占有する。…実は、人間にとっては非常に拘束性の強い、結構不便なメディアなのである」「我々人類数百万年の歴史のなかで、テレビというものに夢中になった時代は、わずか60年しかない」「テレビを見ることが『一過性のブーム』であったとしても、なんら不思議はないのである」。

 「文字という伝達手段に対して長く生き残るのは、テレビシステムではなく、『映像という情報伝達手段』であると考えるべきであろう。つまり映像を運ぶものはなんでもいいわけだ」「これまではごく一部の限られた人しか、映像によって多くの人にものを伝えることができなかった。しかしすべての人に同じチャンスを作ったのが、ユーチューブであり、ユーストリームなのである」。

 もっとも、既存のテレビが生き残る分野はあるだろう。
 「夜はただ力を抜いて笑いたいだけ、という人もいる」のだから。

 「テレビ報道というのは、生き残るのではないかと思う。それはやはり、機動力、伝送設備、危険地域にも立ち入り許可が取れるといった特権など、一般人には勝てない部分がたくさんあるからだ」。
 ただ、「これからの報道は、大手メディアの報道と、一般人による身近な報道をすり合わせて、視聴者側が真実を見出すという作業まで含めた行為を指すようになるだろう」。

 第七章では「横たわるユーストリームの課題」として、肖像権、著作権保護の問題に言及した後、メディアとしての課題を論じる。
 「現状のユーストリームの放送、そしてそれに連動するツイッターで起こるムーブメントは非常に『点』的であり、継続性がない。・・・いわゆる『祭り』のような状況である。・・・リアルタイムの祭りに立ち会えなかった人へのフォローがまったく行われていない。・・・もちろん、放送されたものはコンテンツとしてアーカイブされるので、見たい人はそれを見ればいい、ということなのだが、あとから情報を知りたい人はポイントだけが拾いたいわけであって、すべてをダラダラ見たいわけではないのである」。
 対策として、以下の三つの方法を提案する。
 ①アーカイブ動画に対するチャプターの付与
 ②ダイジェスト版の作成
 ③文書化

 「現在ユーストリームの番組の多くは、個人ベースの放送である。たわいのない話や雑談、あるいは単に今やっていることを流しているだけかもしれない。しかし、それはたくさんの、万単位のビュー数を集める必要はない。少しでも知り合いでもない誰かが興味を持って、見てくれるという連帯感に、新しい価値がある。この小規模なブロードキャスティングは、今後も残り続けるであろう」
 「ユーストリームのおもしろさは、テレビ放送に匹敵するビューを集める放送も、視聴者が一人、あるいは〇人の放送も、等価であるということである。大きな放送に押されて、小さな放送が切断されることもない。この極限までのフラットさは、インターネットの構造そのものである」。
 「これまでのブロードキャスティングは、電波という限られたリソース内に番組を割り当てる必要があったため、必然的に表に出られるものもまた限られてきた」「しかしユーストリームがあれば、露出リソースによる制限はない」「このことは、これまでマスメディアによって独占的に支配されてきた、ブロードキャスティングの意味を変えるものである」「ユーストリームが示す最大の可能性とは、このブロードキャスティングの再起動なのである」。

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Comments

でも、と思う。今回の地震や原発のように、情報が欲しいと思ったときは、必死になって情報を探し、既存のメディアもUSTREAMも見る。でも、そうしたテーマやモティベーションがないときに見るかというと疑問も。USTREAMであれこれやっている知人もいるけど、垂れ流し感があって見る気がしない。

Posted by: さいのめ | 2011.04.05 04:05 PM

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