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マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)著『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(早川書房)

Michael_jsandel
これからの「正義」の話をしよう

 マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)著『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(早川書房、2010年5月25日発行)を読んだ。

 本書によると、マイケル・サンデル Michael J. Sandel は、1953年生まれ。ハーバード大学教授。ブランダイス大学を卒業後、オックスフォード大学にて博士号取得。専門は政治哲学。2002年から2005年にかけて大統領生命倫理評議会委員を務める。1980年代のリベラル=コミュニタリアン論争で脚光を浴びて以来、コミュニタリアニズムの代表的論者として知られる。主要著作に『リベラリズムと正義の限界』、Democracy Discontent、Public Philosophyなどがある。類まれなる講義の名手としても著名で、中でもハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超す履修者数を記録。あまりの人気ぶりに、同大は建学以来初めて講義を一般公開することを決定、その模様はPBSで放送された。この番組は日本では2010年、NHK教育テレビで『ハーバード白熱教室』(全12回)として放送されている。

 4月16日(土)午後9:00~午後10:15にNHK総合で放送された『マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義~私たちはどう生きるべきか~」』を観た(3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震について、東京、ボストン、上海の3つの地域を結び、各地域の参加者がディスカッションする。日本側は一般人のほか、高畑淳子、高田明、高橋ジョージ、石田衣良らも参加した)。サンデル流の議論の進め方はきわめて気持ちがいい。

 真っ向対立する意見が出ても、だれも感情的にならず、論点が次第に明確になっていく。
 日本の政治討論番組を見ると、自分の意見を大声で言う、相手をこき下ろす、相手がしゃべっている最中に反対意見を言うなど、カオス状態になることが多い。何が論点なのかがどんどん分からなくなってくる。非常に生産性が低いのだ。
 これに対して、サンデル教授が議論を進めると、いろいろな意見を持つ人たちみんなが、一つの結論を出すための共同作業をするような雰囲気になる。

 自己主張ばかりで、問題解決に向けて一歩も進まないテレビの討論番組。
 結論は水面下ですでに決まっていて、公式の会議は、予定調和的に進む企業の会議。

 そんな討論、会議が日本では一般的だが、サンデル教授は、白黒をはっきりさせたうえで、論点を明らかにし、解決に向けての道筋を指し示してくれる。

 こういう討論番組や会議が日本で定着してほしいと思う。パフォーマンスばかりの討論、議論なしの決着、どちらともそろそろお別れしたい。

 さて、本書について。

 この本も、さまざまな政治哲学が紹介されるのだが、その基本的考え方を実例を挙げて噛み砕いて説明したうえで、その問題点を明らかにするといった手法で書かれていて、分かりやすい。議論の本質がだんだん見えてくる。

 一つの物事が政治的立場の違いでこれだけ違うように見えるのかというのが良く分かるし、議論の前にあらかじめ、それぞれの政治的立場を明確にしないと議論は絶対に噛み合わないと感じる。

 サンデル教授は最終的には「これからの正義」について述べるのだが、そこに行きつくまでに、3つのアプローチを検証する。①幸福の最大化②自由の尊重③美徳の涵養だ。
 
 幸福の最大化については、ジェレミー・ベンサムの功利主義を取り上げて説明する。
 「道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだというものだ」「われわれは快や苦の感覚に支配されている。この二つの感覚はわれわれの『君主』なのだ」。

 「ベンサムは、効用の原理は道徳の科学を提供するものであり、この科学は政治改革の基盤として役に立つと考えていた」と言う。

 これに対しては二つの反論がある。「一つ目は、最大幸福原理は人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していないというもの、二つ目は、道徳的に重要なすべてのことを快楽と苦痛という単一の尺度に還元するのは誤りだというもの」だ。

 自由の尊重については「リバタリアン(自由至上主義者)」の主張を取り上げる。リバタリアンは「どの人間も自由への基本的権利――他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、みずからが所有するものを使って、みずからが望むいかなることも行なうことが許される権利――を有する」と言う。
 「自分は自分のものであり、国家や政治的共同体のものではないという考え方は、他人の幸福のために自分の権利を犠牲にすることが間違っている理由を説明してくれる」。
 
 基本的人権を尊重するなら功利主義の立場は取れず、リバタリアンの主張に傾くかもしれないが、「自己所有の概念をつきつめていくと、熱狂的なリバタリアンしか信奉できないものが生まれる」とサンデル教授は言う。
 「落伍者を切り捨てる完全な自由市場、格差を減らし公益を推進するための施策をほとんど持たない小さな国家、本人の同意さえあれば、人間の尊厳をみずから傷つける行為(人肉食や奴隷売買)でさえ認める風潮などだ」。

 ここで、イマヌエル・カントが登場する。カントは人間の自由を尊重する立ち場だが、「カントの理論は、自分の所有者は自分自身であるという概念にも、人間の生命や自由は神からの贈り物だという意見にも基づいていない」「その基盤となっているのは、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するという考え方だ」。

 カントは功利主義を認めていない。「カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の規準にすべきではないと言う」「こうした要因は変わりやすく、偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(基本的人権など)の基準にとうていなりえない」。

 「カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである」。
 
 カントは「正義と権利は社会契約に由来している」と言い、「原始契約は実在のものではなく、仮想上のものだ」と言う。しかし、「カントは仮想上の契約がどのようなものかも、それがどのような正義の原理を生み出すのかも語らなかった」。

 この問いに答えたのが、アメリカの政治哲学者、ジョン・ロールズだと言う。

 ロールズが考える社会契約は「平等の原初状態における仮説的な同意」だ。
 平等の原初状態とは「人々は原理原則を選ぶために集まったが、自分が社会のどの位置にいるのかは分からない。全員が『無知のベール』をかぶった状態」であると表現している。

 その状態で合理的で利己的な個人であれば、どのような原則を選ぶか。

 仮説的契約からは、二種類の正義の原理が導き出される。「第一原理は、言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等にあたえるというものだ。この原理は社会的効用や全体の幸福よりも優先される」「第二原理は、社会的・経済的平等にかかわっている。この原理は所得と富の平等な分配を求めるものの、社会で最も不遇な立場にある人びとの利益になるような社会的・経済的不平等のみを認めるのだ」。第二原理は「格差原理」とも言う。

 「カントの自立的意思という発想とロールズの無知のベールに覆われた仮説的同意という発想には、…共通点がある」「いずれも道徳的行為者を独自の目的や愛着から独立した存在と考えている」。
 
 「人間の権利を定義する正義の原理は、特定の道徳法則あるいは宗教的概念に基づくべきではなく、善良な生活について対立するさまざまな観念に対して中立的であるべきだという発想である」。

 こうした発想に真っ向対立するのがアリストテレスの考え方だ。「アリストテレス(前384‐322年)は、正義がそのように中立的なものだとは考えない。彼の考えでは、正義をめぐる論争は必然的に、名誉、美徳、善良な生活をめぐる論争になるのである」。

 「彼の考えでは、最もよい笛が最もよい笛吹きに与えられるべきなのは、笛はそのために――うまく演奏されるために――存在するからだ」「物の正しい分配方法を決めるには、分配される物のテロスすなわち目的を調べなければいけないというのが、アリストテレスの言い分である」。

 「彼にとって、政治学は手段を変えた経済学ではない。政治の目的は、効用を最大化することでもなければ、個人の利益を追求するための公平なルールを定めることでもなく、もっと崇高なものだ。人間の本質の表現であり、人間の能力を発揮する機会であり、善良な生活に欠かせない要素なのである」。

 サンデル教授はどう考えるのか。

 「自分自身を自由で独立した自己として理解し、みずから選ばなかった道徳的束縛にはとらわれないと考えるなら、われわれが一般に認め、重んじてさえいる一連の道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる」「そうした責務には、連帯と忠誠の責務、歴史的記憶と信仰が含まれる。それらはわれわれのアイデンティティを形づくるコミュニティと伝統から生まれた道徳的要求だ。自分は重荷を負った自己であり、みずから望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えないかぎり、われわれの道徳的・政治的経験のそうした側面を理解するのは難しい」。
 「ロールズが『正義論』でアメリカのリベラリズムを哲学的に存分に表現してから10年たった1980年代、何人かの評者(私もその一人だった)が、上記のような考え方に沿い、自由に選択できる負荷なき自己という理想に異議を唱えた」「こうした人びとは、正しさは善に優先するという意見をはねつけ、目的や愛着を捨象しては正義を論じることはできないと主張した。彼らは現代リベラリズムを批判する『コミュニタリアン(共同体主義者)』と呼ばれるようになった」。

 サンデル教授はそう呼ばれることに満足はしていないようだ。そして、さらに、「どうすればコミュニティの道徳的な重みを認めつつ、人間の自由をも実現できるだろうか」と問いかける。

 そして、アラスデア・マッキンタイアの考え方を紹介する。
 「著書『美徳なき時代』(1981年)のなかで、彼は、人間が道徳的行為者として目的と最終目的に至る方法を説明している」「われわれは物語の探求としての人生を生きる」「人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する探求の物語を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるか見きわめようとする。道徳的熟考とは、みずからの意志を実現することではなく、みずからの人生の物語を解釈することだ」。

 マッキンタイアの自身の言葉が最も分かりやすいので引用する。
 「われわれはみな、特定の社会的アイデンティティの担い手としての自分の置かれた状況に対処する。私はある人の息子や娘であり、別の人の従兄弟や叔父である。私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や、業界の一員だ。私はこの部族、ある民族、その国民に属する。したがって、私にとって善いことはそうした役割を生きる人にとっての善であるはずだ。そのようなものとして、私は自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去からさまざまな負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる。それらは私の人生に与えられたものであり、私の道徳の出発点となる。それが私自身の人生に道徳的特性を与えている部分もある」。

 サンデル教授は正義に対する三つの考え方のうちの第三の考え方を支持する。
 「正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる」。
 「公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない」。

 共通善に基づく新たな政治が求められているという。それはどのようなものだろうか。

 「共通善に基づく政治が主要な目標とするものの一つは、公民的生活基盤の再構築だ」「富者も貧者も同じように子供を通わせたくなる公立学校、富裕層の通勤者にとっても魅力的な信頼性のある交通手段、公立の病院、運動場、公園、レクリエーション・センター、図書館、博物館や美術館。あくまで理想だが、塀で囲まれた高級住宅コミュニティの住民を、民主的市民生活を共有する共通の場に引き寄せることができるような基盤である」。

 「この数十年でわれわれは、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは、(少なくとも政治的目的に関係する場合)それらを無視し、それらを邪魔せず、それらに――可能なかぎり――かかわらずに公共の生を営むことだと思い込むようになった。だが、そうした回避の姿勢からは、偽りの敬意が生まれかねない」「言説の貧困化とは、一つのニュースからニュースへと渡り歩きながら、スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気をとられるようになることだ」「われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ」「道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ」。


 この本を読み終えて、サンデル教授の理想主義的な考え方に、「そんな建設的な話ができるのはハーバードの学生レベルであって、たとえば日本の政治家にそんなことができるのか」という懐疑的な思いがまずよぎる。でも震災後に求められる新しい公共性に思いを馳せるとき、「でも、新しい公共性については、冷静に議論ができる人間の間だけでいいから、ともに考えるべき大切な問題ではないだろうか」とも思う。
 
 少なくとも自分の中では新たに加えたい道徳観だ。

 「効率化」「市場原理」「個人主義」。近代経済学的な価値観が今の世の中を覆い過ぎている気がする。

 そこでは、本来育ってもいいものも、育たずに消えていくことが多いのではないか。
 
 性急に結論を急がずに、ゆっくり見守ることも必要なのではないか。

 「これからの正義」を十分に理解したとも思えないし、もしかしたら、ものすごい誤解をしているかもしれない。

 だが、「これからの『正義』の話をしよう」という提案には、大賛成だ。

 サンデル教授の理論以上に、その姿勢に改めて感動した。

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Comments

日本人に関する '有ること' と '無いこと'。

感性があって、理性がない。
感想を述べるが、理想を語らない。

現実の内容はあるが、考え (非現実) の内容はない。
事実は受け入れるが、真理は受け入れない。

実学 (技術) は盛んであるが、哲学は難しい。
実社会の修復はあるが、理想社会の建設はない。

現実の世界は信頼するが、非現実の世界は信じない。
現実の内容を再現すれば、それは模倣である。
考え (非現実) の内容を実現 (現実化) すれば、それは創造である。
模倣力はあるが、創造力がない。

「今ある姿」を語るが、「あるべき姿」は語らない。
私語・小言は好むが、公言・宣言は好まない。
歌詠みは多いが、哲学者は少ない。

丸暗記・受け売りの勉強はあるが、考える力・生きる力がない。
学歴はあるが、教養はない。
序列判断はあるが、理性判断はできない。

学歴は序列判断の為にあるが、教養は理性判断の為にある。
学歴社会というのは、序列社会の言い換えにすぎない。
序列順位の低いことが恥と考えられている。サムライ社会のようなものか。
理性がなくても「恥を知れ」(Shame on you!) と叱責を受けることのない恥の文化が存在する。

民の声を代弁する議員は多いが、政治哲学はない。
総論 (目的) には賛成するが、各論 (その手段) には反対する。

理想 (非現実) は、現実に合わないと言って受け付けない。
現実の内容を根拠にして、理想を捨てる。
意見は個人個人で異なる。だが、小異を挙げて、大同を捨てる。

恣意 (私意・我儘・身勝手) が有って、意思がない。
恣意の力 (大和魂) に期待をかけるが、意思の力は認めない。
意思決定は困難を極め、多大な時間を浪費する。

「個人の意見は通らない」と言うが、個人を選出する意味が理解できていない。
意思があれば、手段がある。意思がなければ、手段はない。

この国には、何でもあるが、ただ一つ夢 (希望) がない。
この国には、現実はあるが、非現実がない。
日本語には現実構文の内容だけがある。日本語脳は、片輪走行である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

Posted by: noga | 2011.05.27 at 03:59 AM

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