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小澤勲著『認知症とは何か』(岩波新書)

Ninchishotohananika
認知症とは何か

 小澤勲著『認知症とは何か』(岩波新書、2005年3月18日発行) を読んだ。
 精神科医の小澤勲氏は2008年、肺がんのため70歳で死去したが、この本は認知症を分かりやすく解説した本として評価が高く、13も刷りを重ねている。

 「第一部では、認知症とはどのような病、障害なのか、どのような症状、行動がみられるのか、それがどのような成立機制によって生まれるのかについて述べる」。

 認知症の定義。「獲得した知的機能が後天的な脳の器質性障害によって持続的に低下し、日常生活や社会生活が営めなくなっている状態で、それが意識障害のないときにみられる」。

 「認知症は症状レベルの概念である。正確に言えば、記憶障害、見当識障害、思考障害など、いくつかの症状の集まりに対する命名だから症状群というべきなのだが」「同じ症状の裏には異なる疾患があり、また同じ病名がついても、原因が異なる場合がある」「認知症の原因疾患は詳しくあげていくと100近くになる」。

 代表的疾患として変性疾患がある。
 「変性疾患とは、原因はまだよく分かっていないが、脳の神経細胞が死滅、脱落して、その結果、脳が萎縮し、認知症を招く疾患群である」「変性疾患による認知症の代表がアルツハイマー病である」。
 
 脳血管性認知症。「脳の血管が詰まったり(梗塞)、破れたり(出血)した結果、その血管で酸素や栄養を供給されている脳の部位が損傷を受け、認知症に至る疾患である」。

 「アルツハイマー病と脳血管性認知症で認知症の7、8割を占める」。

 認知症の中核症状。「認知症をかかえる人にはだれにでも現れる症状であり、記憶障害、見当識障害、思考障害、言葉や数のような抽象的能力の障害などをあげることができる。これらは脳の障害から直接的に生み出され、たとえば、記憶障害は主に海馬などの記憶を司る部位の損傷から生じる」「ただ、中核症状の一部には、脳障害から直接ひきおこされたとはいえない廃用症候群が含まれる」「医学的にみる限り、それ程機能が低下しているとは考えられないのに、使用しないための機能低下が加わり、ときにはもとに戻せない変化が生じている場合をいう」「認知症をかかえ、一人暮らしで人との交わりや刺激に乏しい生活を送っていると、認知症が深まってしまう」。

 「認知症には必ず記憶障害がみられるが、記憶障害があれば認知症であるとは言えない」「認知症者には自らの記憶障害に対する防衛策を講じないと、うまく暮らしていけないという認識が抜け落ちてしまう」「自らの病状を認識できない、という意味で病態失認とよぶ。この失認を伴うようになってはじめて、もの忘れは認知症特有の記憶障害になる」。

 「見当識はオリエンテーションの邦訳」「今がいつか(時間)、ここはどこか(場所)、この人はだれか(人物)に関する認知を意味する」「認知症ではこの順に侵襲が及ぶ」。

 周辺症状。「人によって現れ方がまったく異なる症状で、自分が置いたところを忘れて『盗まれた』と言いつのる『もの取られ妄想』、配偶者が浮気していると思いこむ嫉妬妄想、いないはずの同居人がいると主張する『幻の同居人妄想』などの幻覚妄想状態、不眠、抑うつ、不安、焦燥などの精神症状から、徘徊、便いじり、収集癖、攻撃性といった行動障害まで、さまざまな症状がある」「周辺症状の成り立ちを解明するには、医学的な説明によってではなく、認知症という病を生きる一人ひとりの生き方や生活史、あるいは現在の暮らしぶりが透けて見えるように見方が必要になる」。

 アルツハイマー型認知症と脳血管性認知症。「アルツハイマー型認知症は、まず人柄の変化からはじまり、それが認知の障害に及び、さらに重度になると意識の障害を生じ、一日中うつらうつらして、睡眠・覚醒のリズムがとれなくなる」「脳血管性認知症に場合は、これとまったく逆で、まず梗塞、出血などによって意識障害が生じ、そこから回復しても認知障害が残存し、礼儀や規範といった社会的人格は、かなり認知症が深くなるまで比較的保持される」「アルツハイマー型認知症は共同性に偏した生き方を、脳血管性認知症は個別性に偏した生き方をしているようにみえる」。
 「雨宮克彦という認知症のケアを続けてこられた方…はコンピュータになぞらえて、アルツハイマー型認知症は記憶素子が壊れた状態であるのに対し、脳血管性認知症は基盤の電気配線がところどころで切断されている状態である、と言う」「ケアについて次のように主張しておられる。『アルツハイマー型認知症は記憶が断片的になりやすく、過去や未来を欠いて今を生きているが、そのためにかえって強い不安をもっている。そこで彼らは集団のペースに乗せて、大勢で、にぎやかに、がやがやと生活していくのがよく、肩を組んだり、手をつないだりして身体的接触を密にしたほうが良い』『彼らは理屈、損得、矛盾のない虚構の世界を生きており、これを現実の理屈世界に引き戻そうとするとかえって不安定になる』『一方、脳血管性認知症は、静かな環境で、個室あるいは気のあった者同士の二人部屋を用意し、その人のペースでゆっくりと、一定の距離をとりながら、個別にケアしていくことが大切である。彼らは現実の理屈の世界に住んでおり、認知症の人だけの世界に入れると、認知症が深まる危険性がある』」。

 「第二部では、認知症をかかえて生きる人たちの不自由と心のありかを訪ねる。つまり、内側からみた、あるいは体験としての認知症の探求である」。

 「認知症を病む人たちの多くは徐々に『できないこと』が増えていくのだが、一方でそのことを漠然とではあれ感じとる能力は保持されている」「自分が人に迷惑をかけていることも、自分が周囲からどのようにみられ扱われているかということも、彼らはとても敏感に感じとっている。そして、不安に陥り、怯えている」「自分の忘れっぽさを自覚していて、時折張り紙に注意を向け、自分のやらねばならない行為を思い出し、張り紙の指示に従うというような判断を順次、正確に行い、実行することは、悪性健忘をかかえている人には至難のワザである。…それでも、そのたびに引き起こされる周囲の言語的、非言語的な困惑や非難、あるいは否定的感情にさらされ、それが蓄積して、自分が周囲に迷惑をかけているらしいこと、そして『できないこと』がどんどん増えていることを正確に感じとるようになる」。

 「記憶、見当識、思考、言葉や数の抽象化機能などは、日常生活を送っていく上でそれぞれがとても大切な機能である。しかし、暮らしのなかでは、これらの機能一つひとつがバラバラに役立っているわけではない。複数の知的道具あるいは要素的知能を組み合わせて使いこなす『何か』がなければならないはずである。それを知的主体あるいは知的『私』とよぶことにすると、そこに障害が及ぶのである。だから、認知症を病む人は、いろいろなことができなくなるという以上に、『私が壊れる!』と正しく感じとるのである」。

 「『やりたいこと』と『やれること』、あるいは周囲の期待と本人の力量とのギャップがきわめて大きくなっているにもかかわらず、認知症をかかえていると、両者に折り合いをつけ、『身の丈にあった生き方』を選択することが難しい。その結果生じた不安、困惑、いらだち、混乱のあげくにたどり着いた結果が周辺症状である」「だから、彼らが窮地に陥ったときには、手を差し伸べ、不安を鎮め、『できること』を増やして、あまりに大きくなったギャップを埋めるためのケアを提供しなければならない」「しかし、ギャップをまったくなくせばよいと考えるのは間違いである」「人は『やれること』だけをやって生きているのではない。今はできないけれど、いつかはやれるようになりたいという思いが生を豊かにし、生きる力を生む」「ケアは文化である」「文化とは、単に動物として生きていくだけなら、どうしても欠かせないものではないが、暮らしを豊かにするにはなくてはならない『余剰』である」「このようなケアは、眠っていた『欲望』を呼び覚まし、あえてギャップを作り出し、ズレを広げることにもなる」「しかし、うまくことが運んだ後の、彼らの笑顔はすべての苦労を忘れさせてくれた」。

 「『治る』j『治らない』でケアを考えるのは偏狭な医学的発送である。ケアは、医者が『治らない』と治療を断念した地点から始まる、と言ってもいい」。

 「高齢者にとって、さらに加えて認知症を病むことになった人たちにとって、これまでの生き方を変更して事態に対応するという柔軟さは失われていることが多い」

 「私は、認知症を生きる姿にみられる困惑や周辺症状の多くは、…やむにやまれぬ心情から生まれてくるものなのだろうと考えている。むろん、そのような事態に彼らを追い込むのは、彼らのかかえている認知症を生きる不自由なのだが、それを周辺症状に転化させるものは、すでに保持することが困難になった自己同一性への執拗なこだわりである」。

 「不自由に怯え、何とか不自由を乗り越えようと抗い、挫折してあきらめ、あるいは、まるで不自由がないかのようにやり過ごして、彼らは日々を生きている。この無理な生き方が知的『私』の破壊を、本来の器質性症状を越えて、いっそう促しているのかもしれない」。

 「彼らは子どもたちが来てくれると喜ぶ。普段はあまり表情のない方が、ニコニコして子どもの頭をなでている。犬を連れて行ったら大喜びでたくさんの方々が寄ってこられる。ケアを受けていると、私たちも気をつけてはいるのだが、どうしても彼らは受け身になりがちである。しかし、子どもや動物に対しては、自分が主人公になれる、あるいは世話する役割をとれる、と感じられるのかもしれない」。

 「家族はケア・パートナーとして生きるだけではなく、規範と常識の世界も生きなければならない。その狭間に置かれて、二つの世界に引き裂かれてしまうのだ」。

 「他人に語ることなどとうていできない、墓場までもって行かねばならない秘密をかかえている人たちがいることを、私たちは知っておかねばならない。『愛?私はとうていあの人を愛すことなんてできない。だって…』この『…』の部分に語るに語れない闇が潜んでいるのである」。

 「認知症をかかえることになった家人を、砂を噛む思いで介護してきた人たちが、長年の苦闘の果てに、今までかかえてきた家族の、あるいは自分の心奥に潜む闇を、ようやく乗り越え、それまでにない清澄な世界に辿り着かれることがある」。

 認知症と真正面から向き合ってきた人だからこそ言える言葉。その重さを感じながら、この本を読み終えた。

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