岡倉天心著、浅野晃訳、千宗室解説『茶の本』(講談社バイリンガル・ブックス)
岡倉天心著、浅野晃訳、千宗室解説『茶の本』(講談社バイリンガル・ブックス、1998年3月24日発行)を読んだ。英文で書かれたものを日本語の現代文に訳したせいかもしれないが、とても100年以上前にかかれたものとは思えない。普遍性というより、新鮮さを感じる。
天心は茶道を日本、中国、欧米の文化を見渡しながら論じている。こまかい流儀の前に、茶道の心を学ぶことができる。
本書によると、岡倉天心は「明治の評論家、美術史家、思想家、教育家。アーネスト・フェノロサとともに日本の伝統美術の振興、革新に指導的役割をはたす。東洋・日本の思想文化を欧米に伝え、その美術を積極的に海外に紹介した」「代表作『茶の本』は1906年5月、ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から出版。ほかに『東洋の思想』『日本の目覚め』(いずれも英文)などがある」。
西洋の文化にも、東洋の文化にも通じていた天心は、彼我の優劣を論じることなく、文化については普遍的な視点を持つ。当時、西洋文化を「われわれは喜んで学ぼうとはしている」のに対し、西洋側は東洋を理解しようとしていないことにいらだちを持っていたようだ。
「キリスト教の宣教師は与えるために行く、だが受けようとはしない」「諸君のもっている知識は、行きずりの旅行者たちのあてにならない逸話に基づくのでなければ、われわれの膨大な文献の貧弱な翻訳によるものなのだ」と、西洋側の不明を指摘する。
そして、こう言うのである。
「このようにあけすけに物をいうことは、おそらく茶道についての私自身の無知を暴露するものであろう。諸君が言うべく期待されていることだけを口にし、それ以上を言わないというのが、じつに茶道の典雅な精神の要求するところであるからだ。だが、私は、典雅な一個の茶人を気どっているのではない。『新しい世界』と『旧い世界』との相互の誤解によって、すでに多大の被害を蒙っている以上、よりよい理解を促進することに応分の寄与を捧げるのに、何の弁解も要らないはずだ」。
この心意気が素晴らしい。いま、天心がいてくれたら、と思う。
以下、ぐっときた天心の茶に関する言葉を引用する。
「茶には酒のような横柄なところもないし、コーヒーのような自意識もないし、ココアのような作り笑いをしているといった無邪気さもない」。
「部屋の調子をかき乱す一つの色もなく、事物のリズムを台なしにする一つの音もなく、調和をぶちこわす一つのしぐさもなく、四囲の統一を破る一つの語もなく、一切の動きが単純に自然に執り行われる――こういうのが茶の眼目であった」。
「『一定』と『不変』とは成長の停止をあらわす言葉に外(ほか)ならない」。
「教育は、強力な迷妄を維持しようがために、一種の無知を奨励する」。
「東洋思想に対する禅の独特の貢献は、それが精神的なものへと同等の重要さを世俗的なものへも認めたことであった。禅の主張するところにしたがえば、事物の大いなる相関のなかでは、大小の区別ごときは存在しない、一個の原子が宇宙とひとしい可能性をもっているのだ」。
茶室(すきや)について。
「それは詩的衝動を宿すためにつくられた、つかの間の建物であるから、『好みの住居』(好き家)である。当座のある美的要求を満足させるためにそこに置かれ得るものの外には、何の装飾も施されていないという意味では、『空虚の住居』(空き家)である。『不完全なもの』の崇拝に捧げられ、それらを完成するための想像力のはたらきのために、故意に何かを未定のままにしておくという限りでは、『非相称性の住居』(数寄屋)である」。
「露地すなわち待合から茶室へとみちびく庭の小径は、瞑想の第一段階――自己了解への経過を意味した。露地は外部の世界とのつながりを断ち切り、かくして茶室自体のなかで、心ゆくまで審美主義を楽しみ得るような新鮮な気分を生み出すためのものであった」。
「茶室は、何らかの美的情調を満足させるために一時そこに置かれるものを除いては、絶対にからである。たまたま何か一つの芸術品がそこへ持ち込まれると、他のものはすべてこの主題の美を引き立たせるように選択され、配合される」。
「室内装飾のためのいろいろな物は、色彩も意匠も重複しないように選択されねばならない」。
「傑作というものはわれわれの最美の感情もて奏でられる一種の交響楽である」。
「いわゆる科学的陳列法のために美的陳列法を犠牲にしたことは、多くの美術館の弊害となっている」。
「自分自身を美しいものになし得ないうちは、人は美に近づく権利をもたない」。
「美しいものとともに生きたものだけが、美しく死ぬことができる」。
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