« May 2012 | Main | July 2012 »

初体験、センター前進守備の面白さ!

 今日は、秋が瀬公園でソフトボールの試合。
 昨日の雨でグランドコンディションが悪く、中止かと思われたが、午後になって真夏のような晴天となって、試合は予定より2時間遅れの14時から、決行することになった。

20120617softball


 相手チームは若々しく、元気。対して、平均年齢がかなりあがったわがチーム。久々の試合に暑さが加わって、調子が出ないうちに2試合続けてコールドで負けてしまった。
 
 お情けで3試合目をしてもらい、勝利したが、今日は本当に打線が湿っていた。

 かく言う私も打撃成績は振るわなかった。

 1試合目、1番ライト。レフトフライ、ショートゴロ、センターフライエラー(当たりは良かったがセンターがグラブに当てた)。

 2試合目、1番センター。サードゴロエラー、レフトフライ、ライト前ヒット

 3試合目、1番センター。センターフライ、センター前ヒット、サードゴロ。

 でも、きょうは面白かった!

 全然打てなかったのに?

 2試合目のセンターの守備が楽しかった。ショートで4番のM氏。野球経験者の彼に、もっと前、前に守れと言われ、疑心暗鬼で前に守ったら、、半分内野のようで、新しい感覚の守備を体験できた。
 練習不足でライナーに追いつかず後逸したり、足もとの打球を処理できなかったりしたが、ライナーを捕れなかったもののショートバウンドで捕ったり、ゴロを慎重にではなく大胆に前進して捕る感じ。とても高揚感があった。
 考える間もない反射神経の勝負。スポーツはこれだよね!

 今度センターを守ったら、もっと大胆な守備をしてみたい。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

出口治明著『百年たっても後悔しない仕事のやり方』(ダイヤモンド社)

Hyakunentattemo_kokaishinai_shigo_2
百年たっても後悔しない仕事のやり方

 出口治明著『百年たっても後悔しない仕事のやり方』(ダイヤモンド社、2011年3月10日発行)を読んだ。

 出口氏は「1948年、三重県美杉村生まれ。上野高校、京都大学法学部を卒業。1972年、日本生命保険相互会社入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当。生命保険協会の初代財務企画専門委員会委員長として、金融制度改革・保険業法の改正に従事。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て、同社を退職。その後東京大学総長室アドバイザー、早稲田大学大学院講師などを務める。2006年にネットライフ企画株式会社設立、代表取締役就任。2008年に生命保険業免許取得に伴い、ライフネット生命保険株式会社に社名変更、同社代表取締役社長に就任」。

 「50代半ばまで大手の生命保険会社に勤め、還暦(60歳)でライフネット生命を創業」した出口氏が、どんな仕事観を持っているのか、興味があって読んでみた。

 「人の一生は、どこかの会社に入って、そこで自分の人生が完結するとは限りません。そのように未来を固定化して、そこに自分の人生を乗せて考えられるほど、そもそも現代の日本は安定していません。頼りになるのは自分です」。

 「人間は生きています。そして、必ずなんらかの仕事をしています。それが生きている、ということだからです。社会的な存在である人間は、さまざまな仕事を通して社会とつながりを持ち、それぞれの人生を作っていくのだと思います」。

 「人間の一生は人智を越えた何か大きな力によって動かされているのではないだろうか。あたかも悠々と流れる大河に浮かぶように。そう考えるようになってから、『自分に正直に生きていく』ことを大切にするようになりました」。

 「乱暴な表現をすればキャリアプランを作るなら、抜け穴だらけのいいかげんなものがいい。もしなれたらいいな、それだけでいいと思います」。

 「会社の仕事は、どんなビジネスをやろうとか、どういう商品を売ろうかといった大きな仕事から、会議用の資料を準備する、パーティー会場を探すなどの仕事まで、必ずそこには明確な目的があり、合理的な理由があります。したがって、仕事の内容をていねいに分析すれば、多くの場合は、正しい解答に到達するはずです」「けれども、現実にはそうはなっていないことが多々、見うけられます。…それは、仕事そのものだけを考えず、余計なことを考えてしまうことが、その理由のように思えます」。

 「70%正解であれば、大きな方向はできたも同然です。あとの30%は、たとえばグループのメンバーが集まって考えれば埋められます」「私は会社の仕事の場合、完全主義にこだわるのは『時間と人材の有限性』を忘れることになりかねないと思うのです」「私がリーダーの立場でスタッフに求めることは、いかなる条件下の仕事でも、コンスタントに70%の解答をスピーディに出してくれることです」。

 「有限な時間と人材という前提を考える時、改善しながら進むという考え方は、今日にふさわしい仕事の進め方であると思います」。

 「成功する方法が書いてある本を求めるよりも、大きな成功を成し得た偉大な先人たちの人生そのものを学ぶ位ことが大切です」。

 「『きちんと眼を合わせて相手と話す、どんな時も眉間に縦皺を寄せないで話す、相手の言葉にスピーディに答える』、そのような努力をいつも続けている人と一緒に仕事ができたら、どんなに楽しいことでしょうか」。

 「多くの成功体験は偶然のなりゆきや、天の時、地の利、人の和など有利な条件の集まった結果です。ですから成功体験は法則化できません」「何かをやろうと挑戦する時は、成功体験を忘れて、また失敗体験を恐れすぎず、すべてをご破算にして(自分をゼロにして)原点から考えることのほうが成功の確率は高いと思います」。

 「失敗した後悔とそのことで受けた心の傷は、つらくても心の底に沈めて、失敗の原因だけを事実として記憶し、知恵の一部分とするしかないと、私は思います」。

 気になる一文を引用してみたが、どの言葉にも共感できた。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

町亞聖著『十八歳からの十年介護』(武田ランダムハウスジャパン)

18saikarano10nenkaigo
十八歳からの十年介護

 町亞聖著『十八歳からの十年介護』(武田ランダムハウスジャパン、2011年10月25日発行)を読んだ。

 本書によると、町亞聖さんは「1971年8月3日生まれ。埼玉県出身。子供の頃からアナウンサーに憧れ、立教大学を卒業後、1995年、日本テレビにアナウンサーとして入社。スポーツ、天気、クラッシック、ニュースなど様々な番組を経験」「その後、報道に活動の場を移し、アナウンサーだけでなく、記者、報道キャスターなども務めた。脳障害のため車いすの生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そしてその母と父をがんで亡くした経験から 医療を生涯のテーマに取材を続ける」「しゃべりのプロとしての意識を持ち、取材も出来る「伝え手」として経験を重ね、肩書きにとらわれず『自分で取材をして自分で作って自分の声で伝える』アナウンサーを目指す」「活動の幅を広げるために、2011年6月フリーへ転身」。

 この本は略歴にある「脳障害のため車いすの生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そしてその母と父をがんで亡くした経験」を綴ったものだ。

 第一章 私、十八歳。母、倒れる
 1990年1月。くも膜下出血になった町さんのお母さん。手術は成功したが、脳梗塞を併発。手術で一命をとりとめたものの、後遺症が残った。「言語障害、右半身付随、そして知能の低下。これから母は、重度の身体障害者として生きていくことになる」「母のサポートをするという、私の、そして家族の、新しい日々が始まった」。

 「母が倒れたことで、私にはまず弟の宗法と妹の亞夢の面倒を母代わりにみていかなくてはいけないという自覚が芽生えた」。

 「春から中学生になる亞夢」「中学三年生だった宗法」。
 「これからは母の分まで、亞夢と宗法のためにできるだけのことをしていこう。そう決意し、もちろん努力もしていたが、私自身もふたりのやさしさや強さに支えられていたのは間違いない」。

 お母さんはどんな人だったのだろう。
 「私にとって母は『お母さん』というよりも、『お姉ちゃん』と呼びたくなるような存在だった」「誰に対しても公平で、根本的に明るい。家族みんなを照らしてくれるような母のことが、父も私も宗法も亞夢も大好きだった」。
 「母が私を産んだのは二十一歳のときで、父は二十三歳だった」「『神田川』というかぐや姫のヒット曲があるが、まさにあの曲で歌われているような、四畳半一間の何もないアパートで暮らしていた」「その後も三人の子どもを抱え、家事とパートの仕事を両立させ、家族のために尽くしてきてくれた母」「私たち子どもたちが、ようやくそれぞれ手のかからない年齢になった矢先に、母は倒れてしまった」「まだ四十歳。第二の人生はこれからだったというのに……」。

 「右手、右脚はまったく動かなくなってしまった。放っておくと、内側に曲がって硬くなってしまうので、毎日のマッサージが欠かせない」「母は言葉を失った。『違う』『痛い』『嫌だ』という感覚的な言語は、発することができる。しかし、例えばスプーンを見せて、『これは何?』と聞いても、母には答えることができない」。

 「倒れてから4カ月後の1990年5月、母はリハビリ専門の病院に転院することになった」「その病院で母は、ベッドから車いすへの移り方、車いすの操作、トイレ、着替え、歯磨きなど、身のまわりの最低限のことが自分でできるようになるための訓練を受けた」「数ヵ月かけて身のまわりのことがひと通りできるようになると、今度は階段の上り下りまでできるようになった」。

 「浪人時代の私の生活は、起きている間は母のそばにいるか、勉強をしているかのふたつしかなかった」。

 「そして、ついに母の退院が決まった」「1991年2月、リハビリを終えて我が家へ帰ってきた」「倒れてからおよそ1年と1ヵ月」。
 「帰ってきた母には、まず自立してもらうことを第一に考えた」「自分でできることがひとつ増える度に、母は母親としての自覚を取り戻しつつあった」。

 「2月になり、ついに受験の時期が訪れた。…春には立教大学へ進むことが決まった」「言葉の話せない母は、泣いて喜んでくれた」。

 「晴れて大学生になったからといって、私には浮かれて遊んでいる時間はほとんどなかった」「でも失ったものよりも、もっと多くのものを母から得ることができた。母とは普通の親子よりも、貴重な時間をたくさん過ごすことができた」。

 このくだりを読んで、落合 恵子著『母に歌う子守唄~わたしの介護日誌』(朝日文庫)、『母に歌う子守唄 その後~わたしの介護日誌』(朝日文庫)を思い出した。
 お母さんを看取った後の彼女の感想。
 「それでも、元気だった頃の彼女とより、いまのほうがはるかに深く親密なコミュニケーションが成立しているように思えるのは、なぜなのだろう」。
 「母の介護を軸にして息せききって走り回っていた日々を、このうえなくいおおしく、このうえなく懐かしく思うわたしがいる」。

 「大学在学中に、母と一緒に障害者が交流する場に出かける機会も増えた」「そういう機会が増えると、ただ町を歩いているときにも、車いすの人や杖をついて歩いている人が多いことに、自然と気づくようにもなる」「そして、そういう人たちにとって、街や道や人がいかにやさしくないのかということも見えてくる」。

 「自分や家族が『健常』であれば、障害を抱える人の存在は目に映りにくいのかもしれない」「でも自分もいつか、いや明日にもそうなる可能性がある。『もし自分だったら』という想像力を働かせたなら、『他人事』で済ませることはできなくなるのではと思う」。

 「介護にしても、公的介護保険制度がスタートしたのは2000年であり、母が倒れた1990年はまだ何の制度もなかった」。

 「母の介護を通して痛感した、日本の福祉におけるさまざまな問題。それらを少しずつでも改善するためのきっかけを作り、よりよい福祉のために自分にできることで社会に貢献したい」「では自分にできることとは何か?」「その答えとして、私が出した結論は『伝えること』」。

 第二章 私、二十三歳。アナウンサーになる
 1995年、日本テレビにアナウンサーとして入社。
 アナウンサーになって2年目。「父と私と弟の収入が合算したうえで、父の名義で中古のマンションを購入することにした」「家の中には手すりやスロープなどはあえてつけなかった。なぜかというと、少しの段差でも、それを克服しようとする勇気が大切だと思うし、またその勇気が『一歩』外に出る勇気につながるからだ」「新しい家の形に慣れることも、母にとってはリハビリになる」。

 「新しい家で暮らし始めてからは洗濯や掃除、食器洗い、観葉植物への水やりなど、母ができる範囲の家事もやってもらうようになった」。

 「身体の使えなくなった機能にばかり気をとられるのではなく、使える機能を生かせるようにサポートする。そうすることで、ハンデをもつ人の生活の質は、かなり変わってくるのではないかと思う」。

 「どんな場合であっても『自分が一番大変だ』という考え方をしないように心がけていた。自分よりももっと大変な人、困難を抱えている人はたくさんいる。自分中心になり、そのことを忘れると、他人への思いやりもなくなってしまう」。

 「まだ大学生だった頃のことだが、母とふたりで障害をもっていながら絵を描いている男性の展覧会に出かけたことがあった。両手が不自由なその画家の男性は口に筆をくわえて見事な墨絵を描いていた。目の前で実際に絵を描く姿を見た母は、『すごいね、すごいね』と、ぽろぽろ涙を流していた」。

 これは星野富弘さん?
 
 「『私たちがいなければ』母は何にもできないのではなく、『私たちがいれば』何でもできるのだ」。

 「一番大きく、取り除くのが難しいのは、人の心の中にあるバリアだと私は思う」「障害があるから『普通じゃない』と決めつけるような意識の低さが、日本の福祉を停滞させている一因であるような気がする」。

 第三章 私、二十六歳。母、四十七歳。がんの告知
 「ひと通り診察が終わると、母から離れたところで先生は私に言った。『どうして、こんなに悪くなるまで放っておいたの?』」「そして何の心の準備もないままに、母が子宮子宮頸がんであることを告げられた。しかも末期」。

 「宗法は一瞬言葉につまったが、力強くこう言った。『人生は長さじゃないよ、深さだよ』」。

 「母は、私たちに素晴らしい贈り物をくれた。失ったものもあったが、私たちに起きた数々の出来事が、思慮深さや他者への思いやり、そして年齢には不相応なほどの寛容さを与えてくれた」。
 「母はまた、私たちに生きることの意味を考える機会を与えてくれている」。

 放射線治療後、退院。そして、「この年の秋、初めて母とふたりで箱根に一泊旅行にでかけた」。
 「車いすの人にとって、どんなことが不便なのか知ってもらうためにも、車いすの人もどんどん外に出たほうがいいと思う。最初は無関心な人でも、車いすの人の存在に気がついて、少しでも関心を示してくれたら、それが次の一歩につながる」。
 「植物には晴れの日も雨の日も必要だ」「きっと人間もそうなのだろう。つらい経験が人を強くさせるし、またやさしくもさせる」。

 「母はうまく会話はできなくなったが、言葉では語りきれない大切なことを私たちに伝えようとしている。見をもって生きることの大切さ、そして当たり前であることの素晴らしさを教えようとしてくれているのだ」。

 治療は抗がん剤治療に。しかし、それはお母さんの食欲を奪う。
 「本当にこれ以上、抗がん剤治療をする必要があるのだろうか」

 「間違っていない。もう母のためには、抗がん剤治療はいらない」。

 第四章 最期を迎えるための介護
 「私の固い決意に反して、父と宗法は母を在宅看護することをためらっていた。男はこういうときに、なんて意気地なしなのだろう。栄養剤を点滴するための手術を受けたのも、危険を冒してまで人工肛門にしたのも、すべては母を在宅で看護できるようにするためではないか」。
 「母の入院中、仕事以外の時間のほとんどを病院で過ごしたのは、母と一緒の時間を大切にしたいという気持ちももちろんあったが、在宅で看取る心の準備をし、そして看護のための具体的なノウハウを覚えるためだったのだ」。
 「埋めようのない大きな穴が私の心にあいて、その中を冷たい風が通り抜ける。母の明るい笑顔が、その心の穴をえぐるように突き刺さる」「私を支えてくれる存在が欲しかった」「最愛の人を失う無念さと哀しさ、言葉では言い表せない揺れ動く複雑な心境は、同じ体験をしている家族としか共有できない」。

 「家族だけでサポートできるなら、それが理想的だとは思うが、やはり限界はある。そういうときに、こうした訪問看護や出張入浴などのサービスも、誰もが気軽に利用できるようになるといい」。

 第五章 私、二十八歳。五十歳目前の母との別れ
 1999年の「11月9日17時21分、母は49歳という短い人生の幕を閉じた」。
 「私は母と過ごす時間のなかで、何度『感謝』という気持ちをもったことだろう。健康な身体に産んでくれたこと、弟と妹を産んでくれたこと、アナウンサーになれたこと、生きる意味を与えてくれたこと。私はただただ感謝を母に伝えたい」。
 「私たちの家族の絆を深めてくれたのも、母である」。

 第六章 私、三十四歳。父、五十六歳で母の元へ
 「18歳からの介護生活が終わったときに思ったことは、これからは自分のことだけを考えてもいいのだ、ということだった」。
 「母を失った哀しみはなかなか消えなかった。今も乗り越えたとは言い切れないかもしれない。それでもなんとか元気に頑張ってこられたのは、仕事があったからである」。


 町さんはこの後、「『生涯現役の伝え手』であるために、独立するには今しかない。そう決意し、2011年5月、16年お世話になった日本テレビを退職し、フリーのアナウンサーとして新たに活動を始めた」。
 「『医療』と『介護』という生涯のテーマと『伝え手』という天職」を町さんが得た経緯がよく分かった。
 これからの町さんの活躍に期待したい。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

JRで忘れ物をしたら――自分で必死に探そう!

 JRで、忘れ物をしたら――。
 情けないことだが、最近、相次いでJRで忘れ物をした。
 無事、回収できたのだが、いい勉強をしたので、その教訓を公開!

 本日。新宿から乗った中央特快高尾行きにケータイを忘れた。JRは各駅の電話番号を公開していないので、テレフォンセンター(050-2016-1601)に電話した。しかし、全国各地にいるオペレーターが対応するので、サービス水準はバラバラ。「間違いなく八王子駅にある」ことが分かってから、そう言っても、なぜか、確認できなかった。

 なぜ場所が分かったかというと、これはドコモの力。ドコモの忘れ物対応窓口(0120-524-360)に電話し、まず、不正使用されないようにケータイをロックしたが、その時に、ケータイの位置情報を調べてもらったところ、八王子駅にあるとのことだった。電車内かもしれないので、しばらく間をおいて、再度、調べてもらうと、やはり八王子駅。

 JRによると、「電話でその時、忘れ物が届いているか」という問い合わせはできても、正式な届け出は、駅でする必要があると言う。

 どうせ駅に届け出るならと、結局、八王子駅に行った。ケータイはあった。届け出をきちんとテレフォンセンターが受けて、情報を入力してくれれば、見つかっていたはずだ。テレフォンセンターは機能していない。


 恥ずかしいので、内緒にしていたが、JR山手線の網棚にショルダーバッグをおき忘れたまま、電車を
降りてしまったことがある。
 カバンを置いた車両も場所も駅の忘れ物担当に告げたのに、「混雑時だから、カバンを回収できない」と言う。
 しかたなく、乗ったと思われる電車と、その前後の電車の番号を教えてもらった。
 この番号は1周回るごとに増える。941Gならば、次は1041Gになる。これだけをわきまえて、少し、先回りして、電車を待った。
 カバンは山手線を1周回っても、網棚にあった。運が良かった。カバンは無事、手元に戻った。

 教訓:JRは、動きが悪いので、忘れ物をしたら、自分で頑張って探すしかない。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

御前山(ごぜんやま、東京都西多摩郡奥多摩町、檜原村の境界、標高1405m)

 5月末、Mさんから山歩きの計画書が送られてきた。

 6月山行 御前山

 今回の山行の目的地は奥多摩三山(大岳山・三頭山・御前山)の一つ御前山です。山頂まで緩やかですが長い尾根を登ります。南斜面なので明るく新緑が楽しめます。前回、雨の梅ノ木尾根を登れたので、そろそろ技術的・体力的にレベルアップする段階に入りたいと思います。今回は最後の足慣らし山行として新緑の奥多摩を楽しみましょう。夏には少し登り甲斐のある山に行きたいと思います。日々のトレーニング(日常出来るだけ歩くこと)は4000メートル級の世界の山に通じています。

【日時・集合】
6月10日(日) JR五日市線武蔵五日市駅改札(1ヵ所です)午前7時58分集合

※JR中央線 高尾行きに乗り立川で五日市線乗換え
 新宿(6:44)→立川(7:10)→武蔵五日市(7:57)
この電車に間に合うように各自経由・時刻を調べて乗車してください。
※西東京バス 武蔵五日市(8:01)発、小岩行きに乗車
  乗り遅れると9時27分までバスはありません。

【コースおよび歩行時間】
 宮ヶ谷戸バス停→御前山→奥多摩湖(または境橋) 約5時間
※帰りは奥多摩湖(または境橋)から奥多摩駅までバス(1時間に2本程度)で帰ります。
なお、境橋からなら40分ほど歩けば駅に着きます。

【備考】
 雨の場合は中止にします。前日か当日早い時間に携帯に連絡を入れます。
 バス乗車時間待ち時間がほとんどないので、食糧などは都内で用意してください。
 水場は一応山頂近くの非難小屋にあるようですが、飲めないという山行報告があります
ので持参してください。
                                 (以上)

 過不足ない計画。Mさんの歩き方に似ている。

 武蔵五日市駅に7時57分に到着。
 ケータイをJR中央線高尾行きの中に忘れたようで、西東京バスで宮ヶ谷戸バス停に着くまでの間にJRやドコモに電話。慌ただしいスタートになってしまった。でもドコモでケータイをロックしてもらい、さらに、ドコモの位置確認で八王子付近にケータイがあることが分かり、帰りに取りに行けばいいという気持ちになった。さあ、山歩きだ。

Img_0339
8時40分、山歩きスタート。

Img_0340

Img_0341_2

Img_0343

Img_0345

Img_0346
 歩きやすい道。

Img_0347
 10時36分。かなり登って、景色のいいスポットも。

Img_0348

Img_0349

Img_0350

Img_0352
 11時4分。2/3ほど登った。

Img_0354

Img_0355
 12時2分。霧が出てきた。

Img_0357
 頂上までもう少し。

Img_0358

Img_0359
 避難小屋。12時13分。ここで食事をとる。

Img_0360
 12時45分頂上へ。

Img_0361

Img_0362
 12時56分、頂上。標高1405m。

Img_0363

Img_0364

Img_0366
 13時3分、下山開始。

Img_0367
 避難小屋を経由する。

Img_0368
 奥多摩駅方面へ。

Img_0369
 急な下り坂。脚にこたえそう。

Img_0370

Img_0371

Img_0372
 舗装道に出る。もうあとわずかかと思ったら...。

Img_0373
 再び登山道へ。

Img_0374

Img_0375

Img_0380
 15時18分。舗装道へ。

Img_0381
 遠くに見える橋まで急ぐ。

Img_0382
 15時46分、いいタイミングでバスが来た。

Img_0387
 16時、奥多摩駅近くの「きみちゃん」へ。青梅信用金庫近くの路地(昔は小便横丁と呼ばれていた「柳小路」)にある。以前は、「しんちゃん」に行った)にある。

Img_0383
 生き返る。

Img_0384

Img_0386

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

一人負けから大逆転・哲也@東風荘

 3連続ラスの後、この一局も、まったくつかない。
 でも、親が回ってきた。
 最後の粘りを見せようと、無心で打った。
 

 配給原点に。


 トップ追撃。


 トップ直撃。

 オーソドックスに打つことが必要だ。

===== 哲也@東風荘 122卓 開始 2012/06/09 20:41 =====
持点27000 [1]南無阿弥蛇仏 R1833 [2]フーテンの中 R1810 [3]momomasa R1880 [4]SG.super☆ R1663
東1局 0本場(リーチ0) momomasa -1000 SG.super☆ -1000
流局
[1西]5m1p5p6p8p1s2s3s5s6s8s西中
[2北]3m3m9m2p2p3p4p6p8p7s東白発
[3東]3m4m7m8m5P1s1s3s3s8s9s西北
[4南]3m5m8m2p3p7p1s2s5s6s9s北発
[表ドラ]1s [裏ドラ]白
* 3G白 3d北 4G2s 4d北 1G7s 1d西 2G3p 2d9m 3G7m 3d白 4G4p 4d9s 1G東 1d中
* 2G中 2d東 3G4p 3d西 4G東 4D東 1G1p 1d8p 2G9m 2D9m 3G中 3D中 4G北 4D北
* 1G6p 1D6p 2G白 2d中 3G南 3D南 4G7p 4d発 1G4s 1d5m 2G2m 2d発 3G4m 3d9s
* 4G5m 4d8m 1G6s 1d東 2G5s 2D5s 3G南 3D南 4G1p 4D1p 1G4s 1D4s 2G6m 2D6m
* 3G5P 3d8s 4G5m 4d3m 1G6s 1D6s 2G4p 2d7s 3G9m 3d4m 4G8m 4D8m 1G3s 1D3s
* 2G7p 2d2m 3G北 3d7m 4G2p 4D2p 1G西 1D西 2G9p 2d3m 3G発 3d北 4G8p 4D8p
* 1G1p 1D1p 2G8p 2d3m 3G2m 3d発 4G発 4D発 1G7s 1D7s 2G2m 2D2m 3G東 3D東
* 4G1m 4D1m 1G1m 1D1m 2G9s 2D9s 3G2m 3D2m 4G5p 4d2p 1G4s 1D4s 2G4m 2D4m
* 3G3p 3d5P 4G9p 4D9p 1G8m 1D8m 2G9m 2D9m 3G6m 3R 3d9m 4G7m 4D7m 1G白 1D白
* 2G2s 2D2s 3G5s 3D5s 4G7s 4R 4d2s 1G7m 1D7m 2G6m 2D6m 3G6m 3D6m 4G西 4D西

東1局 1本場(リーチ2) momomasa 3800 フーテンの中 -1800
30符 一飜ロン 中
[1西]2m3m7m4p5P8p1s2s5s7s南南北
[2北]2m4m7m1p2p2p5p6p2s5s9s9s発
[3東]1m8m9m1p3p6p8p8p2s9s東白中
[4南]7m8m3p3p1s1s5s7s東南西北発
[表ドラ]7s [裏ドラ]6p
* 3G7p 3d白 4G4p 4d西 1G7p 1d北 2G2m 2d1p 3G8m 3d1m 4G2m 4d南 1G3s 1d7m
* 2G北 2D北 3G中 3d9s 4G東 4d北 1G1p 1D1p 2G6m 2d発 3G9m 3d東 4N 4d2m 1G6m
* 1D6m 2G白 2D白 3G9s 3D9s 4G4p 4d発 1G5m 1D5m 2G2s 2d5s 3G1m 3D1m 4G6m
* 4d4p 1G7m 1D7m 2G9p 2D9p 3G4p 3d2s 2N 2d4m 3G1m 3D1m 4G1p 4D1p 1G中 1D中
* 3N 3d1p 4G9p 4D9p 1G東 1D東 2G8m 2d6p 3G8s 3D8s 4G3m 4D3m 1G8s 1d5s 2G3s
* 2D3s 3G5s 3d8p 4G3m 4D3m 1G8p 1D8p 2G6s 2d5p 3C3p4p 3d5s 4G白 4D白 1G9p
* 1d3m 2G西 2d6s 3G8s 3D8s 4G発 4D発 1G西 1d2m 2N 2d西 3G4s 3D4s 4G4s 4d3p
* 1G9p 1D9p 2G5m 2d8m 3A

東1局 2本場(リーチ0) momomasa 12600 南無阿弥蛇仏 -12600
満貫ロン 白 ドラ3
[1西]1m2m7m8m5p8p7s9s東西北北中
[2北]5m5m4p2s4s5s5s6s9s東西西発
[3東]2m3m3p6p7p2s6s7s8s8s白白白
[4南]3m5m9m6p6p8p8p9p6s南西中中
[表ドラ]8s [裏ドラ]8p
* 3G6m 3d2s 4G9m 4d9p 1G6p 1d西 2G5P 2d2s 3G1s 3D1s 4G8p 4d西 1G6m 1d中
* 2G発 2d9s 3G7p 3d6m 4G中 4d南 1G4m 1d東 2G5s 2d東 3G8s 3d3p 4G5m 4d6s
* 1G9p 1D9p 2G1p 2D1p 3G1m 3d7p 4G東 4D東 1G2s 1d8p 3A

東1局 3本場(リーチ0) momomasa 6700 フーテンの中 -6700
30符 三飜ロン 断ヤオ 平和 ドラ1
[1西]2m4m6m7m1p3p4p6p6p9p3s7s9s
[2北]1m1m5m3p8p9p1s7s8s南南西発
[3東]4m5m9m5p8p4s6s7s8s東南西北
[4南]7m8m2p2p3p5P7p9p5s6s9s南北
[表ドラ]3m [裏ドラ]東
* 3G5m 3d北 4G9p 4d北 1G1s 1d9p 2G3s 2d西 3G8p 3d西 4G7p 4d9s 1G3s 1d1p
* 2G東 2D東 3G7s 3d南 4G5p 4d南 1G6m 1d9s 2G白 2D白 3G3s 3d9m 4G3m 4D3m
* 1G6m 1d7s 2G5s 2d発 3G6m 3d東 4G1s 4D1s 1G1p 1D1p 2G9m 2D9m 3G東 3D東
* 4G発 4D発 1G中 1D中 2G8m 2D8m 3G2p 3D2p 4N 4d6s 1G中 1D中 2G7m 2d3p 3G2s
* 3d7s 4G4m 4D4m 1G5m 1d1s 2G1p 2D1p 3G3m 3d5p 4N5P5p 4d5s 1G3m 1d3s 2G白
* 2D白 3G2s 3d2s 4G6s 4D6s 1G4s 1d6p 2G9s 2d7m 3A

東1局 4本場(リーチ0) SG.super☆ 4900 南無阿弥蛇仏 -2100 フーテンの中 -1100 momomasa -1700
40符 二飜ツモ 白 自風
[1西]2m4m8m8m5P7p9p5s7s8s東北白
[2北]1m7m3p4p4p5P1s6s8s北北発中
[3東]9m1p2p2p4p9p2s3s5s5s6s9s発
[4南]8m1p2p3p6p2s2s9s南南北白白
[表ドラ]中 [裏ドラ]4m
* 3G6p 3d発 4G6p 4d9s 1G4p 1d北 2N 2d発 3G6s 3d9s 4G1s 4d北 1G6m 1d白 4N
* 4d8m 1G南 1d東 2G7p 2d1s 3G4m 3d9p 4G2m 4D2m 1G8p 1d南 4N 4d1s 1G5m 1d2m
* 2G6m 2d1m 3G2m 3d9m 4G9m 4D9m 1G9p 1D9p 2G4m 2D4m 3G1m 3D1m 4G7s 4D7s
* 1G3m 1D3m 2G中 2d8s 3G7s 3d1p 4G3s 4D3s 1G9s 1R 1d5s 2G西 2D西 3G4m 3d2m
* 4G4s 4D4s 1G西 1D西 2G白 2D白 3G5s 3D5s 4G7m 4D7m 1G5m 1D5m 2C6m7m 2d6s
* 3G西 3D西 4G2s 4A

東2局 0本場(リーチ0) 南無阿弥蛇仏 13000 フーテンの中 -3000 momomasa -4000 SG.super☆ -6000
ハネ満貫ツモ リーチ 門前清模和 ドラ4
[1南]1m1m8m6p1s1s2s2s2s4s5s6s西
[2西]6m7m5p6p9p1s8s東南南西北中
[3北]6m9m1p4p3s3s6s6s7s9s白発発
[4東]1m3m4m9m1p2p4p5P5s7s8s発発
[表ドラ]1m [裏ドラ]5s
* 4G9p 4d9m 1G南 1d西 2G1s 2d9p 3G5p 3d1p 4G8p 4d5s 1G7m 1d南 2G4p 2d8s
* 3G3s 3d9m 4G8s 4d1m 1G3m 1D3m 2G2m 2D2m 3G7s 3d白 4G7s 4d9p 1G西 1D西
* 2G8s 2D8s 3G5s 3d9s 4G北 4D北 1G6m 1R 1d6p 2G西 2d西 3G2m 3D2m 4G4p 4d3m
* 1G7p 1D7p 2G白 2d西 3G3p 3R 3d6m 4G6m 4D6m 1G1m 1A

東3局 0本場(リーチ0) momomasa 2000 フーテンの中 -2000
30符 二飜ロン 混一色
[1東]2m2m3m3p3p4p8p8p6s東南西中
[2南]2m4m8m4p7p7p1s8s西西北北発
[3西]3m6p2s3s4s4s5s8s9s9s北北発
[4北]3m6m6m6m8m1p2p3p8s南南西中
[表ドラ]2m [裏ドラ]中
* 1G5P 1d南 2G7m 2d8s 3G東 3d3m 4G1m 4d西 1G7s 1d西 2N 2d4p 3G5p 3d発 4G8p
* 4d8m 1G1s 1D1s 2G4m 2d7p 3G5s 3d東 4G7m 4D7m 1G白 1d中 2G4m 2d7p 3G9m
* 3D9m 4G白 4d中 1G東 1d白 2G6s 2d1s 3C2s3s 3d5p 4G東 4D東 1N 1d3p 2G発
* 2d6s 3C4s5s 3d6p 4G9p 4d8s 1C6s7s 1d2m 2G4s 2D4s 3G6s 3d8s 4G3s 4D3s
* 1G5m 1D5m 2G4p 2D4p 3G2p 3D2p 4G2s 4d白 1G7s 1D7s 2G7m 2d8m 3G4s 3D4s
* 4G1p 4D1p 1G5p 1D5p 2G6p 2D6p 3G7p 3D7p 4G1m 4d3m 1G9m 1D9m 2G2s 2D2s
* 3G7s 3D7s 4G5m 4D5m 1G7p 1D7p 2G1s 2D1s 3G南 3D南 4G6p 4d9p 1G白 1D白
* 2G9s 2D9s 3A

東4局 0本場(リーチ0) フーテンの中 13000 南無阿弥蛇仏 -4000 momomasa -5000 SG.super☆ -4000
満貫ツモ 中 リーチ 門前清模和 ドラ2
[1北]8m9m1p9p5s8s9s東南西白発発
[2東]4m6m4p5P6p8p3s3s4s5s白中中
[3南]2m2m5m6m7m7m2p2p4p7p8p7s8s
[4西]1m3m4m5m8m8m5P8p2s4s6s8s南
[表ドラ]8s [裏ドラ]5m
* 2G1p 2D1p 3G2p 3d4p 4G7s 4d南 1G8p 1d5s 2G9p 2d白 3G9m 3d7m 4G8s 4d1m
* 1G3p 1d8p 2G3m 2d9p 3G1m 3D1m 4G西 4D西 1G9s 1d3p 2G8m 2d8p 3G1s 3D1s
* 4G6m 4d8p 1G南 1d8m 2G中 2d8m 3G南 3D南 4G4s 4d5P 1G3s 1D3s 2G5p 2D5p
* 3G2m 3d9m 4G9m 4D9m 1G7p 1D7p 2G5m 2R 2d3m 3G西 3D西 4G2s 4d3m 1G2p 1d発
* 2G1m 2D1m 3G北 3D北 4G5m 4d6m 1G2s 1d南 2G6p 2D6p 3G北 3D北 4G1p 4D1p
* 1G西 1d発 2G3p 2D3p 3G9p 3R 3d2p 4G7m 4D7m 1G3m 1d白 2G4p 2D4p 3G3p 3D3p
* 4G東 4d4m 1G4m 1d西 2G1s 2D1s 3G1p 3D1p 4G北 4D北 1G発 1d西 2G7p 2D7p
* 3G6m 3D6m 4G北 4D北 1G9s 1d発 2G9m 2D9m 3G1s 3D1s 4G5s 4d東 1G白 1d9m
* 2G3s 2A

東4局 1本場(リーチ0) フーテンの中 11900 SG.super☆ -11900
30符 四飜ロン 平和 リーチ ドラ2
[1北]4m7m8m5P5p7p2s9s南北白中中
[2東]1m2m3m9m4p7p9p2s3s3s南西白
[3南]2m6m2p4p8p2s5s6s7s8s9s南発
[4西]2m5m5m6m6m9m1p8p1s3s6s西中
[表ドラ]6p [裏ドラ]8m
* 2G北 2d西 3G1s 3d南 4G4m 4d1p 1G7s 1d南 2G8s 2d南 3G東 3d発 4G6p 4d西
* 1G北 1d2s 2G9m 2d北 1N 1d4m 2G1s 2d3s 3G6m 3d東 4G3m 4d中 1N 1d白 2G2m
* 2D2m 3G4s 3d2m 4G東 4d9m 1C7m8m 1d7p 2G1p 2d白 3G4m 3d8p 4G8s 4d東 1G3m
* 1D3m 2G7s 2d4p 3G9p 3D9p 4G発 4D発 1G東 1D東 2G5m 2D5m 3G9p 3D9p 4G3p
* 4D3p 1G1s 1D1s 2G5P 2d1p 3G4s 3D4s 4G北 4D北 1G2p 1D2p 2G7p 2D7p 3G9m
* 3D9m 4G4m 4d1s 1G発 1D発 2G8m 2D8m 3G9p 3D9p 4G白 4D白 1G東 1D東 2G3p
* 2d9p 3G西 3D西 4G南 4D南 1G8m 1D8m 2G西 2D西 3G1p 3D1p 4G2p 4D2p 1G2s
* 1D2s 2G発 2D発 3G1p 3D1p 4G8p 4d3s 1G7m 1D7m 2G6p 2R 2d3p 3C2p4p 3d4m
* 4G7p 4D7p 1G5m 1D5m 2G2p 2D2p 3G8p 3D8p 4G4p 4D4p 1G3p 1D3p 2G5s 2D5s
* 3G7s 3D7s 4C6s8s 4d6p 1G4s 1D4s 2G8m 2D8m 3G5s 3D5s 4G5s 4D5s 1G3m 1D3m
* 2G7m 2D7m 3G中 3D中 4G9s 4D9s 2A

東4局 2本場(リーチ0) フーテンの中 19600 momomasa -19600
ハネ満貫ロン 平和 リーチ ドラ4
[1北]1m2m4m6m8m1p3p7p2s4s7s東東
[2東]2m4m4m8m2p3p6p7p1s2s南北白
[3南]2m3m5m6m1p5p9p1s3s3s5s白中
[4西]5m5m8m1p4p4p9p1s4s4s9s東中
[表ドラ]中 [裏ドラ]4m
* 2G3s 2d北 3G4m 3d白 4G9m 4d1p 1G北 1D北 2G2s 2D2s 3G7p 3d1p 4G南 4d9p
* 1G6p 1d1p 2G東 2d白 3G6s 3d中 4G南 4d1s 1G7s 1d3p 2G白 2D白 3G2s 3d3s
* 4G8s 4d東 1G2p 1D2p 2G7m 2d南 3G8s 3D8s 4G6s 4d9s 1G発 1D発 2G南 2D南
* 3G西 3D西 4G5s 4d8s 1G中 1d1m 2G3s 2D3s 3G西 3D西 4G中 4d8m 1G西 1D西
* 2G発 2D発 3G9s 3D9s 4G6m 4D6m 1G6s 1d7s 2G北 2D北 3G1m 3d9p 4G3p 4D3p
* 1G7s 1D7s 2G5P 2d2m 3G6s 3d5s 4G8p 4D8p 1G9s 1D9s 2G5P 2d東 3G北 3D北
* 4G6p 4D6p 1G7m 1d4s 2G4p 2R 2d2p 3G5s 3R 3D5s 4G7s 4d5s 1G3p 1d東 2G4p
* 2D4p 3G9m 3D9m 2A

---- 試合結果 ----
1位 フーテンの中 +46
2位 南無阿弥蛇仏 -4
3位 momomasa -13
4位 SG.super☆ -29
----- 122卓 終了 2012/06/09 20:58 -----

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

「ボストン美術館 日本美術の至宝」を観る。

20120609_104913

 『茶の本』を読んでからすっかり岡倉天心びいきになった。今日は岡倉天心が中国・日本美術部長を務めたボストン美術館所蔵の日本美術90点余りが展示されている「ボストン美術館 日本美術の至宝」を観に行ってきた。

20120609_090829_hdr

 東京国立博物館平成館特別展示室で3月20日から開催されていて、昨日で入場者数は50万人を超えたという。会期は明日6月10日まで。「混雑していて二大絵巻が見られなかった」と聞いていたので、開場直後に入ろうと、9時前に美術館に到着。しかし、すでに100人以上が列を作っていた。

20120609_092516_hdr

 開館は9時30分だが、列が長くなってきたので、平成館の前まで誘導された。

Boston001
 開館して、まず出迎えてくれたのが岡倉覚三(天心)像。平櫛田中作。

 そのあとは仏さまの絵が陳列されるが、先に、海を渡って、今回里帰りした二つの絵巻物を観に行った。

Boston002
 その一つが、吉備大臣入唐絵巻(平安時代 12世紀後半)。
 遣唐使の吉備真備。唐に着き、歓迎されと思ったら幽閉されてしまう。幽鬼がやってくるが、それは先に遣唐使として渡った安倍仲麻呂の霊だった。幽鬼の協力を得て、皇帝からの難題である『文選』を読み解き、さらに囲碁の名人に勝利(碁石を飲みこんでしまったらしい)して、無事、帰国。『文選』と囲碁を日本に伝えた、というストーリー。面白かった。

 もう一つが平治物語絵巻 三条殿夜討巻(鎌倉時代 13世紀後半)。
 藤原信頼と源義朝による後白河上皇の拉致と三条殿の焼き討ちの様子を描いている。NHK大河ドラマ『平清盛』で描かれている世界だけに、興味深かった。


 「アメリカ人を魅了した日本のわざ」に展示してあった名刀も興味深かった。刃文(焼き入れをすることにより生まれる刃縁の模様)は「互の目」「片落ち互の目」「丁子乱」など、いろいろあり、それを初めて見ることができた。


Boston004
 圧巻は松島図屏風(尾形光琳筆、江戸時代 18世紀前半)。
 荒磯に島を配した「松島図」。水平線の上にも荒波が。時空を超えた表現は、他の屏風絵を超えたセンスを感じた。

Boston003
 そして、龍の目玉がすごい、雲龍図(曽我蕭白筆 江戸時代 宝暦13<1763>年)。
 ボストン美術館に収められたときから、襖から剥がされた状態で保管されてきた巨大な龍。今回、修復作業により公開が可能となった。胴体を描いた襖絵もあったらしい。

 
 会場にはボストン美術館で日本美術のコレクションに力を尽くした、フェノロサ、ヒゲロー、岡倉天心について、紹介していた。その要約。

 フェノロサ。明治11年(1878)明治政府のお雇い外国人として来日。来日後ほどなくして日本美術に開眼。明治23年(1890)に帰国後は、ボストン美術館日本美術部長の職に就き、アメリカで日本美術を広めることに取り組んだという。フェノロサによる収集品は1,000点以上に及ぶ。

 ビゲロー。明治15年(1882)に来日し、フェノロサと共に日本美術の収集に情熱を傾けた。帰国後は長らくボストン美術館の理事を務めた。ビゲローによる収集品は約41,000点にのぼる。
 
 天心。東京大学でフェノロサに学んだ天心は、卒業後フェノロサとともに東京美術学校の設立に関わるほか、帝国博物館(現東京国立博物館)や日本美術院の創設にも携わった。明治37年(1904)にはボストン美術館に迎えられ、後に中国・日本美術部長として「アジアはひとつ」のスローガンのもと、東洋の美術品の体系的な収集に力を注いだ。

 今の日本。世界は小さくなり、インターネットなどのデジタルメディアは発達したが、日本の精神世界や文化を紹介する、天心、フェノロサのような熱い人物は残念ながら見当たらない。

20120609_104839_hdr
 11時前。入場制限で、30分待ち。

20120609_110245_hdr
 早めに鑑賞したので、博物館内のレストランもすいていた。ホテルオークラレストラン「ゆりの木」(03・5685・5125)。パンケーキ フレッシュフルーツ添え(950円)とレモンティー(セットにすると1380円)を頼んだ。 

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

藤原和博著『坂の上の坂』(ポプラ社)

Sakanouenosaka

坂の上の坂

 藤原和博著『坂の上の坂』(ポプラ社、2011年11月25日発行)を読んだ。

 藤原氏は「はじめに」でこの本を書いた狙いを語る。

 「坂の上にあるのは、『坂の上の雲』の時代のような、ぼんやりとした『雲』ではもはやないのではないか」「待ち構えているのは、実は『雲』ではなく、次の新たなる『坂』なのではないか」。
 「私は、『坂の上の坂』を上るには、そのための準備が、新たな心構えが必要な気がしてなりません」。
 「私たちは、過去に生きた世代とは、違う生き方を求められているということです」。

 「『坂の上の坂』世代では、人生は大きく二分されていくに違いない、と想像しています。これからやってくる『坂』の存在にいち早く気づいて準備を始め、50代から『上り坂』を歩む人と、残念ながら、ひたすら『下り坂』を歩む人です」
 「本書は、『坂の上の坂』を意識し、上り調子に坂を上り、これからの時代にふさわしい」 人生を歩むためには何を準備しておけばいいのかを、みなさんと共に準備するために生まれました」。

 「40代から50代のどこかで意識を転換できたなら、あとはうまくいくのではないか。私はそう考えています」。

 藤原氏は1955年東京生まれ。1985年東京大学卒業後、株式会社リクルート入社。1996年より同社フェローとなる。2003年より5年間、都内では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校校長を務める。

 杉並区立和田中学校校長時代に[よのなか]科という授業を推進し注目を集めた。
 
 全国[よのなか]科ネットワークのホームページによると――。
▼[よのなか]科とは?
 元 東京都杉並区立和田中学校校長の藤原和博氏が提唱している「学校で教えられる知識と実際の世の中との架け橋になる授業」のこと。教科書を使った受身の授業とは異なり、自分の身近な視点から世界の仕組み、世の中の仕組みなど、大人でも簡単に答えを出せないテーマ(「ハンバーガー1個から世界が見える」、「模擬子ども区議会」、「少年法の審判廷ロールプレイング」など経済・政治・現代社会の諸問題)を扱う。授業の特徴として藤原氏は以下の特徴を挙げている。

(1)ロールプレイやシミュレーションなどゲーム的手法によって子ども達の主体的な学びを創造する。
(2)大人も授業に参加することで、ともに学び合う力を付ける。
(3)カリキュラムの目的に沿ったゲストを迎え、生徒の思考回路を刺激し、ときに通常の授業では得られない種類の知的な感動を与える。

 その彼が、今度は、40代、50代に向けて、「坂の上の坂」の時代にどう生きるべきかを提言する。

 これは面白いのではないか、と思い、この本を手に取った。

 彼は自らの今の活動について次のように言っている。
 「40歳のとき、まだ幼かった3人の子どもを養う身ながら、リクルートを退職。新しい時代に向けて、サラリーマンではない新しい働き方を自ら実践しようと、個人と会社で対等なパートナー契約を結ぶフェローになります。成熟社会に向け、関心をを持っていた住宅、介護を中心とする医療、教育分野で新規事業を模索することが、私のミッションでした」。
 「そしてその延長上に待っていたのが、東京都では義務教育初の民間人校長就任でした。私は47歳で、東京都杉並区立和田中学校の校長になりました。5年後に退任してからは、和田中で成功した教育改革を全国に広めることができないか取り組みを進めていく一方、これからの個人はどのように生きていくことができるのか、生きていくべきなのか、大震災の被災地支援も合わせ、模索しています」。

 彼の中では教育改革と、「坂の上の坂」の生き方は、つながっているようだ。

 
 藤原氏は、1996年、40歳のときに18年間勤めたリクルートを退職し、「フェロー」という立場で仕事をすることになった。「フェローとは、いったん会社を辞め、改めて個人として会社と対等の契約を結び、共同事業をすることです。『客員社員』とも訳され、社会的な身分は自営業者、ということになります。権力や保障はありませんが、かわりに時間的な拘束から解き放たれます」。

 そのときの心境が、「定年後」にも参考になる。

 「これからは自分を強制する存在はなくなり、時間も完全にフリー。すべてを自分でコントロールすることが求められます。すべては自分次第。これこそが、私にはある種の恐怖に思えたのでした」。
 「もし、あなたが組織を離れることをちょっとでも頭に描いているのであれば、むしろ、会社を離れた自由さに、本当に耐えられるのかが問題です。サラリーマンは、この現実を知り、自由になる恐怖に打ち勝つための事前の対策を打っておいたほうがいい」。

 かといって組織にい続けるリスクもあるという。
 「企業の中では一般的に、偉くなればなるほど、本来の自分の仕事や、やるべき仕事、やりたい仕事から遠ざかっていくことになる。このことは結果として、大変なリスクを定年までに背負い込むことを意味します」。
 
 管理職になると、①接待や部下との同行営業②部下の査定や人事の問題③会議とその根回しに、自分の時間の6~7割が費やされるとし、藤原氏は、「接待、査定、会議の頭文字をとって『SSK』と呼んでいます」。

 「皮肉なことに、デキる人が出世してSSK比率が高まっていくと、本来の仕事をする時間がどんどん減っていきます。上手くなっていくのは、『会議の進め方』や『責任の逃れ方』ばかり、なんてことが起こりうる。こうして、下手をすると、見る影もないような仕事のできない人になっていくのです」。

 生き方を大きく変えざるを得ないのは、「日本がやがて成熟社会になる」から、と藤原氏は解説する。

 「成熟は、単に経済の成熟や高齢化を指すだけではありません」「これをやっていればいい、というみんなが追いかける一般解や目標には、あまり意味がなくなってくる。自分が何を追いかけたいのかが問われてくるのです。そうなれば、一人一人は間違いなく『考える』ことを求められるようになります。すなわち自分で考えること、『哲学』が必要になってくる」。

 「高度成長期には会社が成長し、ポストが増え、多くの人がこの流れに乗ることができました」「しかし、右肩上がりの『成長時代』が終わり、『成熟社会』がやってきて、その恩恵にあずかることができない人が増えることになります」「みんなで幸せになれる成功モデルは、もはやなくなった。しかし、それに代わるモデルは、誰も提示してはくれません」「もはや個人はそれぞれの価値観で、独自の幸せを追求していかないといけない」「人生の正解なんてない。自分で納得できる解――納得解を作り上げるしかないのです」。

 会社にいるときに、具体的にどんな準備をすればいいのだろうか。
 「『組織内自営業者』という考え方を意識してみてほしいのです」「組織内で自営業者のような存在になるためには、特化したスキルセットを持っていればいいということ」「組織内自営業者になろうという意識を持つと、会社ほど自分の能力が磨ける場所はない、ということに気づきます。給料をもらいながら、自分を鍛え上げてくれるのが会社です。企業は個人にとって、最高の修行先、つまりビジネススクールになるのです」。

 「企業内自営業を目指すときに重要なことは、会社と自分の『ベクトルの和』を最大にしよう、と心がけておくことです」。

 「報酬を極大化していく、という従来型のサラリーマン的な選択もあると思います。ただ、この選択をするのであれば、他の価値は一切捨てないといけません。個人のパワーを磨くことができないというリスクも引き受ける必要がある」。

 本書は後半で、組織的自営業者になるための具体的な方策を伝授する。

 「出世」という従来型のサラリーマンの価値観をどこかで捨てることができるのか。組織内で地位を向上していくことではなく、むしろ現場で力を発揮して自己実現を目指すと言っても、男社会では、それは「負け惜しみ」ととられないのか。

 坂の上の坂を上り切るには、他人の目や評価とは別の自分の価値観で生きるという強い覚悟が必要な気がする。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

もう少しで宿敵・ダントツゲンに九蓮宝燈をふるところだった(汗)

 危ない!宿敵・ダントツゲンに究極の役満、九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)を振り込むところだった(汗)。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

森村誠一著『老いる覚悟』『五十歳でも老人 八十歳でも青年』(ベスト新書)

Oirukakugo

50saidemo_rojin80saidemo_seinen

老いる覚悟、五十歳でも老人 八十歳でも青年

 森村誠一著『老いる覚悟』(2011年5月20日発行)、『五十歳でも老人 八十歳でも青年』(2012年3月20日)(ともにベスト新書)を読んだ。

 『老いる覚悟』のレビュー。

 森村氏は、人生を大きく3つの時期に区分する。

 第一期は仕込みの時代―学生時代。
 第二期は現役時代―社会に参画する時代。
 第三期がいわゆる老後、余生。

 「第一期から第二期へ、仕込みから現役へ移るときに、人生の方向づけをする必要がある。…昭和以前、人生のスタートラインに立つのは、この1回でよかった。ところが、現代は第三期の老後についても、決断する必要に迫られるようになったのである」。
 「二度目のスタートラインは一度目に比べて、両親、恩師、先輩のような支援者はいない。会社や組織の厚い傘の下から、自由の荒野へ大海にたったひとりでとび出すのである」。

 「定年後、第二の人生のスタートラインに立って、『これから自由にしなさい』といわれたとき、そこには、『何をしてもいい自由』と、『何をしなくてもいい自由』がある」「『何をしてもいい自由』とは、自分の夢を実現したり、新しいことに挑戦することである。会社、組織でのしがらみを捨てて、未知の分野に進む覚悟である」。
 「『何もしなくてもいい自由』とは『何をしてもいい自由』とちょうど正反対で、社会とかかわりを持たず一日中ひとりでテレビを見て暮らすような、本当に何もしないことである。夢を適えるでもなく、新しいことにも挑戦しない。日々をあるがままに過ごすことをいう」。

 「どっちを選んでもいいよといわれると、『何もしなくてもいい自由』を選ぶ人が多い」「会社、組織を退職した人、特に一流会社の、いい地位で定年を迎えた人は、『何もしなくてもいい自由』を選びがちである」。

 「老後のスタートラインに立ったとき、今度は、量より質になる。ここからは『クオリティオブライフ』が求められる」「質とは時間の遣い方に無駄がないということである」。
 「余生でもっとも覚悟しなければならないことは、時間を無駄にしないことである。これからの時間を、どのように有効に使うかを考えることである」。

 さて、具体的に時間をどのように使えばいいのか。森村氏はさまざまな提案をする。

 「余生とはいえ、無駄な時間などない。ではどうするか。日々の予定表を作ることを勧めたい」「自分で決めた『やらなければならないこと』が明確になると、日常生活に緊張やルールが生まれる」「予定表を作ることは。後半の人生をより充実したものにしてくれる」。

 「『年寄りの冷や水』は大いに浴びろというのが、わたしの持論である」「自分が設定した目標に向かって進めばいい。そしてできる限りのことをして無理だと判断したら、さっさとやめて次の目標を探せばいいのである」。

 「高齢者が新しいことをはじめるには何がいいかと聞かれたら、私は俳句を推薦する」「俳句は、歳をかさねたほうが上達が早い。凝縮の文学だからである。凝縮のためには、源資が多いほうがいい。源資は俳句を作るうえでの言葉や体験の貯金であるから、歳をかさねるとともに増えていくので、人生経験は多いほうがよい」「最近では俳句に写真を組み合わせたこの写真俳句を提唱している」。

 「人間は往々にして年齢を理由にして新しい挑戦をしない」「しかし、わたしは自由な、そして限られた余生だからこそ自分のやりたいこと、新しいことに挑戦すべきではないかと思う」。

 「未来の可能性に気づいていない人たちは、肉体が老いるとともに心も比例して老いていく。無限の可能性を追い求めていれば、肉体的には老いていくが、心は老け込まない」。

 「生涯現役でいく覚悟というのは、人間関係を絶やさないということに尽きる」。
 「自分は歳をとったな、年寄りになったな、と思った瞬間から老いの坂を転がりはじめる。これは止めることができる。もう一度、仕事だけでなく趣味でもいい。自分はまだまだできるな、と思い直すのである。すると、転落が止まる」。
 「生涯現役でいく覚悟ができている人間を区分してはならない」。
 「長寿化しつつある今日では、より一層現役時代に余生の備えをしておかなければならない」。


 『五十歳でも老人 八十歳でも青年』のレビュー。

 『老いる覚悟』で伝え切れなかった部分を詳しく論じており、説得力が格段に増している。

 第三期(老後、余生)については自分で路線決定しなければならないが、「その路線決定は60代に突入する前にしておくべきである」と森村氏は言う。「定年退職後に途方に暮れないよう、50代も後半に入ったら、その準備をはじめるのが賢明でである」。

 「これまでは、人脈や権力というものを会社のためにしか使ってこなかった。これを定年間近になったら、自分のために使ってしまう」「蓄積されているパワーやノウハウを、リタイアする者が余生のために利用すれば、強力なOBやOGとなって、かつての在郷軍人的な予備兵力として会社をバックアップできる」「定年になって、『はいさようなら、ご苦労様でした』と肩をポンと叩かれて、ぽいと押し出されて途方に暮れるより、その2年ぐらい前から強力なOB、OGとして会社ににらみをきかせる準備をしておくべきである」。

 森村氏はさらにリタイア後の人生を、4期に分けて考えることを提案する。
 60代 シニア年少
 70代 シニア年中
 80代 シニア年長
 90代以降 スーパーシニア

 「まず、60代は、まだ老人とはいえない感がある。・・・『シニア見習い』である」「リタイアしたばかりの60代前半の場合は、現役時代の尻尾を切り落とすことを忘れてはならない」「1社で定年まで勤めあげた人の場合、40年前後在籍したことになるが、なんらかの肩書きを持って退社することになる。中途入社であっても、それなりの業績をあげれば、『長』という尻尾を持っているはずである」「しかし、いったんリタイアしたら、その『長』を切り落とさなければならない。そうしないとシニア社会に入っていけない」。

 「60代くらいまでは、過去の栄光の余韻がある程度残っている。昔の仲間も、その多くがまだ元気である。ところが70代に入ると、その仲間たちが櫛の歯が欠けるようにいなくなり、人脈が細くなっていく」「こうした悪条件の克服が70代のテーマとなる」。
 「その第一は、新たな人脈の開拓である」「特に異性の存在は大きい。自分を取り巻く人脈に、異性がいるのといないのでは大きく違う」「同性とは価値観の異なる異性文化というものは、老後においてはことに大きな影響を及ぼす。それに触れることによって、こういう生き方があるのだ、あのような人生もあるのだと、新たな発見をする人が多い」。
 
 「80代に足を踏み入れたら、そろそろ身辺整理に入りたい」「身辺整理をすると、身軽になるというよりは、見通しがよくなる感じがする」「死後に骨肉の争いを起こさないためにも、遺言書をきちんと用意しておく」。

 「90代以上は、毎日感謝して生きることが大切であろう」「社会や他人との関わりや、それに対する配慮は80代までにきちんと行っているのだから、『ああ、まだ今日も生かされているな』と思って過ごすだけで十分である」。
 「90歳まで生きたらどんな死に方をしてもいいという悟りを開いた人が、スーパーオールドたりうる。なすべきことをしてスーパーオールドになったら、のたれ死にしようと、腹上死しようと、それも天寿である」。

 第5章「死ぬための準備と覚悟」は、森村氏自身が実践しているのではないか。とても説得力がある。
 「人生は移動である。空間だけでなく、時間も移動する。時空いずれの旅にも旅支度は必要である」。
 「手はじめは身辺整理。身近なところからはじめるのが原則である」「最初に処分すべきものは、自分にとって存在価値が少ないだけでなく、存在するだけで不都合、他人の迷惑になるもの。単なる不用品ではなく、配偶者や家族に見せたくない類のものを、まず処分する」。
 「整理に熱中しすぎると、整理をするために生きるヘボ将棋のようになってしまう」。

 「最近は、自分が死んだら散骨してくれという人もいる。本人はそれで満足かもしれないが、結果的に家族や子孫には何も残らない」「死を私物化している発想である」「人間は時系列でつながっている。後世の人間は、自分の先祖がどんな人だったのか知りたいものである。ところが散骨で遺体を“雲散霧消”してしまったら、故人の手がかりはなくなり、子孫は木の股から生まれたような存在になってしまう」「墓所は、生者と死者の交流するサロンである」「死を私物化するということは、歴史を切断するということでもある」。

 人生、老後をマクロで捉えられる、良い本だった。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

川嶋朗著 『医師が教える幸福な死に方』(角川SSC新書)

Ishigaoshieru_kofukunashinikata
医師が教える幸福な死に方

 川嶋朗著 『医師が教える幸福な死に方』(角川SSC新書、2012年3月25日発行)を読んだ。

 この本の狙いは「はじめに」に簡潔にまとまっている。

 「長生きをしたいのなら、これからの時代は一人ひとりが『自分の体については自分で責任をもって管理する』という意識を持たなければなりません。そうしなければ、社会の高齢化の急速な進行により、高齢者の医療費増加、介護の問題などがさらに深刻化し、医療は崩壊してしまうでしょう」。
 「私たちは、自分の寿命について考えることを先送りにし人任せにして、無自覚ですらあると言えなくもありません。その結果が『ただ長生きでいいや』につながり、昨今生じている医療現場におけるさまざまな歪みの一因になっているとも言えます」。

 いま、消費税増税が最大の政治課題になっているが、その背景には高齢化に伴う社会保障費の膨張がある。しかし、「一人ひとりが『自分の体については自分で責任をもって管理する』」ようになれば、社会保障費の膨張に一定の歯止めがかけられるのは間違いない。社会保障の問題は、本来はこうした国民一人ひとりの自覚の問題にまで踏み込まなければいけないのだろう。本書は、健康に生き、幸福に死ぬために我々が何をすればいいかを具体的に示してくれる。
 

 まず問題点から。
 「2010年時点での国民医療費は、37.5兆円まで膨れ上がっていますが、これは同年の国の税収41.5兆円に近い数字です。さらに15年後の2025年には52兆円に達すると、厚生労働省は試算しています」。
 「現在でも国民医療費総額の約半分は、65歳以上の医療費が占めていますから、今後、医療費が増大することは避けようのない現実です。さらに、一人あたり2300万円といわれる生涯医療費の半分は70歳以上になってから消費すると言われているのです」。
 「高齢者、そして私も含めたその予備軍である世代の人たちは、『医療費を減らすために自分たちができること』を考えるべきなのです」。

 消費税増税の議論の中で、「行政の無駄などを減らせ」とよく言われるが、「自分たちの医療費の使い方を見直そう」との呼びかけはあまり聞こえてこない。不健康な老後を送ることは、本人も家族も、そして国にとっても不幸なことなのだ。「医療費を減らすために自分たちができること」を見ていこう。

 「ただ単に、『死なせない医療』を受けて、『名ばかりの長寿』を喜んでいるという時代は終わりにしなければいけません。高齢化する社会の未来を明るいものにするためには、より実りのある『質の高い寿命』を全うすることが大切です」「言ってみれば、QOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)を保ち、QOD(クオリティ・オブ・デス=死の質)を高くして人生を終えることが大切なのです」。
 「『QOD』とは、超高齢社会をよりよく生きてほしいという願いをこめて、私が提唱するキーワードです。最期の瞬間まで、『本人の理想とする生き方をし、残された家族にも後悔の念を残さない死に方をする』ということです」。

 以下、QOL、QODを高めるためにすべきことを詳しく説明している。
 「たとえば、今60歳の人が、当面の寿命の目標を80歳までと定めれば、あと余命は20年です。さしあたって、健康診断を受けましょう。そして、今の健康状態に照らして、20年を元気で長生きするためには、何をするべきなのか、あるいは何をやめるべきなのかをリストアップします」。
 「自分の体の状態を相談でき、ただやみくもに投薬をすすめるのではなく、適切なアドバイスをしてくれる医者を見つけるべきです」。

 「日頃から、『死ぬまでにやっておくべきこと』をきちんと整理し、実行していくと、QOD(死の質)の高い死を迎えられます」「
 『やるべきこと』は『財産管理や遺産相続をどうするのか』『受けたい医療や介護、延命治療の要不要は?』『葬儀については?』『家族に言い残したい遺言は?』など、自分のためであると同時に、残された人々が後々困らないために、やっておかなければならないことが中心です」。

 「延命治療にはさまざまな方法がありますが、患者さん本人やその家族は、回復の見込みがないのに人工呼吸器や人工心臓、人工透析、輸血、水分・栄養補給、薬剤投与などで延命を図られること対しては総じて否定的です」。
 「人工呼吸器や人工透析など中断すればすぐ死に至る治療を、始めてしまってから中止するのは家族にとっても医者にとっても非常に重い決断となります」「ですから、患者さん本人がしかるべき書面などによってきちんと意思表示をし、家族や周囲の人に納得してもらった上で、かかりつけの医者などに事前によく相談しておくことが重要なのです」「いわゆる『事前指示書』、あるいは『リビング・ウィル(尊厳死宣言書)』によって意思表示するということです」。

 殆どの人は、なかなか自分の死を具体的に思い描けないのではないかと思うが、老いてから死ぬまでのプランニングはをしておけば「終わりよければすべてよし」になるのかもしれない。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

久しぶりの甘楽カントリークラブ

 2005年以来の甘楽カントリークラブ

 群馬では唯一、乗用カートがなく、歩きながらプレーした。名門ゴルフ場の風格があった。
 ところが、アコーディア・ゴルフ傘下に入り、カートで回る普通のゴルフ場になっていた。
 ちょっと残念。

 極端とも思える人員減らし(お迎え、マスター室の人が早朝はいなかった!)で、遅い進行を促す係の人もおらず、のろのろペースで待ち時間が多かった。

 もっともゴルフ場の状態はさすがにすばらしかった。

 6月2日の赤城国際カントリークラブと同じ、群馬の師匠Sさん、K先輩とラウンド。
 
 5月6日の伊香保カントリークラブでSさんと今年初めてラウンド。すっかり狂っていたゴルフを元に戻してもらった。群馬時代から教わっている師匠。だれよりも適切なアドバイスをしてくれる。

 それ以来、練習場に行くのをやめた。

 ゴルフ場のラウンドは出費がかさむが、ゴルフ場でないと上達しない技術がゴルフには多い。今、一番、課題にしているのが、滑るようなグリーン上にポトンと球を落として、ピンに寄せる技術。
 砲台グリーンと平らなグリーンでは対処法が違うし、ラフの状況、距離、傾斜によっても、打ち方を考えなければならない。そんな微妙な練習は、人工芝の打ちっ放し練習場ではできない。

 ティーイングラウンドに立って、まず考えてしまうのがミス。
 「当て」に行くと、ヒットが打てないのは野球と同じ。自分の運動神経を信じて、ゆっくりバックスイングし、しっかり捻転。そこから力を解放するように軽くスイングすると、ヘッドのスピードも速まり、遠くに飛ぶ。ティーショットの課題はほとんど、精神的なものだ。

 だとすれば、ゴルフ場を練習場にするのが一番だ。そしてそこに師匠がいれば万全だ。

 そんなわけで、ゴルフ練習場での練習はやめ、ボギーより多くを打つことが極めてまれなSさんとなるべくたくさんラウンドすることに決めた。

Img_0442
 そうは言っても、久しぶりのゴルフ。準備運動を兼ねて、打ちっ放し。

 さあ、あとは実戦練習だ。

Img_0443

 スタートはひどかった。ドライバーで3連続チョロ。うまく飛んだと思ったらOB。
 それでも2打目以降、冷静に対処。なんとかアウトはダボペース以下で回った。
 アウトの成績は+1+3+2+1+3∔2+2+0+2=+16で52。パット数は122232211。

 インはドライバーは打てるようになってきたが、グリーン周りで行ったり来たり。
 インの成績は0+3∔2+1+3∔2+2+2+3=+18で54。パット数は223021232。

 ほとんどグリーンの位置からでも練習と思い、あえてSWを使ったのだが、うまく寄せられなかった(一度、奇跡的なチップインがあったが)。

 師匠に聞いた。
 左足上がりのときはどうすればいいのか。
 フェースが上を向くのでショートになる可能性が高いから、ふだんSWならPW、9I持つ。
 
 左足下がりのときは?
 左足一本で立つような感じ(右脚は後ろに引く感じ)で打つ。

 ショートアプローチはボールを無理に上にあげようとしていた部分もあったが、左足体重、かぶせるような打ち方で転がすほうが確実かもしれない。


 師匠は、アプローチは家でも練習した方がいいという。人工芝を用意して、ふとんを前に置き、ふとんに向かって何度も打つ。
 う~む。地道な練習は必要なようだ。

 しかし、今のゴルフ練習場はコストパフォーマンスが悪すぎる。

 人工芝を買うか・・・。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

赤城国際カントリークラブ

 2006年11月以来の久しぶりの赤城国際カントリークラブ
 群馬の師匠Sさん、K先輩に群馬のAさんというメンバー。
 午前7時にはゴルフ場に到着。

Img_0001
 打ちっぱなしの練習の後――。

Img_0002
 パットの練習。
 傾斜よりも芝目の強いゴルフ場ということが練習で良くわかる。

Img_0003
 アプローチ練習場もあった。

Img_0004
 遠くに見えるのが鍋割山。その方向から強い芝目となる。
 先週はパットが好調だったが、今日はパットに大苦戦だった。

 しかし、なんとか集中力で、東コースでは、途中4回連続パー。45は切れると思ったが、9番で5オーバー。
 S師匠は絶対にボギーまで。せっかくパーを重ねても一気に貯金を吐き出してしまった感じだ。

 東コースの成績は+3+2+1+0+0+0+0+1+5=+12で48。パット数は332222234。

 S師匠から貴重なアドバイスを得た。ドライバーやアイアン。捻転をし、インからアウトに(10度くらい外に)打つ感じでスイングすると、距離も出て、方向性も定まるとのアドバイス。

 おかげで、アイアン、ドライバーはまずまずの調子だった。

 うまく打てなかったのがアプローチだ。

Img_0007
 南コース。前橋方向に打つ。

Img_0008
 今日の勝負どころはここだった。4番ミドル。360ヤード。ドライバーが当たり、なんと残り50ヤード。
 バンカー越えだが、うまくいけばバーディーと思ったのがいけなかった。
 なんと、というかやはりバンカーに入れてしまい、結局4オン3パットに。

 ここで気落ちし、そのまま終わってしまった感じだ。
 
 80ヤードくらいのショットはことごとくグリーンオーバー。100ヤード未満が、やはり課題であり、難易度が高いと改めて感じた。

 西コースの成績は+1+0+1+3+4+0+3+3+3=+18で54。合計102。パット数は222322123。

 S師匠にアドバイスをもらった。

 S師匠はどんな距離でもしっかり振っていて、それで距離はピタリ。

 クラブを短く持つとともに足をそろえて構えたりして、フルショットしてもそんなに距離がでない態勢で、しっかり打つ。
 バックスイングは左手主導で、ゆっくりと。右手主導だと自由がききすぎて、スイングが安定しない。

 短い距離はSWをパットのように打てばいい。

 次回もS師匠と回る。この夏、しっかりレベルアップしたい。

 ちなみにS師匠は赤城カントリークラブは苦手とのことだがそれでも41、38で79。
 お歳は70歳なのに、ボールに勢いがある。
 先日71で回り、もう少しでエイジシュート。「来年はエイジシュートを達成できそう」と話していた。

| | | Comments (0) | TrackBack (0)

« May 2012 | Main | July 2012 »