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町亞聖著『十八歳からの十年介護』(武田ランダムハウスジャパン)

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十八歳からの十年介護

 町亞聖著『十八歳からの十年介護』(武田ランダムハウスジャパン、2011年10月25日発行)を読んだ。

 本書によると、町亞聖さんは「1971年8月3日生まれ。埼玉県出身。子供の頃からアナウンサーに憧れ、立教大学を卒業後、1995年、日本テレビにアナウンサーとして入社。スポーツ、天気、クラッシック、ニュースなど様々な番組を経験」「その後、報道に活動の場を移し、アナウンサーだけでなく、記者、報道キャスターなども務めた。脳障害のため車いすの生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そしてその母と父をがんで亡くした経験から 医療を生涯のテーマに取材を続ける」「しゃべりのプロとしての意識を持ち、取材も出来る「伝え手」として経験を重ね、肩書きにとらわれず『自分で取材をして自分で作って自分の声で伝える』アナウンサーを目指す」「活動の幅を広げるために、2011年6月フリーへ転身」。

 この本は略歴にある「脳障害のため車いすの生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そしてその母と父をがんで亡くした経験」を綴ったものだ。

 第一章 私、十八歳。母、倒れる
 1990年1月。くも膜下出血になった町さんのお母さん。手術は成功したが、脳梗塞を併発。手術で一命をとりとめたものの、後遺症が残った。「言語障害、右半身付随、そして知能の低下。これから母は、重度の身体障害者として生きていくことになる」「母のサポートをするという、私の、そして家族の、新しい日々が始まった」。

 「母が倒れたことで、私にはまず弟の宗法と妹の亞夢の面倒を母代わりにみていかなくてはいけないという自覚が芽生えた」。

 「春から中学生になる亞夢」「中学三年生だった宗法」。
 「これからは母の分まで、亞夢と宗法のためにできるだけのことをしていこう。そう決意し、もちろん努力もしていたが、私自身もふたりのやさしさや強さに支えられていたのは間違いない」。

 お母さんはどんな人だったのだろう。
 「私にとって母は『お母さん』というよりも、『お姉ちゃん』と呼びたくなるような存在だった」「誰に対しても公平で、根本的に明るい。家族みんなを照らしてくれるような母のことが、父も私も宗法も亞夢も大好きだった」。
 「母が私を産んだのは二十一歳のときで、父は二十三歳だった」「『神田川』というかぐや姫のヒット曲があるが、まさにあの曲で歌われているような、四畳半一間の何もないアパートで暮らしていた」「その後も三人の子どもを抱え、家事とパートの仕事を両立させ、家族のために尽くしてきてくれた母」「私たち子どもたちが、ようやくそれぞれ手のかからない年齢になった矢先に、母は倒れてしまった」「まだ四十歳。第二の人生はこれからだったというのに……」。

 「右手、右脚はまったく動かなくなってしまった。放っておくと、内側に曲がって硬くなってしまうので、毎日のマッサージが欠かせない」「母は言葉を失った。『違う』『痛い』『嫌だ』という感覚的な言語は、発することができる。しかし、例えばスプーンを見せて、『これは何?』と聞いても、母には答えることができない」。

 「倒れてから4カ月後の1990年5月、母はリハビリ専門の病院に転院することになった」「その病院で母は、ベッドから車いすへの移り方、車いすの操作、トイレ、着替え、歯磨きなど、身のまわりの最低限のことが自分でできるようになるための訓練を受けた」「数ヵ月かけて身のまわりのことがひと通りできるようになると、今度は階段の上り下りまでできるようになった」。

 「浪人時代の私の生活は、起きている間は母のそばにいるか、勉強をしているかのふたつしかなかった」。

 「そして、ついに母の退院が決まった」「1991年2月、リハビリを終えて我が家へ帰ってきた」「倒れてからおよそ1年と1ヵ月」。
 「帰ってきた母には、まず自立してもらうことを第一に考えた」「自分でできることがひとつ増える度に、母は母親としての自覚を取り戻しつつあった」。

 「2月になり、ついに受験の時期が訪れた。…春には立教大学へ進むことが決まった」「言葉の話せない母は、泣いて喜んでくれた」。

 「晴れて大学生になったからといって、私には浮かれて遊んでいる時間はほとんどなかった」「でも失ったものよりも、もっと多くのものを母から得ることができた。母とは普通の親子よりも、貴重な時間をたくさん過ごすことができた」。

 このくだりを読んで、落合 恵子著『母に歌う子守唄~わたしの介護日誌』(朝日文庫)、『母に歌う子守唄 その後~わたしの介護日誌』(朝日文庫)を思い出した。
 お母さんを看取った後の彼女の感想。
 「それでも、元気だった頃の彼女とより、いまのほうがはるかに深く親密なコミュニケーションが成立しているように思えるのは、なぜなのだろう」。
 「母の介護を軸にして息せききって走り回っていた日々を、このうえなくいおおしく、このうえなく懐かしく思うわたしがいる」。

 「大学在学中に、母と一緒に障害者が交流する場に出かける機会も増えた」「そういう機会が増えると、ただ町を歩いているときにも、車いすの人や杖をついて歩いている人が多いことに、自然と気づくようにもなる」「そして、そういう人たちにとって、街や道や人がいかにやさしくないのかということも見えてくる」。

 「自分や家族が『健常』であれば、障害を抱える人の存在は目に映りにくいのかもしれない」「でも自分もいつか、いや明日にもそうなる可能性がある。『もし自分だったら』という想像力を働かせたなら、『他人事』で済ませることはできなくなるのではと思う」。

 「介護にしても、公的介護保険制度がスタートしたのは2000年であり、母が倒れた1990年はまだ何の制度もなかった」。

 「母の介護を通して痛感した、日本の福祉におけるさまざまな問題。それらを少しずつでも改善するためのきっかけを作り、よりよい福祉のために自分にできることで社会に貢献したい」「では自分にできることとは何か?」「その答えとして、私が出した結論は『伝えること』」。

 第二章 私、二十三歳。アナウンサーになる
 1995年、日本テレビにアナウンサーとして入社。
 アナウンサーになって2年目。「父と私と弟の収入が合算したうえで、父の名義で中古のマンションを購入することにした」「家の中には手すりやスロープなどはあえてつけなかった。なぜかというと、少しの段差でも、それを克服しようとする勇気が大切だと思うし、またその勇気が『一歩』外に出る勇気につながるからだ」「新しい家の形に慣れることも、母にとってはリハビリになる」。

 「新しい家で暮らし始めてからは洗濯や掃除、食器洗い、観葉植物への水やりなど、母ができる範囲の家事もやってもらうようになった」。

 「身体の使えなくなった機能にばかり気をとられるのではなく、使える機能を生かせるようにサポートする。そうすることで、ハンデをもつ人の生活の質は、かなり変わってくるのではないかと思う」。

 「どんな場合であっても『自分が一番大変だ』という考え方をしないように心がけていた。自分よりももっと大変な人、困難を抱えている人はたくさんいる。自分中心になり、そのことを忘れると、他人への思いやりもなくなってしまう」。

 「まだ大学生だった頃のことだが、母とふたりで障害をもっていながら絵を描いている男性の展覧会に出かけたことがあった。両手が不自由なその画家の男性は口に筆をくわえて見事な墨絵を描いていた。目の前で実際に絵を描く姿を見た母は、『すごいね、すごいね』と、ぽろぽろ涙を流していた」。

 これは星野富弘さん?
 
 「『私たちがいなければ』母は何にもできないのではなく、『私たちがいれば』何でもできるのだ」。

 「一番大きく、取り除くのが難しいのは、人の心の中にあるバリアだと私は思う」「障害があるから『普通じゃない』と決めつけるような意識の低さが、日本の福祉を停滞させている一因であるような気がする」。

 第三章 私、二十六歳。母、四十七歳。がんの告知
 「ひと通り診察が終わると、母から離れたところで先生は私に言った。『どうして、こんなに悪くなるまで放っておいたの?』」「そして何の心の準備もないままに、母が子宮子宮頸がんであることを告げられた。しかも末期」。

 「宗法は一瞬言葉につまったが、力強くこう言った。『人生は長さじゃないよ、深さだよ』」。

 「母は、私たちに素晴らしい贈り物をくれた。失ったものもあったが、私たちに起きた数々の出来事が、思慮深さや他者への思いやり、そして年齢には不相応なほどの寛容さを与えてくれた」。
 「母はまた、私たちに生きることの意味を考える機会を与えてくれている」。

 放射線治療後、退院。そして、「この年の秋、初めて母とふたりで箱根に一泊旅行にでかけた」。
 「車いすの人にとって、どんなことが不便なのか知ってもらうためにも、車いすの人もどんどん外に出たほうがいいと思う。最初は無関心な人でも、車いすの人の存在に気がついて、少しでも関心を示してくれたら、それが次の一歩につながる」。
 「植物には晴れの日も雨の日も必要だ」「きっと人間もそうなのだろう。つらい経験が人を強くさせるし、またやさしくもさせる」。

 「母はうまく会話はできなくなったが、言葉では語りきれない大切なことを私たちに伝えようとしている。見をもって生きることの大切さ、そして当たり前であることの素晴らしさを教えようとしてくれているのだ」。

 治療は抗がん剤治療に。しかし、それはお母さんの食欲を奪う。
 「本当にこれ以上、抗がん剤治療をする必要があるのだろうか」

 「間違っていない。もう母のためには、抗がん剤治療はいらない」。

 第四章 最期を迎えるための介護
 「私の固い決意に反して、父と宗法は母を在宅看護することをためらっていた。男はこういうときに、なんて意気地なしなのだろう。栄養剤を点滴するための手術を受けたのも、危険を冒してまで人工肛門にしたのも、すべては母を在宅で看護できるようにするためではないか」。
 「母の入院中、仕事以外の時間のほとんどを病院で過ごしたのは、母と一緒の時間を大切にしたいという気持ちももちろんあったが、在宅で看取る心の準備をし、そして看護のための具体的なノウハウを覚えるためだったのだ」。
 「埋めようのない大きな穴が私の心にあいて、その中を冷たい風が通り抜ける。母の明るい笑顔が、その心の穴をえぐるように突き刺さる」「私を支えてくれる存在が欲しかった」「最愛の人を失う無念さと哀しさ、言葉では言い表せない揺れ動く複雑な心境は、同じ体験をしている家族としか共有できない」。

 「家族だけでサポートできるなら、それが理想的だとは思うが、やはり限界はある。そういうときに、こうした訪問看護や出張入浴などのサービスも、誰もが気軽に利用できるようになるといい」。

 第五章 私、二十八歳。五十歳目前の母との別れ
 1999年の「11月9日17時21分、母は49歳という短い人生の幕を閉じた」。
 「私は母と過ごす時間のなかで、何度『感謝』という気持ちをもったことだろう。健康な身体に産んでくれたこと、弟と妹を産んでくれたこと、アナウンサーになれたこと、生きる意味を与えてくれたこと。私はただただ感謝を母に伝えたい」。
 「私たちの家族の絆を深めてくれたのも、母である」。

 第六章 私、三十四歳。父、五十六歳で母の元へ
 「18歳からの介護生活が終わったときに思ったことは、これからは自分のことだけを考えてもいいのだ、ということだった」。
 「母を失った哀しみはなかなか消えなかった。今も乗り越えたとは言い切れないかもしれない。それでもなんとか元気に頑張ってこられたのは、仕事があったからである」。


 町さんはこの後、「『生涯現役の伝え手』であるために、独立するには今しかない。そう決意し、2011年5月、16年お世話になった日本テレビを退職し、フリーのアナウンサーとして新たに活動を始めた」。
 「『医療』と『介護』という生涯のテーマと『伝え手』という天職」を町さんが得た経緯がよく分かった。
 これからの町さんの活躍に期待したい。

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