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十二代目市川團十郎著『團十郎の歌舞伎案内』 (PHP新書)

Danjuronokabukiannai

團十郎の歌舞伎案内

 江戸歌舞伎の豪快な荒事を代表した歌舞伎界のスーパースター、市川團十郎が2月3日に66歳で亡くなった。新しい歌舞伎座の初舞台になくてはならない存在だった。
 彼が歌舞伎のガイドブックを書いていることを知らなかった。 
 さっそく十二代目市川團十郎著『團十郎の歌舞伎案内』 (PHP新書、2008年4月30日発行)を読んだ。

 面白い!
 イチローが「プロ野球案内」を書いたら、きっととても面白いと思うのだ。スーパースターが歌舞伎の入門書を書くと、行間に、歌舞伎への気持ちがにじみ出て、歌舞伎そのものを楽しんでいるような興奮さえ覚える。

 「さて、平成19(2007)年9月、わたくしは青山学院大学文学部の日本文学科客員教授として、『歌舞伎の伝統と美学』というテーマの集中講義をするご縁をいただきました。その際にお話ししたことをベースに、歌舞伎をはじめとする日本の芸能について日々わたくしが考えたり調べたりしたことを、今回このように1冊にまとめることができました」というのがこの本が書かれた経緯だ。

 歌舞伎座さよなら公演「御名残四月大歌舞伎」で「歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜」で運よく團十郎の芝居を観ることができたこと、サントリー美術館で開催中の歌舞伎座新開場記念展『歌舞伎 江戸の芝居小屋』も観ることができたことで、書いてある内容がすぐに浮かんできて、あっと言う間に読めた。

 語り口もやわらかく、愛があり、團十郎の人柄がよくわかる。海老蔵のことをとても心配しているようだった。

 歴代團十郎の紹介が何より面白かった。
 「初代市川團十郎は万治3(1660)年に生まれます。出雲阿国の歌舞伎踊りから遊女歌舞伎、若衆歌舞伎を経て、より演劇的な野郎歌舞伎へと移り変わってきた時代です」。

 「團十郎はなかなか子宝に恵まれなかった。ところが成田山にお願いしたら生まれたので、たいへんに感謝しました」「このように初代團十郎はきわめて成田山との関係が深かったので、この時期から成田屋という屋号を使ったといわれております」。

 「初代團十郎は元禄17年(1704)年、40代半ばにして生島半六という役者に殺されてしまいました」「正式な披露の手続きを踏まずに、市川九蔵はひとり劇界に放り出されて、周囲の意見で二代目團十郎となりました」「二代目は血の滲むような努力をしたのだと思います。だからこそ『助六』にしても『矢の根』にしても二代目のつくったものは名作となって、のちの歌舞伎十八番のもととなったのでしょう」「初代は割合に豪快な芸風ですけれども、二代目はそれに巧みな話術が加わっていきます」。

 「四代目は細面。実悪の役柄をよくやっていたようです。実悪とは国家転覆をはかるスケールの大きな悪役ですね。荒事の根本である勧善懲悪の正義の人のイメージとはちょっと違ったタイプの團十郎だったようです」。
 「ちょうどこの時代、劇場機構も発展します。回り舞台が完成して、かなり現代の歌舞伎に近いものとなり、狂言の構成にも影響を及ぼしました」「芝居に求められるものが変わってきた時代、そこで四代目は芝居研究会をつくります。『修行講』と呼ばれました」。

 「七代目團十郎はなんといいましても市川家の中興の祖です」「七代目が活躍したのは文化文政時代(1804~29)。江戸の文化の爛熟期でした。この七代目は新しいものをどんどん芝居に取り入れて、芸風を広げていきました」「七代目が歌舞伎の舞台に能を取り入れた」「能の『安宅』を歌舞伎にしたのが、ご存じ『勧進帳』」「忘れてならないのが『歌舞伎十八番』を制定したことです」。
 「天保の改革で江戸三座が猿若町に移転し、芝居をとりまく規制も厳しくなったころ、七代目はその贅沢ぶりを咎められ、天保13(1842)年に江戸十里四方追放を命じられました」。
 「七代目はたいへん俳句が上手だった。旅興業にもこの俳句で培った人脈をフルに活用しております」。

 「七代目は正妻とお妾さんたち全員を一つ屋根の下に住まわせておりました。いちばん最後のお妾さんだった、ためさんとのあいだに生まれたのが、のちの九代目團十郎です」。
 「当時の江戸歌舞伎といえば、見た目が華やかでおもしろければ物語の時代背景なんて無視していた。それが維新を迎え、とくに知識人のあいだに、できるだけ真実に近いものを、歴史は歴史としてきちんとろらえるべきだという思想が広まってきました」「一方で西洋ではパトロンが演劇をバックアップして、一国の文化程度の高さを示してきた。それをつぶさに見てきた維新の重鎮たちが、日本が外国と対等に渡り合うためにも、日本の文化の高さをもっとアピールしなければならないと考えた」「その手始めとして歌舞伎にスポットが当たるわけです」。
 「まず劇場が変わっていきました。守田勘弥はこれまで江戸三座のあった猿若町から、いまの築地あたりに劇場を移転させます。中央区の現在の新富町に新富座という劇場をつくるんです」。
 「新聞記者として名をなした福地桜痴(源一郎)が、のちに木挽町に歌舞伎座を建てたのも、大きな構想のなかの一つであったといえる、と思います」。
 「もともと歌舞伎は、椅子に縛りつけられるように座りつづけて見る芸能じゃないんですね。好き勝手に見たいときに見る。つまらなければ見ないで飲み食いする。芝居小屋や芝居茶屋で1日中過ごす。ご贔屓が出てきたら見る……そういう自由な楽しみ方から『芸術鑑賞』へと変わっていきました」。
 「芝居の内容も変わってきます。ひと言でいえば、『真実を真実として見せる』という方向へ。それがはたして歌舞伎にとってよいものかどうか。ウソがほんとうに見えて、ほんとうがウソに見える――それが歌舞伎の世界観なんですけれどね」。
 「その九代目も晩年には、歌舞伎のいわゆる古典の狂言へと回帰していきます」。

 九代目の記述あたりに現代歌舞伎の置かれた、ある意味難しい状況が見え隠れする。

 「九代目には男の子が授からず、娘が二人おりました。そこで長女の翠扇にお婿さんをもらった。これが市川三升、没後に十代目團十郎を追贈されます。このお婿さん、役者になる前はなんと銀行マンでした」。
 「十代目に子がなかったため、七代目松本幸四郎の家から市川家へ長男を養子にもらいました」「いまから思うと、父は團十郎という名前に対して気負いすぎていたのかもしれない」。
 「父が生きていたのは、わたくしが高校生のころまで。父にしてみれば、二十代になったら二十代の、三十代ならば三十代の息子に教えたいことがあったのではないかと思います」。

 さて、これからの團十郎はどうなるのだろうか。
 「わたしのなかには相矛盾した考え方があるんです。たしかに『おまえ、それは市川家の格じゃないよ』といいたい部分もございます。でも一方で『とにかくやるだけやってみろ。それから文句をいわれたほうがいい』と思うんです」「いや、闘わなくちゃいけないんですよ。オスというものはどんな生物も、これまで闘って家族や自分のテリトリーを守ってきた。親子であっても、子どもがある程度成人したらオスどうしは闘わなくちゃいけない」。
 「わが家でも食卓で芝居の話が出ることがよくありました。『違うよ』『いや、そんなことはない』なんて、夜中の2時、3時まで倅と飲み明かしたこともある。わたくしが病気をしてからは倅も遠慮しているのか、近ごろはしておりません」。

 十二代目團十郎の思いを、海老蔵がしっかり受けとめて、十三代目をやり遂げてほしい。

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