村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)
村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013年4月15日発行)を読んだ。
「村上春樹のあの本、読んだ」としか言えない長いタイトルの本。
小説や映画は、詳しくレビューするとネタバレするので、あまり感想を書かないが、20世紀に読んだ「ノルウェイの森」上下は、どんな話だったのかさえ、まったく思い出せない。せめて、思い出すきっかけとなるよう、最小限のコメントを書いておこう。
地縁、血縁、そして会社との縁も薄くなりつつある現代。
友達や恋人、家族とのつながりが何よりも重んじられる一方、生涯一人で暮らす人も増えている。
そんな時代に、「突然親しい友人グループから排除される主人公」というあらすじに、興味を持った。
家族がいても、友だちがたくさんいても、孤独を感じることが多い現代人。
facebookの重要な機能は、日々の何気ないことを記録し、それに「いいね!」をしてもらうことで、記憶を共有うしてもらうことだと思う。記憶の共有と言う友人や家族の重要な機能を補ってくれる擬似的なつながり空間。
しかし、そんな上っ面だけの記憶の共有ではなく、ともに苦しみ、喜ぶ体験こそが本当のつながりを生むのだと思う。
きれいごとでは済まない共有体験も必要だ。
その意味で、主人公は、排除された理由を明らかにする旅が必要だったのだと思う。
しかし…。
小説のテーマ設定のために、親しいグループから排除されるという状況をつくらなければならなかったのは分かるが、そんな形で自分を排除するグループにしがみつく必要はないし、その場で排除された理由さえ、勇気をもってその場で確かめておけば、苦しむこともなかったのではとも思えてしまう。
村上春樹の文章のうまさに、思わず、引き込まれ、感情移入して読み続け、いろいろな考えと感情が湧き起ったが、「満たされた」読後感ではなかった。
隠された大事なテーマがきっとあり、それを分からずに読み終えてしまったのではないかという不安が残る。
「つながり」「孤独」以上のテーマ。
愛とか、憎しみとか、もっと濃いテーマが本当は隠されていたのではないか――。
でも、そういうことを描かない小説家が村上春樹だったような気も――。
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