金春円満井会 特別公演/観世清和、内田樹著『能はこんなに面白い!』(小学館)
高校時代に授業の一環として観劇した以来、2回目となる能を観た。
国立能楽堂(東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1、03・3423・1331)での「金春円満井会 特別公演」だ。演目と主な出演者は以下のとおり。
能「伯母捨・古式」金春安明
狂言「福の神」大藏彌太郎
能「石橋」金春穂高・金春飛翔
能「伯母捨・古式」
陸奥信夫(現福島市北部)の某一行(ワキ・ワキツレ)が、都より北陸路を経て長野県善光寺に産経の後、月見の名所、伯母捨山に着く。月の出を待ち焦がれる一行の前に、どこからともなく一人の老女(前シテ)が現れ、言葉を掛ける。そして『古今和歌集』の歌「わが心慰めかねつ更科や伯母捨山に照る月を見て」を口ずさみ、そこにある桂の木の下に遺棄された古人の悲劇と執心の闇を晴らしたいとも述べて姿を消す――。
2時間以上の大作だった。
笛の音、太鼓の音、地謡の響き渡る声が、伯母捨山の月明かりの寂しい情景を浮かび上がらせる。白装束の老女の霊(後シテ)が昔を偲ぶ舞を舞うが、夜明けと共に月光も薄れ、月見の客も去って、老女の霊はまたも伯母捨山に一人残される、という物悲しいエンディング。一瞬の静寂に、解決されない永遠の時間を感じた。
30分の休憩後、狂言「福の神」と能「石橋・連獅子」という正月を前に、とてもめでたい演目を楽しんだ。
狂言「福の神」
年籠もりのため、二人の男(アド)が福天に詣で、豆をまいて「福は内」と囃すと、高らかに笑いながら福の神(シテ)が現れ、神酒を所望した後、乞われて富貴の道を説き、謡い舞う――。
能「石橋・連獅子」
渡天の志しを抱いて中国清涼山に至った寂照法師(ワキ)は、文殊の浄土との間にある石橋の彼岸に、親子の獅子(シテ白頭・ツレ赤頭)が舞い戯れるのを見る――。
高校時代に初めて能を観に行ったときは、あまりの動きの遅さに辟易。眠りはしなかったが、隣の友人と3桁の数字を当て合うゲームをしながら、退屈を凌いだ記憶がある。
それ以来、能を観ようなどと思いもしなかったが、シテ方金春流八十世宗家の金春安明氏の奥様が、高校の4年先輩である金春寿美子さん(同期の友人のお姉さま)であることを知り、一度は観劇をしなければと思っていた。
今回、高校の友人に誘われ、40年ぶりに能を観たのだが、その直前に勉強のために読んだ観世清和、内田樹著『能はこんなに面白い!』(小学館、2013年9月18日発行)が分かりやすく、面白く、今回は能を「感じる」ことができた。
最近始めた、茶道にも通じる部分があり、「次は『翁』を観てみたい」などと思った。ちょっとはまったかもしれない。
『能はこんなに面白い!』は合気道7段で、能も20年にわたり学んでいるという内田樹氏の大胆な「トンデモ解釈」(内田氏あとがき)と心優しい観世清和氏の解説、そして二人の対談が大変面白く、「能楽を観たことのない人、能楽堂に足を運んだことがない人」(同)の一人である私の心に突き刺さった一冊である。
能とは何かさえ、分かっていなかったのだということを、まず、観世、内田両氏の対談で理解した。
観世 世阿弥のやさしさみたいなものをいつも感じながら稽古をし、舞台で演じています。世阿弥のやさしさというのは、非業の死を遂げた人たちをもう1回、再生して蘇らせ引き上げるもの、能が扱っているものは、根本はすごく素朴な世界を表していると思う。
内田 能の根本は「供養だと思います。能が描くのはその社会で最も弱い人間です。殺された者、病んでいる者、深く傷つけられた者、周辺に排除された者たちを選択的に描いています。…『土蜘蛛』(源頼光の病床に現れた土蜘蛛の精の退治を描く)も、土蜘蛛を斬り伏せた頼光の側ではなく、殺された土蜘蛛を主人公にして、その恨みのたけを語らせる。
時の権力者が愛した能は、どちらかといえば強者の芸術というふうに、まったく勘違いしていた。平成の世、再び、弱者が世に溢れ、大震災で非業の死をとげた人たちの記憶が薄らぐことのないいまこそ、能は見直されるべき芸術ではないか、と思った。
観世氏の解説で、能の世界の面白さが一つひとつ分かってきた。
「舞台にはもう二人、『後見』と呼ばれる者が、舞台向かって左奥に控えております。じっと座って、時折シテのそばに進み、装束の乱れを直したり、あるいは舞の中でシテが手から放した小道具を、邪魔にならないように片付けたり…こうした動きを見ていると、後見は黒子であり、“縁の下の力持ち”のような存在に見えます。しかし、決してそのような補佐役ではありません」「実はその日、その舞台で行われることのすべてに責任を持ち、その一曲を無事終わらせることを任務とし、総監督を勤めるのが、この後見なのです」「もしシテが豚以上で倒れるといった万一のことがあれば、後見は即座に立ち上がって、中断したところから後を引き継ぎ、平然とシテの代役を勤めて無事一曲を終わらせることもいたします」「いったん始まった能に、中止があってはならない。その覚悟と備えを持った演劇が能なのです」
「もともと能は、神を招き、神にみていただく素朴な舞いが、その源流の一つとなっています」「仏教の修正会、修二会の空間に、そして少し遅れて勧進の空間に、猿楽が入りました。それが猿楽を大きく変えることになります」「能は、貴族政権に代わって勃興した武士階級の美学に出会い、そこから、洗練に洗練を重ねた能へと発展していくことになります」
「複式夢幻能のどれにも解決はありません。ただ、彼らは、無念を語り、生前の姿で舞い、そして回向を頼んで消えてゆくだけです。戻るところは、また、苦しい冥界です」
「具象的なものを徹底して捨て去ることで、能は、舞台上に純粋な情念の世界を表出することを可能にしました」
「能では、舞台に向けてシテ方やワキ方、地謡、囃子方などが集まってリハーサルを繰り返し、きれいに揃えていよいよ当日の舞台に臨む、ということをしません」「合わせようという配慮はないのです。それぞれが表現をぶつけ合う、そこから一つの新たな世界が創造されると考えるからです」「微妙にズレながら、それが味となり、表現の豊かな奥行きとなる、それが能という演劇です」
内田樹氏の「武道家の能楽稽古」も、興味深かった。
「もっとも適切な身体運用は、脳が四肢になすべき運動を指令した結果達成されるものではなく、『それ以外にありえない』と思われる動きを身体そのものが自発的に遂行することで達成される」
「稽古を続けていると、いつのまにか『そんなことが自分にできるとは思ってもいなかったこと』ができるようになる」
「能舞台は『存在するはずのないもの』たちこそが正当な居住者であり、存在するものは(演者たちも見所も含めて)そこに『トランジット』としてしか滞留することが許されない、逆立ちした世界なのである」
今年は観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年という節目の年だという。これだけの時間、続いてきた能という伝統芸能。はかないものたちを思いやる日本人の心を理解するうえでも、能に関心を持っていきたい。
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