年末年始を箱根で過ごす(7)箱根神社
箱根美術館から強羅駅、強羅駅から小涌谷駅へ向かい、元箱根港行きのバスで、芦ノ湖に向かった。一富士二鷹三茄子。めでたい富士の写真を撮ろうと思って芦ノ湖に向かったのだが、バスは途中で箱根神社に行く車の渋滞に巻き込まれた。
バスはなかなか進まない。途中で降りて歩いていく人が続出した。
渋滞に巻き込まれているうちに芦ノ湖の湖畔に鎮座する箱根神社にどうしても初詣でをしたくなった。
鳥居近くは、駐車場の空きを待つ車で長い列。
バス停から湖畔を行けば10分程度で神社と聞いていたが――。
参拝の長い列ができていた。12時54分。
13時4分。
ここから、“入場制限”。5人ずつ横に並んで少しずつ石段を上る。13時19分。
13時34分。
石段の上も長い列だった。13時40分。
14時。並び始めてから1時間以上。
14時10分、ようやく参拝できた。おじいさん、おばあさん、中年、若人の幸せを祈った。
ホームページによると、箱根神社の由緒は次のとおり。
箱根神社は、古来、関東総鎮守箱根大権現と尊崇されてきた名社で、交通安全・心願成就・開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。
平安朝初期に箱根路が開通しますと、往来の旅人は当神社に道中安全を祈りました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えました。
近世、官道としての東海道が整備され箱根宿や関所が設けられますと、東西交通の要(交通安全祈願所)として当神社の崇敬は益々盛んになり、庶民信仰の聖地へと変貌しました。
こうして天下の険、箱根山を駕籠で往来する時代から、やがて自動車に変わる近代日本へと移行しますが、その明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治6年明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、大正・昭和の現代に至るまで各皇族方の参拝は相次いで行われました。最近では、昭和55年、昭和天皇・皇后両陛下の御参拝につづいて翌56年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。また、民間も政財界人の参拝や年間2千万人を越える内外の観光客を迎えて、御社頭は益々殷賑を加えているの箱根大神の御神威によるものであります。
隣りの九頭龍神社新宮にもお参りした。
ホームページによると、九頭龍神社新宮の由緒は次のとおり。
当神社は、龍神湖水の祭に因んで建立された新宮であります。芦ノ湖の湖心近く御鎮座されている本宮より、御分霊を奉遷し、鎮祭されました。
この地は、古くから湖水祭・庭上の儀が執り行われてきた祭場でありますが、これを継承発展するとともに、お詣りしやすいようにと願い、平成庚辰の年に建立されたものであります。
この湖水祭は、奈良時代の天平宝字元年(七五七年)、萬巻上人が湖に棲む『九頭の毒龍』を調伏し、湖の主・龍神として鎮斎されたのに始まります。
爾来、連綿として龍神湖水の祭が継承され、執り行われていますが、これは、箱根神社創建の由来を物語る大切な祭典(八月一日の例祭)の宵宮祭として行われております。
祭典は、まず神前に御供 ごく(三升三合三勺の赤飯)と神酒を献じて祝詞を奏し、神楽を舞い、祈願をこめたのち、御供を唐櫃に納めて捧持し、行列を整えて湖畔へと向います。
岸辺で小舟にのりかえ、御供船、楽船、お伴船の順で進発しますが、しかし箱根神社湖上の大鳥居前から先は、宮司が唯一人ゆく御供船のみが湖心に漕ぎ出してゆき、神秘の神事(御供の献納)を行う一社伝来の特殊神事であります。
寒かった。
芦ノ湖で富士山を撮影したが、頂上を覆う雲が動かなかった。右手が箱根神社の鳥居。
成川美術館入り口前のバス停から、箱根湯本、小田原行のバスに乗車。15時7分。
初詣でもでき、充実した箱根での年末年始だった。
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