斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年9月発行)を遅まきながら読んだ。
「おわりに」から紹介する。
「マルクス主義で脱成長なんて正気か−−。そういう批判の矢が四方八方から飛んでくることを覚悟のうえで、本書の執筆は始まった」「それでも、この本を書かずにはいられなかった」
「私たちは資本主義の生活にどっぷりつかって、それに慣れ切ってしまっている。本書で掲げられた理念や内容には、大枠で賛同してくれても、システムの転換というあまりにも大きな課題を前になにをしていいかわからず、途方に暮れてしまう人が多いだろう」
初めから読後の感想を著者に予想され、それが当たっているので、先に進めるのが難しいのだが、地球温暖化問題への取り組みは一筋縄ではいかないこと、そして資本主義の「行き過ぎ」の部分は「行き過ぎ」として是正を考えた方がいいのではないか、と強く思った。不賛成の部分もあるが、全面賛成でなければ、本が読めないわけではない。とても勉強になる本であった。
註も含め、365ページもある本について、正確に伝えることは難しいが、まず「地球温暖化問題への取り組みは一筋縄ではいかない」という点。
「科学者たちの警告を思い出してほしい。2030年には二酸化炭素排出量を半減させ、2050年までにゼロにしなくてはならない。つまり、今後10年から20年のうちに、気候変動を止められるだけの『十分な絶対的デカップリング』が可能かどうかが、問題なのだ」
「なぜ不可能なのか。デカップリングには、単純かつ強固なジレンマがつきまとうからだ。経済成長が順調であればあるほど、経済活動の規模が大きくなる。それに伴って資源消費量が増大するため、二酸化炭素排出量の削減が困難になっていくというジレンマだ」
「先進国での『見かけ上の』デカップリングは、負の部分(この場合は、経済活動に伴う二酸化炭素排出)をどこか外部に転嫁することに負っている。OECD加盟国のデカップリングは技術革新だけによるものではなく、この30年間で、国内で消費する製品や食料の生産を、グローバル・サウスに転嫁したことの結果なのだ」
表向き、二酸化炭素を減らすための製品開発もあまり効果的ではない。例えば、クルマを「電気自動車に代えたところで、二酸化炭素排出量は大して減らない。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ。以上の考察からもわかるように、グリーン技術は、その生産過程にまで目を向けると、それほどグリーンではない」
なるほど、とうなずいた。
そして、著者は「無限に利潤を追求し続ける資本主義では、自然の循環の速度に合わせた生産は不可能」とし、「脱成長コミュニズム」を提唱する。
「資本主義の第一目的は価値増殖なのだ。だから究極的には、売れればなんだってかまわない。つまり、『使用価値』(有用性)や商品の質、環境負荷はどうでもいい。また、一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい」
これに対して「コミュニズムは生産の目的を大転換する。生産の目的を商品としての『価値』の増大ではなく、『使用価値』にして、生産を社会的な計画のもとに置くのだ」
「使用価値経済への転換によって、生産のダイナミクスは大きく変わる。金儲けのためだけの、意味のない仕事を大幅に減らすからである」。
その例として著者は「マーケティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される」
この例示については反発する人が多いのではないか。ある面、表現、文化、コミュニケーションの分野でもあり、これらの基本的なものが「禁止される」というのは穏当ではない。
しかし、先に行こう。
次が、脱成長コミュニズムの核になる考え方のようだ。
「使用価値」に重きを置きつつ、労働時間を短縮するために、開放的技術を導入していこう。だが、そのような『働き方改革』を実行するためには、労働者たちが生産における意思決定権を握る必要がある。それが、ピケティも要求している『社会的所有』である。『社会的所有』によって、生産手段を〈コモン〉として民主的に管理するのだ。つまり、生産をする際にどのような技術を開発し、どういった使い方をするのかについて、より開かれた形での民主的な話し合いによって、決めようとするのである」
これは言うは易く行うは難し、という気もする。著者も「なにを、どれだけ、どうやって生産するかについて、民主的に意思決定を行うことを目指す。当然、意見が違うこともあるだろう。強制的な力のない状態での意見調整には時間がかかる。『社会的所有』がもたらす決定的な変化は、意思決定の減速なのである。
強制力のないところでの意思決定は本当に大変だ。構成員が優秀で、しかも互いに信頼し合ってないとなかなか前に進まない気がする。具体例としてバルセロナの試みが紹介されるが、ハードルは相当高い。
また、次の下りは二つ目の賛成できない点だ。
「脱成長コミュニズムが目指す生産過程の民主化は、社会全体の生産も変えていく。例えば新技術が特許によって守られて、製薬会社やGAFAのような一部の企業にだけ莫大な利潤をもたらす知的財産権やプラットフォームの独占は禁止される」
製薬会社やGAFAのビジネスは、血の滲むような努力のなかで生まれたもの。電力事業や通信事業などの独占とは性格が異なる。彼らの努力が「禁止され」、報われないのなら、そもそも新しいITサービスや医薬品は生まれないのではないか。
そして、「一般に、機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門を、『労働集約型産業』と呼ぶ。ケア労働などは、その典型である。脱成長コミュニズムは、この労働集約型産業を重視する社会に転換する」
これは良い提案と思うが、介護保険制度の中で介護などの報酬は人為的に決められる。制度と絡むので、これもハードルが高いと感じる。
「脱成長コミュニズム」については議論は多そうだが、資本主義の「行き過ぎ」については的を得ていると思う。
おわりにで、著者は「ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、『3.5%』の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる」という。「資本主義と気候変動の問題に本気で関心をもち、熱心なコミットメントをしてくれる人々を3.5%集めるのは、なんだかできそうな気がしてこないだろうか」
広告やGAFAの知的財産権をとやかくいうのは違う感じがするが、「晩期マルクスの『レンズ』を通して」、資本主義の行き過ぎを意識し、行動を変えることは今後、進むかもしれない。
いろいろ議論がありそうな本書だが、間違いなく世の中に一石は投じたと思う。
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