起死回生のツモ、大逆転
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6月19日夜、東京・新宿の花園神社境内の特設紫テントで演じられた新宿梁山泊の「下谷万年町物語」を観た。
新宿梁山泊の創設に関わり、看板役者であるとともに代表の金守珍(キム・スジン)さんの右腕であった六平直政(むさか・なおまさ)さんが「30年ぶりの出演する」と聞いて、もうそんなに出演していなかったのか、と驚いた。テレビで活躍する六平直政さんだが、私にとっては、いつでも「新宿梁山泊の六平直政さん」だった。その六平さんが舞台に立ってくれたのが何よりも嬉しかった。ものすごい存在感だった。
役者の汗や表情を間近で観られる桟敷自由席の一番前に陣取った。目の前が池のセット。なんども水しぶきを浴びるが、用意されたビニールで身を守る。遊園地のような楽しさだ。
チラシによると、
1981年、唐十郎×蜷川幸雄×李麗仙×渡辺謙のタッグで西武劇場(現PARCO劇場)にて初演された幻想超大作に、新宿梁山泊が挑む!
という作品だ。
唐十郎が生まれ育った街−−男娼の巣窟〈下谷万年町〉。
長屋にタンゴが鳴り響くと、何十人もの”オカマ屋さん”たちが歌い踊る。
町に生きる少年・文ちゃん、オカマの”イロ”・洋一、池の中から現れる男装の女優・キティ。
敗戦直後の猥雑さの中、底辺に生きる人間たちのたくましさ、そして夢と希望と試練−−
哀しきノスタルジアにのせて、新宿・花園神社に〈下谷万年町〉の風が吹く!
唐十郎の芝居は会社に入ったばかり、まだ関西にいた頃に下鴨神社のテントで観た。新二都物語だったか。唐十郎が役者として登場した時の異様な盛り上がりが忘れられない。
唐十郎が主宰する状況劇場にいた金守珍、六平直政両氏が1987年6月に立ち上げたのが新宿梁山泊だ。
六平さんとは実はテニスのサークルで出会った。文化人類学者の山口昌男さんに誘われて「テニス山口組」に参加させてもらったら六平さんがいて、宿命のライバルに(笑)。彼が唐十郎さんの流れを継ぐ役者とはまったく知らなかった。なんどか観劇をするうちにすっかりはまってしまった。
1980年代。第三舞台、夢の遊眠舎、遊◉機械/全自動シアターなどもよく観た。小演劇花盛りの時代だったが、その中でも状況劇場の流れを継ぎ、芝居の流れやセリフはよくわからないのだが(笑)、骨があってロマンがあり右脳で感じる芝居をする新宿梁山泊が好きだった。公演後は、必ず酒盛りがあり、混ぜてもらった。
そんななかで、「日経イメージ気象観測」という、日経データバンク局が発行する媒体(浅田彰編集長のクリエーターの目を通して時代を見る媒体)で、新宿梁山泊の核となる3人(演出家の金守珍、戯曲家の鄭義信=チョン・ウィシン、役者の六平直政)にインタビューする機会を得た。季刊の91年1月号なので、取材は90年末だと思う。
六平さんが30年ぶりに梁山泊の舞台に出演したが、ちょうどインタビューしたのもおよそ30年前。昔を思い出すためにインタビューを再構成して紹介する。
まず、六平さんに「どうして役者になったのですか」と聞く。
六平「おれは芝居なんか大嫌いだった。女のやるものだと思っていた。でも唐さんの芝居だけは見ていたんですよ。唐十郎は才能あるなと思っていた。ちょうどそのころ大学院をけんかして1年で辞めて空白の時間があった。その時に朝日新聞に小さく『状況劇場スタッフ・役者募集』とあったんです。申し込んだら三次試験まで通って」
金「僕は試験を受けても落ちると思ったから、押しかけていって彼より半年前に入っているんです。だから、六平の試験の結果もしっているんだけど、その時の芝居は下手。なぜ受かったかというと一行、履歴書に『溶接免許』とあった」
六平「不破万作が『唐、こいつ溶接の免許あるぞ』と言ったら、唐さんが『じゃ、採れば』(笑)。だけどあそこは演劇集団でしょう。結局、役者をやらされた」
金「でも、彼は入ってから1か月間、稽古場に一切足を踏み入れない。鉄工所へ行っていたんです。公演が始まってからは何をしたかというと、公演地ごとに徹夜で毎日穴掘り。花道の下に穴を掘って一幕から三幕までずっと穴の中にいるんです。それで一番最後に、花道から血が吹き出る場面があるんですが、その時に、彼が懸命に土の中でポンプを押して『血』を吹き上げる。一度、血が出てこなかったことがあるんですよ。寝ちゃったんです。だて2時間半も待つんですから(笑)」
六平「暗くてさ、疲れちゃって」
鄭「途中から入れないの」
六平「入れないよ。花道だから」
金「すごいやつが入ったなと思いました。音を上げないんですから。ただ、今だから言えますけど、彼は2年目の時、自分の才能の無さに落ち込んじゃって、一通のはがきが届いたんです。『一身上の都合により退団します』なんて書いてあった。3日間探しまくりました」
六平「その話は面白いけれど、そこまで書くと誌面がなくなるから」
金「で、いまの六平があります」
1995年に鄭義信さんが退団した後、彼の戯曲の上演権を巡って、彼と梁山泊の間でトラブルが起きる。裁判については平田オリザ氏の文章が詳しい。平田オリザさんは「劇団側は、これまでの主張とともに、両作品は同劇団の役者たちの共同作品であ り、それに対し鄭氏は単なる叩き台を用意し、なおかつ役者たちの共同作業を書き留めたにすぎない と主張してきました。共同作品を巡る著作権のトラブルは、よくあるケースです。しかしながら、プロデューサーや演出 家によるアイデアの提示、俳優のアドリブの戯曲への採用などをもって『共同制作、共同執筆』とするならば、劇作家の権利はいちじるしく制限させることになります」という。
けれど、当時のインタビューでは、なるほど梁山泊の場合は共同制作かもしれないと思われる話が語られていた。
鄭「僕の作品の時はいつも、守珍さんと『ああじゃない、こうじゃない』と話しながら作り上げていくんです。ただ、けんかになると守珍さんの方が口がうまいから、いつも負ける。でも、本というのは役者や演出家へのプレゼンだと僕は思っているんです」
金「しかし、僕は彼の書いたことにクレームはつけませんよ、役者を使って表現した上で、これはどうなのかと言います。僕は表現しない限り、彼には物は言いません」
−−演劇を作り上げる場合、役者も加わるわけですか。
六平「そりゃ、自分の演技は自分で決めていかなきゃね」
金「演出は産婆なんです。役者の産みの苦しみを少しでもやわらげてあげるのが演出の仕事です。今はあまりにも作・演出が台頭してしまって、役者にやらす前にこうやれああやれと言いすぎる」
六平「それは役者も悪いよね。才能のある役者は自分で作るよ。『状況』の時から、ずっとそうだものね。作って唐さんに見せて、それで唐さんが『今の面白い』って…」
金「その緊張感はすごい。そして『つまらない』と言われた時の落ち込み方」
六平「おれは唐さんが観にきた日だけは緊張する」
−−観にきてくれるんですか。
六平「うん。毎回来るよ。あとはだれが来ても緊張しない」
戯曲家、演出家、役者が関わり合いながら芝居を作り上げていく、新宿梁山泊らしい演劇の手法があだになってしまったのはとても残念だ。鄭義信さんの作品は「千年の孤独」にしても「人魚伝説」にしても、梁山泊の個性になっていた。ファンとしては、かつての関係に戻ってほしいと思うのだが。
もう少し、当時の彼らの話を聞いてみよう。
−−義信さんは映画青年で、映画界にもかかわったこともあるそうですが、その経験は生きている?
鄭「映像的な劇作家だとはよく言われます」
金「彼は舞台の機構とかを無視するんです」
−−でもやってしまう。
金「おれたちはこいつに負けたくないから」
六平「義信のためにやっているんだよ」
鄭「ありがとうございます」
六平「だからおまえだけが金持ちになったら許さんぞ(笑)」
−−金さんと鄭さんはいいコンビですね。
鄭「守珍さんと僕は性格も両極端でよくやっているねって言われるけど、だからやれるんだなと思っています」
金「麻植は陽で、こいつは陰なんです」
鄭「おれが陽ですよ(笑)」
金「彼はとにかく憂いているの。『何で』っていうぐらい湿っているんですよ。おれは湿ったのが嫌いだからドライにする。乾かない限りは彼の魅力はないわけです。おれと六平は完全に乾かす。義信は役者としてはすべてを乾かしてしまう才能があるんですがね」
とても危うい(笑)、いいコンビだったと思う。だからこそ、すごい演劇が生まれたのだろう。
その後、新宿梁山泊は看板女優の金久美子さんを2004年に癌で失う。
いろいろなものを失ってしまった。しかし、六平さんが復帰した。
金守珍、六平直政のコンビは2012年に唐作品で、共演という形で復活する。
2012年、シアターコクーンで上演された蜷川幸雄演出の「下谷万年町物語」だ。
宮沢りえがキティ役を演じ、オカマたちの毒気を抜いてくれたが、この芝居に、六平さんが、オカマの大親分お市の役、金さんが白井の役で熱演、さっそく二人の共演を見にいった。嬉しかった。
そして、同じ下谷万年町物語で六平さんを招き入れた金さんの味な演出。
そのあたりの経緯はパンフレットに書いてある。
梁山泊は失うものがあまりにも多かったが、これからは六平さんという相棒とともに、新しい梁山泊を作り上げていってもらいたい。
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映画「ひまわり」Amazon Prime Videoで見た。
50周年HDレストア版が完成して、きれいな映像で見られるようになったらしい。そのホームページによるとーー。
日本人が愛した、映画史に残る永遠の名作。最新のデジタル技術で修復されてあざやかに蘇る。
カンヌ映画祭パルムドール、アカデミー賞®外国語映画賞などに輝く世界的巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督による、涙あふれる悲しい愛の名作が、公開から50年の時を経てHDレストア版として復活。広大なひまわり畑はウクライナの首都キエフから南へ500キロほど行ったへルソン州で撮影された。東西冷戦当時にヨーロッパの国がソ連で映画撮影をすることは珍しく、積極的に映画撮影に協力した政治的背景も興味深い。
『ひまわり』は日本はもとより、イタリア本国でもオリジナルネガが消失しておりポジフィルムしか存在しない。日本で2011年、2015年に続き今回3回目の修復を行った。最新技術を駆使し、映像に関しては画面上の傷を除去して、明るさや色の揺らぎなどの症状を改善。音響に関しては、モノラル作品でありながら、周波数ごとに音を拾い出し、最新のノイズリダクション技術で雑音を除去。オリジナルに近い仕上がりになった。現時点で世界最高のクオリティでスクリーンに帰ってくる。
ストーリーも、同ホームページが簡潔にまとめている。
Story
第二次世界大戦下、陽気なアントニオ(マストロヤンニ)と結婚したナポリ女のジョバンナ(ローレン)は、夫を戦争に行かせないために狂言芝居までするが、アントニオは地獄のソ連戦線に送られてしまう。
終戦後も戻らない夫を探すために、ジョバンナはソ連に向かい夫の足跡を追う。しかし、広大なひまわり畑の果てに待っていたのは、美しいロシア娘と結婚し、子供に恵まれた幸せなアントニオの姿だった…。
冒頭の二人のイチャイチャぶりは引いて見ていたが、それも後半の深い悲しみの伏線だったとわかると、この映画は直球勝負なんだなと理解した。かつての名作は、こうした直球勝負の作品が多かった。改めて他の作品も見ていきたいと思った。
ジョバンナは、普通なら夫は戦死したと諦める状況なのに、戦後、ソ連まで夫を探しにいく。そこで、夫が戦死したよりも辛い場面と出くわす。二人の運命は戦争で大きく変わってしまうのだったが、再会して、語り合ったことは、それぞれが新しい人生を生きる中でも、決して無意味な経験にはならなかったのではないか。そう思わせてくれる映画だった。
ロシアのウクライナ侵攻がきっかけでこの映画を見たいと思った。
ウクライナで撮影されたとされるひまわりが一面咲き乱れるシーン。ウクライナの空気感を感じることができた。
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