映画「PLAN75」
75歳以上の高齢者に自らの”最期”を選ぶ権利を認め、支援するシステム「PLAN75」。超高齢化が進み、若者に重い負担がかかる社会。「社会に迷惑をかけたくない」と言って、PLAN 75による死を選ぶ人のインタビュービデオが流れる。なんともやるせない近未来を描いた作品が、早川千絵
監督の「PLAN75」だ。
2018年に公開された是枝裕和総合監修のオムニバス映画「十年 Ten Years Japan」の中で短編の「PLAN 75」を撮り、これを長編に作り替えたのが今回の作品だ。長編になっても、現実の超高齢社会での医療や介護の問題などにはあえて深入りせず、75歳以上になると高齢者に自らの最期を選ぶ権利を認めるというシステムが始まったという想定の中で、当事者となる高齢者や、彼らの周りの人たちはいったいどんな思いで過ごすのかということに絞って映画を作ったようだ。あまり「説明的」でないところが、かえって我々にいろいろな考えを巡らせる余地を残してくれた。
早川監督も「私は映画を見る人の感受性を信じています。一人一人異なる感性で、自由に映画を解釈することで、観客も映画の共作者になってもらいたいのです」と話している。
賠償智恵子演じる78歳の高齢者ミチ。働く意思もあり、誰に頼ることもなく凛々しく生きるのだが、それでも一度はPLAN75で最期を迎えようとしてしまう姿が見る人の心を打った。「75歳以上であるということだけで、財政を悪化させるだけの元凶のように見られてしまうのか」という理不尽さを感じさせた。
60歳の「定年」、再雇用の「65歳まで」と、日本は年齢だけで一律に高齢者をくくる社会だ。その延長である後期高齢者の75歳を境に安らかな気持ちで過ごし、死を迎える権利を得られる制度ができるという設定は、細かく言えば、現実味に欠けるのだが、「高齢者は生きているだけで罪なのか」「長生きは本当に人類が得た果実なのか」などというテーマを考え、議論するには、こうしたわかりやすい設定がよかったのではないかと思う。
「認知症で自ら意思決定ができない高齢者はどうするのか」「安楽死を肯定的にとらえることは危険ではないのか」など、ツッコミどころは満載だが、現実の制度上の問題に言及しだすと、PLAN 75というシンプルな設定による作品に対するアクセスのしやすさが失われてしまう。
映像は美しく、賠償智恵子の演技は圧巻。リアリティがあるようで、別世界のようでもある映像が流れ、制度や倫理を議論する前に、人はなぜ生きるのかという本質的な問いが発せられる作品であった。
社会の役に立たない人間は要らないのか?このシンプルだがしっかり議論すべきテーマを上手に扱ってくれた。「PLAN75」は、日本人が超高齢社会の重要なテーマを率直に語り合うきっかけになる作品になってほしいと思う。
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