残り4枚でリーチ、一発ハイテイラツモ、四暗刻で奇跡の大逆転
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映画「パレードにようこそ」を観た。
2014年イギリス映画。
長期ストを続ける炭鉱労働者をゲイやレスビアンらの団体が、周りの偏見に打ち勝ちながら支援するというストーリー。
サッチャー政権下での実話に基づく映画だ。
世の中で弱者が弾圧を受けていても、弱者同士は連携しないことが多い。むしろ、あいつらを助けるなら我々を助けろと、「支援のぶん取り合戦」になりがちだ。そんななかで性的マイノリティーと労働者の連携の話は示唆に富んでいた。
陳腐な言葉かもしれないが、「同じ人間なのだから」分かり合えるはずで、この映画では分かり合った人々が挫折も繰り返しながら、友情を育む。
SNSは世の中の人たちの連携を促進するツールかと思っていたが、どちらかというと分断を促しているようにも見える。
新時代の連帯をどう作り出していけばいいのだろうと、この映画を観ながら考えた。
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映画「1987、ある闘いの真実」を観た。
2017年韓国映画。
1987年1月、全斗煥大統領による軍事政権下の韓国。南営洞警察のパク所長は北分子を徹底的に排除するべく、取り調べを日ごとに激化させていた。そんな中、行き過ぎた取り調べによってソウル大学の学生が死亡してしまうーー。
徹底的な警察権力による弾圧の中、検事、マスメディア、学生、看守、などが、手を結ぶのが極めて難しい状況のなかで、それぞれの正義に基づいて民主化運動を繰り広げる様子を描いたこの映画、ものすごい迫力があった。
ちょっと前の韓国はこんな状況だったのかと、自分の不勉強を恥じた。そした絶望的な状況のなかでも、自分の良心を信じながら戦えば、勝つこともある、という歴史を見せてもらった。
日本ではこれほど荒っぽいことはなされていないと信じたいが、時の権力に歯向かえば、似たような状況にはなるのかもしれない。
一人では絶対に解決不可能なことが多くの人間を巻き込むことに成功すれば実現するという勇気を与えてくれる映画だった。
日本の政治状況は閉塞感があり、敵もよく見えない。そんななかで個々人が何をすれば国は良くなっていくのか。
そんなことも考えながらこの映画を楽しんだ。
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「未来を花束にして」を観た。
2017年のイギリス映画。
タイトルの明るいイメージとは異なり、女性が参政権や親権を得るために、時に暴力も用いて、運動しなければならなかった暗い時代を描く。
男女平等は、日本ではいまだ道半ばだが、投票する選挙する権利さえ与えられなかった時代があった。その社会に刻まれた記憶は実はまだ消えていないのかもしれない。
女性の発言力が増した国では、女性が政治や企業のトップにも就き、国や企業を「動かす」側の人間が増えることによって、物事が主体的に決まるようになった。女性の感性が男性を上回るのかとか、男性の知性が女性を上回るのかとかいった議論は無意味だ。男だから、女だから、というよりも、自由な発言ができる個人が、単純い増えるだけで、そして、その発言を尊重する空気、気持ちよく議論する雰囲気ができるだけで、意味があるのだと思う。
イギリスでの女性参政権は多くの犠牲の上に獲得されたが、願わくば、これからは人の死がなければ変えられない世の中ではなく、議論の中でさらに女性が力をつけていく世の中になってほしい。これまでの社会常識、偏見に挑む戦いをするために、これまでの歴史も見ておきたい。
この映画をみてそう思った。
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映画「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」を観た。
マイケル・ムーアがヨーロッパなどを訪ね(侵略し)、最高のアイデアをゲットするというコメディタッチの映画だ。
かつては世界の中でも模範となっていた自由で先進的な試みをしていたアメリカだが、いまや各国に学ぶことがなんと多いことか。
有給休暇を何日もとり、昼は自宅でゆっくり食事という国。三つ星シェフが作るような給食が食べられる小学校がある国。宿題や統一テストをやめたとたん、世界一の教育水準の高くなった国。囚人でも人間の尊厳を重んじる国…。
日本の国会議員はよく海外視察に行くようだが、こうした手厚いサービス、人間性を尊重した人の扱いを行っている国から、どうして学び、その手法を取り入れようとしないのかと、マイケル・ムーアならずともと嘆くことしきりだった。
この映画は新自由主義を真似て、どこかおかしくなったニッポンの国のこれからを考える端緒として、日本人みんなが見てほしい映画だ。
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映画「家族を想うとき」を観た。
公式ホームページによるとーー。
2016年カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝き、日本でも大ヒットを記録した『わたしは、ダニエル・ブレイク』。この傑作を最後に、一度は表舞台から降りたケン・ローチ監督。だが、同作のリサーチ中に社会の底辺で目の当たりにした〈現実〉が彼の心の中に生き続け、いつしか〈別のテーマ〉として立ち上がり、どうしても撮らなければならないという使命へと駆り立てた。引退表明を撤回した名匠が最新作で描いたのは、グローバル経済が加速している〈今〉、世界のあちこちで起きている〈働き方問題〉と、急激な時代の変化に翻弄される〈現代家族の姿〉だ。2019年のカンヌ国際映画祭では、「私たちがやらねばならないことはひとつ。耐えられないことがあれば、変えること。今こそ変化の時だ」という、公式上映後のケン・ローチ監督のスピーチがさらなる拍手を呼んだ感動作が、ようやく日本にもやって来る。
個人事業主として、フランチャイズ制をとる宅配会社のドライバーになった主人公だが、「個人事業主」は名ばかり。荷物の追跡だけでなくドライバーの勤務状況まで細かく管理され、トイレに行く時間さえない。何か問題が起きると、ドライバーの責任とされ、弁償金を払わされる。企業の正社員ならば、組織で動き、互いに助け合うところだが、すべて責任が個人に帰せられる。配達の車のローンを払いながら、長時間労働を続け、家族と過ごす時間さえとれない。
妻の介護の仕事も時間外勤務が当たり前で、介護労働の厳しさも描かれているが、それ以上に、「雇用されない働き方」の厳しさが描かれる。
ダニエル・ピンクの「フリーエージェント社会の到来」を読んでから、雇用されない働き方、フリーランスという働き方に憧れてきて、スキルシャアの記事も何度か書いたが、そのシステムによっては、労働を搾取する仕組みになりかねない働き方なのかもしれない。
年金保険料は支払われない働き方だから、若い人の働き方としてはおすすめではないのかもしれないが、日本のスキルシェアと言われるジャンルもよく検証をしないと、とんでもない働き方になっている可能性はあると感じた。
就職氷河期といわれる時期に非正規雇用が広がり、正社員になれない人たちの老後はとても厳しい。
雇用されない働き方、しっかりと検証していかなければならないと強く感じる映画だった。
イギリス、ニューカッスルに住むある家族。ターナー家の父リッキーはマイホーム購入の夢をかなえるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意。「勝つのも負けるのもすべて自分次第。できるか?」と本部のマロニーにあおられて「ああ、長い間、こんなチャンスを待っていた」と答えるが、どこか不安を隠し切れない。
母のアビーはパートタイムの介護福祉士として、時間外まで1日中働いている。リッキーがフランチャイズの配送事業を始めるには、アビーの車を売って資本にする以外に資金はなかった。遠く離れたお年寄りの家へも通うアビーには車が必要だったが1日14時間週6日、2年も働けば夫婦の夢のマイホームが買えるというリッキーの言葉に折れるのだった。
介護先へバスで通うことになったアビーは、長い移動時間のせいでますます家にいる時間がなくなっていく。16歳の息子セブと12歳の娘のライザ・ジェーンとのコミュニケーションも、留守番電話のメッセージで一方的に語りかけるばかり。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、子供たちは寂しい想いを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう──。
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