浅草名所七福神めぐり~9つの寺社が個性を競う

 2011年1月の谷中七福神めぐり以来の久しぶりの七福神めぐりをした。

 今回は「浅草名所七福神」めぐり。

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浅草名所七福神めぐりのホームページは、パンフレットとほぼ同じ内容で充実している。

 久しぶりの七福神めぐり。七福神進行の基礎知識を思い出すために、ちょっと長いが、そのなかの「七福神信仰の今昔」を引用しよう。

 人は、禍福を思って悩み、福運を求めて人生をさまよい、ゆえに神仏の信仰が生まれました。「開運」とひとことで片付けられないのが、人それぞれの願望が一様でないからです。家内安全、商売繁盛、縁結び、出産、成長、立身出世、学業成就、健康長寿など、人の願望にはいろいろあります。
 七福神の信仰も、こうした人の願望から発露したものです。
 仁王経という経典の中に、「七難即滅 七福即生」とあります。つまり、教え導くことを篤く信じ行えば、世の中の七つの大難(太陽、星の異変、火災、水害、風害、旱害、盗難)はたちどころに消滅し、七つの福が生ずるというのです。
 この七つの福というのは、その時代、その人の願望によって合理的に解釈されるもので、あなた自身の「心」の在り様といえます。といっても、七福神の神徳を信ずる事を篤くして、人生を救われる人がたくさんいることから、その信仰が現代に継承されていることは確かなのです。
 では、七福神信仰の歴史とは、どのようなものなのでしょうか?
 鎌倉時代、日本古来の守り神恵比須(漁労、労働、商売などの守護神)の信仰に、中国を経てインドから大黒天(五穀豊穣、飲食の神)、弁財天(音楽、知恵、弁説、財福の神)の信仰が加わりました。室町時代にかけて、この三神の信仰が庶民の間に深まってきますと、毘沙門天(人倫の道、仏法の守り神)、布袋尊(吉凶の占い、家庭円満など福徳の神)、福禄寿(幸運、生活の安定、長寿の神)、寿老人(長寿延命の神)の四神が加えられて、人々の願望に応える七福神として信仰の象徴になったものと一般に理解されています。
 江戸時代、かの上野寛永寺の開祖天海僧正が徳川家康に説いて、寿命、有福、人望、清廉、威光、愛敬、大量を七福とし、為政者のあるべき姿としました。
 江戸時代も八代将軍吉宗のころには、世も太平がつづき、庶民も安逸をむさぼるようになります。江戸八百八町には、それぞれ名所が開発され、観光と神仏詣でを兼ねた行楽の気分が旺盛になりました。ちょうど、物資文明の差こそあれ、世界に冠たる高度な生活にひたっている現代日本の姿のようではありませんか!
 そして、江戸末期には、商売繁盛、無病息災、各種大願成就の福徳、福運を求めて各地で七福神詣でが隆盛を極め、とくに正月松の内に巡拝して一年の福徳を願うようになったものが今日の七福神詣での形となったのです。 
 浅草名所七福神詣では、江戸市中でも有名だったのですが、戦後一時期中断のやむなきに至り、昭和五十二年に復活して今日 に受け継がれているものです。古くから江戸市民に霊験あらたかな福の神として親しまれてきております。
 今日は以下の順番で回った。正午にスタート。回り終えたのが午後4時45分だった。
鷲神社<寿老人>(台東区千束3-18-7、東京メトロ 日比谷線入谷駅3番出口徒歩6分、03・3876・1515)→吉原神社<弁財天>(台東区千束3-20-2、都バス吉原大門又は千束下車、03・3876・5966)→矢先神社<福禄寿>(台東区松が谷2-14-1、都バス 萄屋橋下車、03・3844・0652)→浅草寺<大黒天>(台東区浅草2-3-1、都バス 浅草雷門下車、03・3842・0181)→浅草神社<恵比須>(台東区浅草2-3-1、都バス 浅草雷門下車、03・3844・1575)→待父山聖天<毘沙門天>(台東区浅草7-4-1、都バス 隅田公園下車、03・3874・2030)→今戸神社<福禄寿>(台東区今戸1-5-22、都バス 浅草7丁目下車、03・3872・2703)→橋場不動尊<布袋尊>(台東区橋場2-14-19、都バス橋場2丁目下車、03・3872・5532)→石浜神社<寿老人>(荒川区南千住3-28、都バス南千住3丁目下車、03・3801・6425
①鷲神社(おおとりじんじゃ)<寿老人>

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 左の方に寿老人の神像がある。

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 上半身は見えなかった。

②吉原神社(よしわらじんじゃ)<弁財天>

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 右の方に弁財天が見える。

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 明かりに浮かび上がる弁財天の神像。

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 飛び地にも吉原神社がある。

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 にぎわったかつての吉原の様子を伝える花吉原名残碑。

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 こちらにも弁財天が祀られているようだ。

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 リアルな弁財天。

 合羽橋道具街を通って、矢先神社へ。

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 食品サンプルを扱うサトウサンプル。

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③矢先稲荷神社(やさきいなりじんじゃ)<福禄寿>

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 拝殿の格子天井には神武天皇の御世から今日にいたる「日本馬乗史」を描いた100枚の絵が奉納されている。

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 合羽橋本通りを経て、浅草寺へ。

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 途中、かみや(東京都台東区浅草2−3−14、03・3841・4430)で腹ごしらえ。

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おなじみ、④浅草寺(せんそうじ)<大黒天>

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 影向堂(ようこうどう)に大黒天が祀られているが、撮影禁止。

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 公開されている写真はこれ。

⑤浅草神社<恵美須>

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 参拝の人の列。

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 恵美須様を拝めるか。

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 がっかり。

⑥待乳山聖天(まっちやましょうでん)<毘沙門天>

 隅田川沿いを歩き、待乳山聖天へ。

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 1月に大根まつりが行われることでも有名。

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 境内各所に巾着と二股大根のモチーフがある。巾着は財宝で商売繁盛を表し、大根は夫婦和合、縁結び、子孫繁栄を表す。1月には大根まつりも行なわれ、大根をお供えする。大根は人間の深い迷いの心を表すといわれており、大根を供えることによって洗い清めていただく意味合いを持っている。

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 古い縁起によると、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられている。

⑦今戸神社(いまとじんじゃ)<福禄寿>

 若い参拝客が大変多い神社。

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 大きな招き猫がいる。招き猫には商売繁盛や招福への願いが込められているが、今戸神社の招き猫の特徴は、オスとメスのペアとなっていることです。つまり、縁結びに御利益があるらしい。なるほど、若い女性が多い理由が分かった。

 この招き猫の登場は江戸時代で、人形としての招き猫はここ今戸で16世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれている。伝承によると今戸焼きの起源は天正年間(1573~1591)に、千葉氏の家臣が今戸辺りで焼物をはじめたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移り住んだともいわれている。

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 最近はなで猫もいてーー。

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 若い男女に大人気。

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 ちょっと福禄寿の影が薄くなっているがーー。

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 招き猫の近くにちゃんといらっしゃる。

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 老若男女すべてに人気の出そうなトレンディスポットだった。

⑧不動院(ふどういん)=橋場不動尊(はしばふどうそん)<布袋尊>

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 不動院のご尊像は江戸時代のころから伝わるもので、肩に袋がなく、お腹が袋代わりの形をしている珍しいもの。大きな度量、清く正しい行為の福を授けてくれる布袋様そのものといったお姿で、古くから江戸庶民に尊信されている。

⑨石浜神社(いしはまじんじゃ)<寿老神>

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 寿老神の神像。

 9つの社寺を回り終えた。

 石浜神社は浅草のはずれ。この後、中心部までは距離があった。

 浅草名所七福神めぐりは、中心部にある浅草寺、浅草神社がいまひとつだったが、ほかの寺社が個性を発揮。全体としては面白い七福神めぐりになっていた。

 また、長寿の神様が多く、超高齢化が進む時代にはぴったりの七福神めぐりだった。

 

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谷中七福神めぐり番外編~谷根千“せんべい七福神めぐり”

 谷中七福神めぐりの計画を立てる時に参考にした『散歩の達人』2007年10月号「志ん生一家に愛された町 谷中・根津・千駄木」に「せんべい屋ローラー作戦」という記事があった。読むと、ちょうど7軒のせんべい屋が紹介されている。それでは、この7軒も回ってみよう!ということで「谷中七福神めぐり番外編~谷根千“せんべい七福神めぐり”」を敢行した。

 修性院の頼り甲斐のありそうな大きな布袋様を拝観してから天王寺に向かう途中、「谷中せんべい」の看板を見つけた。
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 谷中せんべい 信泉堂(台東区谷中7-18-18、03・3821・6421)だ。

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 『散歩の達人』で薦めていた堅丸(65円)を買った。

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 オーソドックスなおいしいせんべい。堅さも、厚さも、醤油の味も好きだった。次はたくさん買って帰ろう。

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 営業時間は9:30〜18:20、火曜定休。

 2件目は谷中せんべいのすぐ近くだったが――。

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 なんとも味わいのある路地にあった。

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 都せんべい(東京都台東区谷中7丁目18-13、03・3828・4435)。

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 『散歩の達人』で薦めていた堅焼(70円)を買った。

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 醤油の味が谷中せんべいとちょっと違う。こちらの方が個性的。

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 営業時間は9:00~18:30。月曜定休だが、祝日なので営業していた。

 さて、順調に進み始めたと思ったせんべい店めぐり。その後、つまづいた。

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 いせ辰に行った後、加賀屋谷中店(台東区谷中3-13-16)に向かったのだが――。

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 住所の場所ではインフォメーションセンターの工事が進んでいた。電話は通じず。
 工事していた方に聞くと、「ここ、せんべい屋さんだったんだよ」。
 う~ん。“せんべい七福神めぐり”のはずだったのだが、「6」になってしまった。

 気を取り直して、菊見煎餅総本店(文京区千駄木3-37-16、03・3821・1215)に向かったが、この店は月曜日が定休。しかし、都せんべいも営業していた。三連休の最終日。七福神めぐりの客も多いので、当然開いていると思って行ったのだが――。

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 閉まっていました。(゚Д゚)ハァ?

 そして…。次のせんべい屋「八重垣煎餅」がなかなか見つからなかった(表通りだったのに…)。

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 所在地が文京区根津1-23-9-102。102というところで、マンションの1階か…などと思ったのが間違い。分かりやすいところにあった。近くの鯛焼きの店には列ができていた。ちょっと気になったが、八重垣煎餅(03・3828・7228)に入った。

 入るとお茶を出してくれた。サービス満点。
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 ゆっくりできた。

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 店頭でせんべいを焼いていた。楽しい。

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 「江戸の堅焼」(150円)。観光化されているためか、他店よりは値段が高い。

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 「煎餅」という漢字の通り、もちもちの厚いせんべい。焼きたてだから、もちもちなのかもしれない。
 いろいろなせんべいを扱っているのでお土産ならば、この店かもしれない。
 無休。

 次の店は昔せんべい大黒屋(東京都台東区谷中1-3-4、03・3821・7000)。

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 大黒様が飾ってある、まさに七福神せんべい。
 商店街のホームページの中に大黒屋のページもあって、作りにこだわっていることが分かる。
 「いらっしゃいませ、昔せんべい大黒屋でございます。当店の炭火手焼きは厳選されたお米と香り豊かな本醸醤油、炭は紀州備長炭にて一枚一枚丁寧に昔ながらの味と伝統を守り続けております。谷中・根津の散策の折に、慶弔、各種ご進物に。お電話にて発送も承っております。ご来店お待ち申し上げます」。
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 店頭でせんべいを焼いている。名人芸。

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 1枚売りは売り切れていたので、10枚入りを買った。
 「醤油」10枚入り1200円。

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 八重垣煎餅比べて厚くはないが、しっかりした醤油味。こだわりが感じられるせんべいだ。

 営業時間は10:30~18:30。木曜定休。

 最後の店は、嵯峨の家(東京都台東区谷中6-1-27、03・3821・6317)。

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 しゃれたせんべい、あられを売る店。

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 秋の夜(47円)を買った。

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 食べやすい大きさだし、とてもおいしかった。

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 この店は弁天様、という感じか。
 営業時間は9:00~19:00。水曜定休。

 最後の2店を回って七福神とせんべいがオーバーラップした。
 最初の谷中せんべいは布袋様か。
 八重垣は商売熱心なので恵比寿様?
 
 楽しいせんべい店めぐりだった。

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谷中七福神めぐり~個性的な七福神が楽しい

 谷中七福神めぐりをした。ご開帳、ご朱印は10日の17時まで。ぎりぎりで旬な七福神めぐりができた。

 昨年、新宿山ノ手七福神めぐり港七福神めぐり日本橋七福神めぐり深川七福神めぐりを行ったが、ご開帳の時期ではなく、街を知るには良かったが、人も少なく盛り上がりに欠けた。

 今年は2日に日本橋七福神めぐりをして、にぎわいに感動。多くの神様を見ることもできて良かった。
 
 そして、およそ250年前に始まったと言われる江戸最古の七福神(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)、谷中七福神めぐりを行った。
 すべてがお寺で構成された七福神で、神様たちを間近で拝めた。
 今までの七福神めぐりの中で最も中身の充実した七福神めぐりだった。

 谷中七福神は、東京都台東・荒川・北の3区・7寺院に祀られている七福神をめぐるもの。東京都交通局の「ふれあいの窓」のバックナンバー、東京WALK1万歩 谷中七福神めぐり編を参考にして回った。

 これまでの七福神めぐりの記事は「詳し過ぎる」との声もあったので、今回は写真を重視、説明は最低限にとどめたい。

 スタートはJR田端駅。
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 北口改札の上にはスターバックス・コーヒーのマークが見える。
 改札を出て右、アトレヴィ田端のエスカレーターを上ると、スターバックス・コーヒー アトレヴィ田端店がある。

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 集合場所に最適。営業時間は月~金が7:00~22:00、土・日・祝が8:00~21:00。

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 田端駅には谷中七福神めぐりのリーフレットがあった(ちょっと端が破けたりしているが、クリックすると大きな画像が見られます)。

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 最初のお寺は東覚寺(とうがくじ、北区田端2-7-3、03・3821・1031、9:00~17:00)。
 リーフレットによると、「福禄寿を祀る寺院。延徳3年(1491)創建で、慶長年間に現在地に移転。江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所として栄えました」とのこと。

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 福禄寿。

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 七福神も勢揃い。

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 入り口には、赤紙仁王も。
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 2番目のお寺は青雲寺(荒川区西日暮里3-6-4、9:00~16:00、1月1~10日は~17:00)。

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 リーフレットによると、「恵比寿神を祀る寺院。境内には滝沢馬琴の筆塚碑など、江戸時代を代表する文人の碑が多く残っています」。

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 恵比寿神。

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 滝沢馬琴の筆塚碑。

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 3番目のお寺は修性院(しゅうしょういん、荒川区西日暮里3-7-12、03・3823・0873、9:00~17:00)。
 リーフレットによると、「四季折々に花が咲き、江戸時代から花見寺として名高い寺院。堂内の布袋尊はその地名から『日ぐらしの布袋』と親しまれています」。

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 頼り甲斐のある布袋様。

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 天王寺に行く前、なかなか良い感じの神社があった。

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 諏方神社。

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 4番目のお寺は天王寺(台東区谷中7-14-8、03・3821・4474、6:00~17:00)。
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 リーフレットによると、「江戸時代“富くじ”で賑わった古刹です。毘沙門天を祀る毘沙門堂は、焼失した五重塔の残材で建てられたケヤキ造り」。

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 毘沙門天。

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 谷中霊園。

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 天王寺五重塔跡。
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 5番目のお寺は長安寺(台東区谷中5-2-22、03・3828・1094、9:00~17:00)。
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 リーフレットによると、「寛文9年(1669)老山和尚による創建。安置されている寿老人像は徳川家康の寄進と伝わっています」。

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 寿老人。

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 『悲母観音』などで知られる日本画家、狩野芳崖の墓がある。
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 「東京WALK1万歩 谷中七福神めぐり編」のコースにあった千代紙の店、いせ辰(台東区谷中2-18-9、03・3823・1453、10:00〜18:00)に向かう。途中の町並みが味わいがあった。

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 築地塀。この景観は「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれている。

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 創業元治1(1864)年の老舗。木版手摺りという昔ながらの製法で千代紙を作り続けている。千代紙のデザインの布製品も多数あった。

 6番目のお寺は護国院(台東区上野公園10-18、03・3821・3906、8:00~17:00)。
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 リーフレットによると、「東叡山寛永寺釈迦堂の別当寺として開創。徳川家康に贈られたと伝わる大黒天画像が祀られています」。

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 大黒天。

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 右の方には別の神様がいる。

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 お釈迦様。

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 天井の龍の絵。

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 辨財天や

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 毘沙門天も。出身地が同じインドのためか、一緒にいることが多い。

 最後のお寺は弁天堂(台東区上野公園2-1、03・3821・4638、9:00~17:00) P1050135
 リーフレットによると「東叡山寛永寺のお堂のひとつ。不忍池に島を作り、8本の腕をもつ大辨才天を祀っています」。

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 辨才天。

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 大黒天堂も近くに。

 最初の東覚寺に着いたのが9時45分。最後の弁天堂を参拝し終わったのが16時45分。
 各寺の七福神が個性的で、楽しい七福神めぐりができた。

 ずいぶん時間がかかったが、それには訳がある。
 
 谷根千せんべい店めぐりを同時に敢行したのだ。せんべい店が見つからず、時間がかかってしまった。
 七福神めぐりだけならば、こんなに時間はかからない。

 それでは谷根千“せんべい七福神めぐり”もご覧ください。

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日本橋七福神めぐり(2011年1月2日)~神様たちとコミュニケーション

 日本橋七福神めぐりをした。昨年1月30日に一度回ったが、正月元日から7日までの「日本橋七福神詣」に行かないと、七福神のお姿を拝めない。しかも水天宮の宝生辨財天は毎月5日と巳の日にしかご社殿の扉が開かないという。今日がまさに巳の日。今日が日本橋七福神めぐりにはベストの日なのだ。

 今回は真っ先に宝生辨財天を拝みたいと思い、ロイヤルパークホテル(東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目1番1号、03・3667・1111)の設定しているコースを回ることにした。
 ロイヤルパークホテル→●水天宮〈弁財天〉→●茶の木神社〈布袋尊〉→●小網神社〈福禄寿・弁財天〉→●寶田恵比寿神社〈恵比寿神〉→●椙森神社〈恵比寿神〉→●笠間稲荷神社〈寿老人〉→●末廣神社〈毘沙門天〉→●松島神社〈大黒神〉の順に回る(「ロイヤルパークホテル散歩ガイド」より)。

 前回、各神社の縁起、由緒などはこのブログに詳細に記したので、今回は写真中心に紹介したい。


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 ロイヤルパークホテル。地下鉄水天宮駅4番出口から出て、1階のロビーラウンジ フォンテーヌへ。
 コーヒー、紅茶は840円でお替り自由。レモンティーを頼んだ。お替りもしてじっくり今回のコースを確認した。
 前回の日本橋七福神めぐりの逆回りになるので、迷いそうだが、のんびり回ろう。

 11時半ごろにホテルを出て水天宮(中央区日本橋蛎殻町2-4-1、03・3666・7195)に向かった。
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 日本橋七福神めぐりは1月1~7日に行かなければ、だめだと思った。七福神をご開帳している神社が多く、ありがたみが違う。

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 宝生辨財天へ。社の前には列ができていた。聞いてみると、1~7日は常時ご開帳しているそうだ。今日でなくても大丈夫だった。(^^ゞ
 それ以降は毎月5日と巳の日のみにご開帳する。

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 すぐに参拝の順番がきた。

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 ガラス越しに美しい弁天様のお姿。

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 斜めから。少し表情が変わった気がする。

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 ご朱印色紙、宝船とも全社揃いのものは水天宮で購入できる。

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 宝船と七福神を買った。水天宮で、まとめて買うと3700円(宝船1300円、七福神各300円)。
 京都の老舗人形メーカー「豪勝」作。
 「七福神について」という説明書きが入っていた。
 七福神は日本の土俗信仰・中国の神仙思想・インドの仏教から選ばれて古来より庶民
の信仰を集めてきた七体の福の神です。此の七福神をお祀りしてある社寺を巡拝して其のご利益を頂こうと云う行事(七福神めぐり)は京都を最古として現在では全国で四十を超えて居ります。人々の間に広く信仰され親しまれている開運招福の神々であります。
 恵比寿(日本)商売繁盛・交通安全
 大黒天(印度)五穀豊穣・開運招福
 毘沙門天(印度)学業成就・富貴自在
 弁財天(印度)技芸上達・福徳自在
 福禄寿(中国)長寿幸福・方位守護
 寿老人(中国)不老長寿。知恵の神
 布袋尊(中国)未来予知・金運の神

 "和みと雅び"をメインテーマに皆様に愛される人形を製作致して居ります当社の「七福神」はNHK・TV、各種出版物等い紹介され、"七福神めぐり"にもお使いいただいて居ります。         敬白
                                    豪勝
 
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 次は茶ノ木神社(中央区日本橋人形町1-12-10)。

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 次々と参拝客が訪れる。

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 鏡が祀られていた。

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 小網神社(中央区日本橋小網町16-23、03・3668・1080)には長い列ができていた。
 日本橋七福会が配っている「日本橋七福神めぐり」のパンフレットには「出発点は定めておりませんので、ご自由にお巡り下さい」と書いている。しかし、小網神社から反時計回りに回るのが一番効率的に回れることもあり、小網神社から出発する人が多く、この神社に人が集中するようだ。

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 約30分待った。

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 萬福舟乗辨財天「銭洗い水」。

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 昨年1月末のひっそりとした神社が嘘のよう。

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 混んでいる中、場所を譲りながら、必死の撮影。この期間しかご開帳されないとはほとんどの人が知らないようで、写真を撮っている人は見かけなかった。

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 頭が見えないが、そのお姿は福禄寿!

 この右回りルートは小網神社から寳田恵比寿神社(中央区日本橋本町3-10)までが距離がある。初めて通る道なので、目印となるスポットも紹介しておく。

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 北へ向かい、堀留児童公園の中を通る。

022
 公園の左側から出て、東横インの横をさらに北へ。

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 チョーギン本館にぶつかったら左へ。あと少し。

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 昨年1月末に来た時は寂しい場所だったが、商売繁盛の神様が祀られている社らしく、参拝客が絶えなかった。

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 今日は神社自体が生き生きしているような気がした。神様がおられるのだろうか。

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 遠くからでも分かる、この存在感!

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 恵比寿様。いよ~大統領!という感じ。

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 椙森神社(中央区日本橋堀留町1-10-2、03・3661・5462)。

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 ここも恵比寿様を祀っている。

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 ご開帳されてはいるが、像は見えない。

032
 恵比寿様が見られるのは今年は10月19日と20日。えびす祭(べったら市)の時のみだそうだ。
 残念。

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 笠間稲荷神社(中央区日本橋浜町2-11-6、03・3666・7498)。

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 左に寿老神社があるが――。

034
 ガラス越しに稲荷神社の鏡は見えるが、寿老人は見えなかった。寿老神社にはご神体はないそうだ。神社によると、祀られているのは伊勢の猿田彦大神(ものごとの最初に御出現になり万事最も善い方へお導きになる大神)の分身。

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 松島神社(中央区日本橋人形町2-15-2、03・3669・0479)。

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 大黒様が祀られている。

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 立派な大黒様だ。

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 午後2時、水天宮前交差点に戻った。角にある三原堂本店(東京都中央区日本橋人形町1-14-10、03・3666・3333)に入った。

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 店内でどら焼きを作っている。

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 どら焼きを買って帰ることにした。10個入り2250円。

 七福神めぐり、混んでないときにじっくり回って、神社の由緒などを学んでおいて、よかった。
 今回は神様たちとゆっくりコミュニケーションできた。

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東京の七福神めぐり・下調べ

 東京の七福神めぐりは、1月9日の「新宿山ノ手七福神めぐり」を手始めに、1月23日、「港七福神めぐり」、1月30日、「日本橋七福神めぐり」、2月6日、「深川七福神めぐり」に行った。東京のいろいろな顔は江戸時代につくられたことを実感した。
 引き続き、東京七福神めぐりをしようとも思ったが、七福神めぐりはめでたいイベントである。御開帳もある正月に賑わう神社・仏閣を回りたくなった。
 残る東京七福神めぐりは2011年の正月に取っておこうと思ったが、下調べだけはしておくことにした。
 役に立ちそうなホームページは以下の通り。
 谷中七福神めぐり
 東京都交通局の「ふれあいの窓」のバックナンバーは東京めぐりの案内として非常に充実している。その中の東京WALK1万歩 谷中 七福神めぐり編が、頼りになりそうだ。

 浅草名所七福神めぐり
 浅草名所七福神会の「浅草名所七福神(あさくさなどころしちふくじん)」。七福神に関すること知識から始まって、かゆい所に手が届く浅草七福神めぐり情報満載。

 隅田川七福神めぐり
 隅田川七福会が監修、制作する「隅田川七福神遊び」、墨田区の「隅田川七福神めぐり」の二つを見ておけば準備OK。

 亀戸七福神めぐり
 江東区の「亀戸七福神」。亀戸七福神めぐりに関する情報は同じ江東区の深川七福神めぐりの情報に比べ少ない。

 柴又七福神めぐり
 葛飾柴又ホームページの「柴又七福神めぐりマップ」。柴又 恵比寿天 医王寺の「柴又七福神」
 柴又七福神もお寺や神社のきちんとした情報が不足している。

 東海七福神
 「東海七福神」は情報ソースが分からないホームページだが、内容は詳しい。
 
 山の手七福神
 ボランティアが作成している目黒区HPガイドの「山の手七福神」のページが詳しい。お寺についてはしっかりした情報が不足している。

 板橋七福神めぐり
 板橋区のホームページの「板橋七福神めぐり」が詳しい。お寺の由緒などの情報がないのが残念。

 インターネット上では亀戸以下の七福神は、神社・仏閣についての情報・知識や地域の歴史に関する情報・知識が不足している。
 正月より前に調べに行こうか・・・(笑)。

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深川七福神めぐり~「江戸を映す街」を歩く その2 深川を知る 心行寺(福禄寿)~円珠院(大黒天)~龍光院(毘沙門天)~深川稲荷神社(布袋尊)~深川神明宮(寿老神)

 冬木弁天堂から心行寺までの行き方。冬木交差点へ戻り直進。深川一丁目交差点を右へ曲がると角から3軒目が福禄寿(所要時間5分)。 10時43分。

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 心行寺(深川2-16-7、03・3641・2566)
 深川七福神:福禄寿(人望福徳)
 「浄土宗 心行寺」のパンフレットによると――。
 双修山養源院と号し、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。
 寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。
 「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時間口42間、奥行42間、1764坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。
 往時は影窓院・正寿院の二つの末寺があったが、その後合併された。
 旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度烏有に皈した。
 現本堂は浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成したものである。

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 福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されている。パンフレットによると――。
 福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。
 一説には中国の宋の時代、嘉祐年間に実存した道士であるといわれています。
 福禄寿は背たけが低く頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をして、年齢数千歳ともいわれています。
 また、福(幸福)と禄(高給生活の安定)と寿(長命)の3つの福徳をさずける福神ともいわれています。

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 説明書きがあった。
 不求自得―自然に徳がそなわる―
 この福禄寿の尊像の中には当寺書院移築の際土中より発見された戦災前の福禄寿の土偶が収蔵されています。手にする宝珠にふれて円満な人格をいただくようおねがいいたしましょう。福徳は自然に身についてくるものです。
 福寿海無量 是故應頂礼

 さて、人格が円満になるかどうか??

 心行寺から円珠院までの行き方。心行院を出て右へ。左に採茶庵(芭蕉奥の細道出発点)を橋のたもとに見ながら海辺橋を渡り、三叉交差点の右斜めの道へ。直進し、突き当たり右側角が円珠院(所要時間10分)。

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 途中、滝沢馬琴誕生の地を通った。以下の説明を参照してほしい。
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 写真をクリックすると大きな画像で読めます。

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 円珠院(平野1-13-6、03・3641・0491)
 深川七福神:大黒天(有福蓄財)
 11時7分到着。

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 パンフレットによると――。
 円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15年末(1730年)に此の寺に葬られました。
 享保5年(1720年)11月13日画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造りの破顔大黒天が安置されています。江戸時代から、深川の大黒天として有名でした。

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 パンフレットにはさらに大黒天についても詳しい説明があった。

 大黒天信仰には二つの流れがあります。一つは、大黒天を大国主命とする流れ、これは多く神社に祀られています。もう一つは、インド名をマハカーラという仏神の大黒天、これは多く寺院に祀られています。
 円珠院に安置されているのは、仏神の大黒天です。インドのシバ神が、悪神を退治した神話から、仏教に取入れられ、摩訶迦羅天すなわち大黒天となり、夜叉茶吉尼衆を降伏する大日如来の化身となり、忿怒の戦闘神の姿をしていました。ところが大黒天はしだいに招福の神となり、忿怒の相が、笑顔の姿になり、台所財宝糧食をつかさどる大黒天となりました。
 わが国でもっとも古い有名な大黒天は、比叡山の出世大黒天といわれる三面六臂の大黒天です。正面が大黒天、右面が毘沙門天、左面が弁財天、これは大黒天が降魔と施福の二つの面を持っているのを表したものです。その後は、大黒天は施福の一面のみが、強調され、信仰されるようになりました。
 大黒は大国に通じ、大国主命に統合して福神の形となり、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋をかつぎ、米俵の上に座すようになりました。小槌と袋は限りない財宝糧食を蔵していることをあらわし人々に財宝を授ける福神であります。米俵に縁のあるところから、鼠は大黒天の神使いになっています。子の日、特に甲子の日は大黒天の祭日となっています。

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 厨子子の中の大黒天像。

 円珠院から龍光院までの行き方。円珠院斜め前交差点を左に。左手に浄心寺を見ながら平野二丁目交差点を左折し、直進。(途中、左手に間宮林蔵の墓)。少し歩くと左側角に龍光院(所要時間10分)。

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 途中、間宮林蔵の墓があった。以下の説明を参照のこと。
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 写真をクリックすると大きな画像で読めます。

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 龍光院(三好2-7-5、03・3642・3437)
 深川七福神:毘沙門天(勇気授福)
 11時34分到着。

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 龍光院は、江東区のホームページによると、「浄土宗。はじめ、馬喰町(中央区)に創立されたが数回の火事にあい、天和2年(1682)現在地に移転してきました。その時、鬼門除けとして境内東北角に毘沙門天を安置したと伝えられています」。

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 阿弥陀三尊の隣に安置される毘沙門天。

 龍光院から深川稲荷神社への行き方。龍光院を出て左に。阿茶の局の墓で有名な雲光院を左手に見ながら次の信号を左に曲がり深川江戸資料館通りへ。右手に深川江戸資料館。次に松平定信の墓がある霊巖寺を見ながら清澄通りに出る。通りを横断して右に進み一つ目の角を左に入る。右手に本誓寺を見ながら清澄庭園入り口の交差点を右折し、清洲橋通りを横断。左に深川稲荷神社(所要時間15分)。

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 途中、深川江戸資料館の前を通る。

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 大規模改修工事のため、今年の7月23日まで休館。
 リニューアルオープン後に行かなければ。

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 深川稲荷神社(清澄2-12-12、03・3641・8059)
 深川七福神:布袋尊(清廉度量)
 12時到着。

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 江東区のホームページによると、深川稲荷神社の「創立は寛永7年(1630)です。この付近の旧町名を西大工町と称したので、西大稲荷とも呼ばれます」。
 詳しい説明は碑を参照。
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 写真をクリックすると大きな画像で読めます。

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 狐。阿。

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 吽。

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 布袋様。

 深川稲荷神社から深川神明宮までの行き方。深川稲荷神社を出て右へ。2つ目交差点を右折し万年橋を渡る。芭蕉記念館の向いの道を右へ。直進し左手に寿老神(所要時間10分)。
 これで七福神めぐりは終わりなのに、おなかがすいて、途中にあった割烹みや古(常盤2-7-1)に寄ってしまった。

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 深川神明宮(森下1-3-17、03・3631・5548)
 深川七福神:寿老神(延命長寿)
 昼食をゆっくりとったので、到着は13時17分。

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深川神明宮のホームページによると――。
 深川の神明さまのはじまり
 今からおよそ400年の昔、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、住む人もまだいませんでした。その頃、深川八郎右衛門(摂津の人と伝えられる)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手しました。八郎右衛門は神さまを敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りし、開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念しました。これが、深川神明宮の起源です。そして深川の地の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになり、今日に至りました。

神明さまとお伊勢さま
 神明さまのご祭神(おまつりしている神さま)は天照大御神さま、伊勢神宮の内宮の神さまです。天照大御神さまをお祀りした神社を「神明さま」といい、全国にはたくさんの神明社があります。伊勢の神宮との深い繋がりから、第59回のご遷宮の際には、御鏡・御太刀・御盾のご神宝をいただき、ご本殿に大切にお納めしています。
 また、当宮のご鎮座40年祭に当っては、第61回のご遷宮のときに解体した内宮東方殿の御柱が撤げ下され、当宮儀式殿の玄関にお飾りしています。

 神明宮にあった説明。
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 写真をクリックすると大きな画像で読めます。

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 阿。

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 吽。

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 寿老神を祀った寿老神社。

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 食事時間も入れて、13時21分、深川七福神めぐり終了。

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日本橋七福神めぐり~日本橋の奥の深さを知る その2 松島神社(大国神)~末廣神社(毘沙門天)~笠間稲荷神社(寿老人)~椙森神社(恵比寿神)~寳田恵比寿神社(恵比寿神)


 松島神社。ビルの1階が神社になっている。11時47分。
 
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 松島神社(大鳥神社)―大国神 中央区日本橋人形町2-15-2、03・3669・0479
 明暦の大火前、大鳥神社の周囲は歓楽街であり、人形細工の職人、呉服商人、歌舞伎役者、葭町の 芸妓傾城など、芸能関係や庶民の参拝が盛んでした。11月の酉の市がそのしるしです。

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 神社に掲示されていた説明。
 松島神社由緒
 鎌倉時代の元享(1321)以前、この辺りが入り海であった頃小島があり諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、正徳3(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住まいを構え町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
 明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
 大正5年6月10日松島神社と改称。
 昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。

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 阿。
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 吽。


 甘酒横町を通り過ぎ、駐車場を過ぎて右に曲がると末廣神社がある。正午。

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 末廣神社―毘沙門天 中央区日本橋人形町2-25-20、03・3667・4250
 勝運を授け、災難をよける神様として、400年以上前から信仰されています。末廣神社は、この地にあった葭原(吉原)の守り神でした。延宝3年(1675)、社殿を修復した際に、縁起の良い拝啓(末廣扇)が見つかったことから、これに因んで「末廣神社」と名付けられました。

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 神社でいただいた資料より。
 元葭原総鎮守 末廣神社御由緒
御鎮座 410年(慶長元年=1596年以前)
「末廣」呼称 330年前(延宝3年=1675年)
御祭神 宇賀之美多麻命(お稲荷様)、武甕槌命(毘沙門天)
御神徳 営業繁栄、勝運向上

 御由緒
 当社は慶長元年(1596年)以前に「稲荷祠」として現在の境内地辺りに鎮座。よって少なくとも今から410年以前の御鎮座である。
 元和3年(1617年)、遊女屋主人・庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、当時未開の沼地だった周辺地域を開拓し、江戸町1、2丁目・京町1、2丁目を定め、遊女町を開いた。これが「葭原(吉原)のはじまりとなり、町が活気づくにつれ、人々は当社を地主神・氏神として信仰した。
 明暦2年(1656年)、幕府は、江戸市街拡張のため葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、現在の浅草へと移転して「新吉原」が開かれた。
 葭原移転後は、難波町(現・人形町2丁目浪花会)、住吉町(現・人形町2丁目二之部町会)、高砂町(現・富沢町南部地区)、新和泉町(現・人形町3丁目東部南側)の4か町の産土神として仰がれた。当社の周辺には幕府に仕える役人の住宅が多かったことから、これらの崇敬も深かった。幕末期には、玉垣や幕、調度品などが多く奉納されている。
 旧社殿は、昭和20年3月10日未明のいわゆる「東京大空襲」で焼失。同22年に再建(総檜造り)されたものである。

 社号「末廣」の起源
 延宝3年(1675年)の社殿修復の際、本殿から中啓(末廣扇)が出たことから、氏子の人々が悦び祝って、これに因んで「末廣」の二文字を神社名に冠したものである。従って「末廣」と呼称されたのは、今から330年ほど前からである。

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 阿。

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 吽。


 笠間稲荷神社へ。12時15分到着。

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 笠間稲荷神社―寿老人 中央区日本橋浜町2-11-6、03・3666・7498
 日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷神社の東京別社は、江戸末期、笠間藩主牧野貞直公が本社より御分霊を奉斎人々に尊敬され紋三郎稲荷として親しまれております。寿老人は長寿、お導き、幸運の神様として運命を良い方向に切り開いて下さる福徳長寿の守護神です。

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 笠間稲荷神社のホームページによると、笠間稲荷神社東京別社の由緒は――。
 当神社は安政6年(1859年)の11月に、常陸の国(茨城県)にあります笠間稲荷神社より御分霊を受けて、笠間城主牧野家の下屋敷(現在の日本橋、浜町公園の一部)に建てられ、お祀りをされるようになったものです。
 もともとこの地は徳川5代将軍綱吉の寵臣牧野成貞公の拝領地の一部で、邸内には稲荷社がありましたが、延享4年(1747年)に牧野氏が笠間城主となったことが縁で笠間稲荷神社を篤く信仰するようになり、貞直公の時に御分霊を受けてこの社に合祀したのが起源となりました。
 昭和20年には戦災により被害を受け、復興には大変苦慮しましたが、同21年の12月に本社の援助により御本殿と仮社務所ができあがり、28年の9月にはご崇敬者のご尽力により拝殿の再建を見るに至りました。32年には社務所、33年には玉垣、53年には幣殿が完成して、今日に至っております。

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 寿老人は左に祀られている。

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 笠間稲荷神社のホームページは、「稲荷神社とおキツネさん」についても解説している。
 いっぱんに「お稲荷さん」と言えばキツネをイメージされる方が多いようです。キツネはあくまで稲荷大神のお使いであって、神さまそのものではありません。稲荷大神にとってキツネは、熊野神社のカラスや八幡神社のハト、氏神さまの狛犬などと同じように「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。
 これは中世の時代に、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが行われたことによるものです。
 キツネがお使いとして選ばれたのは、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。民俗学者の柳田國男も指摘しているように、日本人には古くから神道の原形として「山の神、田の神」の信仰があります。これは春になると山の神が山から里へ降り、田の神となって稲の生育を守護し、収穫が終えた秋に山へ帰って、山の神となるという信仰です。
 キツネも農事の始まる初午の頃から収穫の終わる秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる頃に山へ戻ります。
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 工事のため、見えなかったが、キツネの大軍団も。


 椙森(すぎのもり)神社へ。12時38分到着。

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 椙森神社―恵比寿神 中央区日本橋堀留町1-10-2、03・3661・5462
 恵比寿神は、商売の神、福徳の神として崇められています。当社は、遠く1000年余の昔の創建、江戸名所図会にも掲載されています。5月16日の例大祭には350貫の大神輿渡御(3年毎)、10月19・20日の恵比寿祭は市と共に有名です。江戸時代の富興業を記念して境内に富塚があります。 

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 阿。
 
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 吽。
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 神社にあった解説。
 椙森神社
 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもの(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
現在は日本橋七福神の恵比寿神としても信仰を集めています。

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 富塚について、神社にあった説明。
 当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建です。
 江戸時代には江戸三森の一つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に残されています。
 この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの富塚です。
 この富塚は、他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物です。今日では宝くじの元祖として多くの人々が心中祈願をしている様です。


 寳田恵比寿神社へ。問屋街を抜けていく。

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 12時50分到着。じっくり各神社を見ているので2時間かかった。
 駐車場に挟まれ、敷地は狭い。狛犬を置くスペースもないようだった。

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 寳田恵比寿神社―恵比寿神 中央区日本橋本町3-10
 宝田村の鎮守で、もとは皇居前にありました。祭壇の中央に安置してある恵比寿神像は慶長11年三伝馬取締役の馬込勘解由が徳川家康から受け、運慶作とも左甚五郎作とも伝えられています。
 1月20日初恵比寿、10月19日・20日には商売繁盛を祈る恵比寿講が開かれています。

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 神社にあった説明より。
 宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長11年の昔360余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田・祝田・千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内、楓山付近)、ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ、住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は、家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として崇拝者は広く関東一円に及び毎年10月19日「べったら市」20日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。

 由緒のある神社のようだが、荒れ方がひどい。両側の駐車場を買い取り、神社として再整備すればいいのではないかと思うのだが。

 いろいろな個性のある神社めぐりは楽しかった。
 昼食は幕末創業の「割烹 日本橋 とよだ」(中央区日本橋室町)で豪華に。

 ※来週は深川七福神めぐりに行く。

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日本橋七福神めぐり~日本橋の奥の深さを知る その1 小網神社(福禄寿・辨財天)~茶ノ木神社(布袋尊)~水天宮(辨財天)

 「新宿山ノ手七福神めぐり」「港七福神めぐり」に次ぐ東京七福神めぐり、第三弾は、「日本橋七福神めぐり」。

※ご開帳がある正月の日本橋七福神めぐりはこちら

 今回参考にしたのは、人形町商店街協同組合のホームページ「日本橋七福神巡りコース」の説明も簡潔でいいが、それよりも、「わが町、人形町」(現在はリンクが切れている)がいい。江戸時代の日本橋、人形町が良く分かる。

 その一部を引用する。
 「関八州の支配者となった徳川家康が江戸に下向してきたのは天正18 (1590)年のこと。早速城の再建と、街の造成に着手しました。当時、江戸城のある台地の東側には、平地と広大な湿地(汐入の干潟)が扇状に広がっていましたが、洪水のたび地形が変わる荒れはてた地域でした。江戸湊(東京湾)の水辺には16もの小島(向島、柳島、松島など現在でも地名として残っている)があり、ここを埋め立てれば、水上交通の便もよく、城に対する下の町(お城<(しろ>下<した>町)が形成されるとして、ただちに造成が始まりました。これが、現在の中央区全体と千代田区一帯の地域です。下町と言われる所以はここにありました」。
 「城造りと平行して進められた町の造成工事は、雨季の洪水に悩まされなかなか困難を極めたようです。堀割を掘って削り取った土を両側の土地に積み上げ、低地の嵩上げを行いながら整地するという一挙両得の方法で、掘割が縦横に巡らされて行きました。日本橋、京橋、神田周辺に昭和20年代まであった河川のほとんどがこの時に出来たもので、日本橋川はその代表、規模の大きな掘割でした」。
 「慶長8 (1603)年征夷大将軍となった家康は、名実ともに天下びとの威信をかけて、全国の大名に千石夫(千石に対して一人の人夫)を動員、豊島州崎の埋め立てという一大土木工事を急ピッチで推し進めました。これにより、浜町以南新橋あたまでの造成が完了し、ほぼ30数年で城下の町割りが出来上がりました。人形町もこの時期に産声を上げたのです」。

 今では想像もできないが、中央区や千代田区は埋立地の「お城下町」だったのだ。

 「江戸開府とともに、徳川幕府に忠誠を示す大名たちは次々と江戸に屋敷をおくようになり、人口は急激に増加してきました。また城の普請や、大掛かりな土木工事のために集められた人々も大挙して城下に入って来ました。人が増えれば、食料や衣料はじめ多くの生活必需物資の供給が必要になるのは当然のこと。そこで家康は、全国の商工業者に呼びかけ、『地代免除』という好条件で、江戸の城下に出店することを奨励しました。『地代免除』による商業育成の制度は、他に類を見ない徳川幕府独自のもので、『権現様御遺訓』として、江戸幕府滅亡まで守り通されました。 この時期、京都、大阪をはじめ伊勢松坂、近江八幡などの意気盛んな商人たちが続々と新開地江戸に集まり、日本橋を中心とした商業街が出来上がったのです」。
 「日本橋の北詰から江戸橋にいたる河岸にはたくさんの魚が運ばれ、魚河岸五町(長浜町、安針町、大舟町、本小田原町、室町)と呼ばれた江戸の台所。魚河岸は大正12 (1923)年関東大震災で築地に移転するまで、およそ320年、この地にありました。 また橋の東側一帯(堀留町、富沢町、大伝馬町、久松町、人形町など)は、絹や綿の着物をはじめ衣類全般を扱う繊維街が発展して行きました」。
 
 地代免除。これが江戸、日本橋発展の起爆剤となったわけだ。

 「江戸が開府され20年ほど過ぎた寛永元(1624)年、京都から江戸に下ってきた歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、中橋広小路(現在の八重洲口東より)で芝居櫓、猿若座(のちの中村座)を開いたのが江戸歌舞伎の発祥と言われています。次いで、泉州堺から来た村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、ともに人形町に歌舞伎上演の芝居小屋を建設しました。場所は現在の人形町三丁目と堀留町の辺りで、当時は堺町に中村座、葺屋町に市村座と、二つの町に大芝居あったことから通称二丁町とも呼ばれていました。周辺には人形操りの芝居をはじめ、説経芝居、浄瑠璃芝居から見世物小屋、曲芸、水芸、手妻(手品)と安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並び、大名から庶民まで身分を問わず多くの人々が、唯一の娯楽だった芝居見物を楽しんでいました」。
 「当時の大芝居見物は、芝居茶屋とセットになった一日がかりの遊興でした。劇業はほぼ2階建て小屋で、茶屋と桟敷が直結しており、まず、茶屋に上がって、昼間は(火を使う照明は許されていなかったので、夜の興行はなし)桟敷で芝居の世界にはまり、幕間には酒に肴、お茶やお弁当が桟敷に運ばれ、芝居が終わると茶屋の部屋でくつろぐといった優雅で贅沢な遊び。芝居はあらゆる流行の発信源であり、役者にあこがれ熱狂する人々の姿は、今では想像もつかないほど大変なものでした」。
 
 商業だけでなくエンターテインメントも多いに発展した。進取の気性をもった人々が江戸に集まってきたのだろう。

 「江戸の初期から、町中には武士を対象とした娼家が現れはじめ、麹町や鎌倉河岸、道三河岸の辺りに数軒づつ散在していました。慶長17 (1612)年,庄司甚右衛門の提案により、これらの娼家を一箇所に集め、廓を作り風紀を取り締まろうということになり、そこで生まれたのが江戸幕府公認の遊郭・吉原です。葺屋町東の葭や葦の生い茂っていた二町四方(約1万5千坪)の沼地が埋めたてられ、塀で仕切り一般の町屋とは隔絶された廓をつくりあげ、町中に点在していた娼家を移しました。はじめは葭原と呼ばれていましたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と呼ばれるようになりました。廓の内は5つの区域に分けられ、それぞれに町名がつけられていました。芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華、武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ、繁盛を極めていたようです」。
 「寛永9 (1639)年の『武州豊島郡江戸庄図』に、塀で囲まれた吉原が記されていますが、それによると現在の人形町通りから竃(へっつい)河岸沿いに元浜町川に出て、北に向かい富沢町の中ほどから西に曲がった一区画。明暦3年の大火で廓のほとんどが焼失し、この地での営業はおよそ40年足らずで、浅草に移ってしまいますが、吉原の大門に通じる街路の名残りとして”大門通り“の名称が今も残っています」。

 吉原は日本橋にあったのだ。江戸の文化や産業は、ほとんどが、日本橋で始まったのだ。

 日本橋への関心が高まったところで、日本橋七福神、スタート!


より大きな地図で 日本橋七福神 を表示

 日本橋七福神詣は、すべて神社で占められているのが特徴。狭いエリアに神社が集中しているので、巡拝は短時間で済む。
 スタートはどこからで構わないということだ。グループで回る時は、どの神社にも近い人形町駅に集まるのが正解ではないだろうか。いい場所がある。COFEE ロンだ。
 喫茶店を開く前に、ご主人の祖先が代々、様々な商売を営んできたという。人形町で11代続く。初代が天明元年(1780年)馬具屋を始め、次いで両替商を営んだ。唐物屋を経て、昭和40年にCOFFEE ロンを開いたという。
 営業は朝8時から。ただし、日曜日は休みだ。

 ロンでモーニングを食べ、小網神社から反時計回りで七福神めぐりをすることにした。10時40分、ロンを出た。
 ロンから小網神社までの道は地図で示す。

 ロンを出て右。最初の通りを右に行って、あとはまっすぐ。10時46分、小網神社に着いた。
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 小網神社―福禄寿・辨財天 中央区日本橋小網町16-23、03・3668・1080
 日本橋七福会のパンフレットが置いてあった。わかりやすい地図もあり、便利。神社の簡単な説明は以下、このパンフレットから引用。
 福禄寿は福徳金運長寿の神、辨財天は金運学芸の神で、東京銭洗い辨天でも有名です。当神社は、強運厄除けの総本社で、約550年前鎮座した古社です。5月の大祭には一之宮二之宮神輿が渡御し賑わいます。また、
11月のどぶろく祭は奇祭として有名で、強運厄除のみみずくも正月まで授与されます。

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 神社に置いてあったパンフレットによる詳細な説明。
 小網稲荷神社略縁起
 武蔵国豊島郡入江の辺に萬福庵と称し、観世音と辨財天とを安置する庵があった。この庵は、恵心僧都の開基により、その観世音と辨財天とは僧都の作と伝えられている。開基の年代は明らかではないが、僧都の当時を考えれば、およそ一千年前ということになろう。
 その後文正元年(1466)悪疫が流行して人々の困苦その極に達した。その頃、網師の翁、海上にて得た稲の穂を持って庵を訪れ、数日庵に過した。ある夜、開基の恵心僧都が庵主の夢枕にたち、翁を稲荷大神と勧請すれば、一村の悪疫消滅することを告げて夢より去った。夜明けて庵主は翁を尋ねたが、その姿を見ることができなかった。庵主はその託宣を村民に告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建し日夜祈願をつづけた。その後日ならずして悪疫静まり、人々の歓喜たとえるものがなかったといわれる。
 その後、領主太田持資公(道灌)は、神徳著しきことを聞き、庵を訪れ、神社に詣で、土地を寄付し、小網山稲荷院萬福寺と名づけたと伝える。
 その後慶長年問より、この地を当神社に因んで小網町と名づけ、当神社を氏神と崇めた。
 明治に入り、神仏分離の令により、萬福寺と分離、明治6年7月5日、村社に指定された。
 現社殿・神楽殿は、大正期、明治神宮造営の工匠長、内藤駒三郎宮大工一門により昭和4年に造営され、戦禍にもまぬがれ、現在、日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築である。特に、向拝に施された上り竜下り竜の彫刻は、見事なもので、強運厄除の竜として拝されている。社殿・神楽殿は、中央区文化財に登録されている。
 又、当社の二之宮神輿は、大江戸飾神輿と称し、大江戸飾神輿発祥の神社として知られる。

萬福舟乗辨財天社略縁起
 当辨財天は、その昔、当神社と同境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる萬福寿寺に安置されていた辨財天である。
 その後、明治初年、神仏分離の法令施行後、当神社と分離し、計らずも寺院は廃絶したため、明治2年(1869)当神社に移され、奉斉されるに至った。
 辨財天は、同寺院にちなみ、萬福舟乗辨財天と称え、現在、日本橋地区を中心に、神奈川、埼玉、千葉の近郊にまで崇敬を広げている。 又、東京銭洗い辨天とも呼ばれる。

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 正月は元日より7日まで「日本橋七福神詣」が行われる。当神社の辨財天および福禄寿は、第三の巡拝社に当り、宝船や色紙を受けて日本橋の八神社をまわる参拝者で賑わう。
 また、1月1日より7日までは「東京下町八社福参り(下町八福神参り)」巡拝社の一つとして多くの参拝者で賑わう。

 七福神めぐりだが、七福神の像などは見られないようなので、今回は、狛犬や狐にこだわる。 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると――。
 一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。昭和時代以降に作られた物は左右共に角が無い物が多く、これらは本来「獅子」と呼ぶべきものである。
 阿吽(あうん、Skt:A - hum)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。

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 阿。

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 吽。

 小網神社から茶ノ木神社までは道が分かりにくいので地図で示す。

 途中、イオニア式御影石の列柱が見事な東京穀物商品取引所の建物(昭和4年建築)などもあり、歴史のある街なのだな、と感じた。
 茶ノ木神社はビルの谷間にあった。11時17分。

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 茶ノ木神社―布袋尊 中央区日本橋人形町1-12-10
 神社の周囲に巡らされた茶の木の緑が見事でこの名がついたと伝えられています。又、佐倉城主の屋敷内はもとより町方にも火災がなかったので火伏の神といわれています。布袋尊は福徳円満の神として信仰されています。

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 神社にかかげられてあった説明。
 茶ノ木神社(布袋尊) 
 「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は、倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝の茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころからか誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して、一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和60年布袋尊を御遷座合祀り申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。

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 阿。
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 吽。 

 次の水天宮はすぐ近く。11時22分。
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 水天宮前交差点。交番も神社の一部のように見える。
 水天宮―辨財天 中央区日本橋蛎殻町2-4-1、03・3666・7195
 有馬頼徳公が、加賀百万国の前田公と能の芸を競われることになり、辨財天に願をかけられ、満願の日にめでたく勝つことができたましたので宝生辨財天ともいわれます。御像は運慶の作といわれ、芸事や学業貨殖に霊験あらたかといわれています。

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 社務所でいただいたパンフレットより。
 水天宮由緒記
 水天宮のご祭神
【天御中主大神】あめのみなかぬしのおおかみ
 天地の最初に出現された、宇宙の根源の神様です。日本の神々の祖先神であり、水天宮の子授け、安産祈願に広大無辺のご神徳を発揮されます。
【安徳天皇】あんとくてんのう
 高倉天皇と建礼門院の第一皇子として、1178年にお生まれになりました。生後1ヶ月で皇太子となり、わずか3歳にして第81代天皇に即位されました。
 祖父・平清盛の死後、源氏に追われて各地を転々とし、ついに1185年、祖母の二位の尼に抱かれ、壇ノ浦の海に身を投げられました。
【建礼門院】けんれいもんいん
 平清盛と時子(二位の尼)の次女として1155年お生まれになりました。高倉天皇の母となられます。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水されましたが、助けられ、京の長楽寺で剃髪。余生を大原の寂光院で送り、1213年、生涯を終えられました。御名・徳子。
【二位の尼】にいのあま 平清盛の正室。宗盛、知盛、重盛、徳子の母君。清盛の死後出家し、従二位に叙せられたので二位の尼と呼ばれます。孫の安徳天皇と京都から西へ逃れ、壇ノ浦で入水されました。御名・時子。

 水天宮の由来
 水天宮(本宮は福岡県久留米市瀬下町鎮座)の発祥は、今から約700年前にさかのぼります。
 壇ノ浦の合戦で、安徳天皇は祖母の二位の尼に抱かれて入水されました。官女の按察使局は「我等の霊を慰めよ」という二位の尼の命したのがをうけ、筑後川の辺に小さな祠を建てて、その御霊をお祀りしました。これが水天宮の起源といわれています。
 その後、久留米市藩主有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に敷地が寄進され、現在に至ります。
 東京の水天宮は、文政元年に参勤交代のため江戸詰をしていた当時の藩主有馬頼徳公が、久留米水天宮からの御分霊を、江戸屋敷内(現在の港区・芝公園)にお祀りをはじまりです。本来屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は篤く、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったため、毎月5日の縁日に限り屋敷を開放して、一般の参拝を許可しました。人々は情け深い事を感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て「なさけ有馬の水天宮」と口癖のように言い合い、江戸の流行り言葉となるほどでした。
 水天宮は明治4年、屋敷の移転と共に赤坂に移り、その翌年現在の日本橋蛎殻町に移転しました。
 日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。
 その後、大正12年の関東大震災で社殿は焼失しましたが、御霊代は隅田川にかかる新大橋に奉遷され無事でした。(その時の模様を記した石碑が新大橋の側に建てられています)現在の権現造りの社殿は、昭和42年11月に建てられたものです。
 ご利益としては安産・子授けはもちろんのこと、水難除け・渡航安全の神様として有名です。
 境内には「火風神社」「秋葉神社」「高尾神社」、芸能・貨殖の神「辨財天」、幕末の勤皇の志士で水天宮の第二十二代宮司真木和泉守保臣を祀る「紫灘神社」が鎮座しております。

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 阿。

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 吽。

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 社殿。

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 すごい賑わいだった。

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 宝生辨財天
 祭礼日 五月第二巳ノ日
 御祭神 市杵島姫大神(いちきしまひめのおおかみ)

 久留米藩第九代藩主有馬頼徳(よりのり)公が
 加賀藩第十一代藩主前田斉広(なりなが)公と
 室生流能学の技を競われた際
 辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた
 それ以来、宝生辨財天と敬われ
 芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと
 現在に至るもで篤く信仰されている

 毎月5日と巳の日には
 ご社殿の扉が開き
 宝生辨財天のご神像を拝観できる

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 水天宮の後ろを通って、松島神社へ。

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港七福神めぐり~新旧のコントラストが面白い その2 櫻田神社(壽老神)~氷川神社(毘沙門天)~大法寺(大黒天)~十番稲荷神社(宝船)


 天祖神社から櫻田神社までは、紹介した地図では一度六本木駅に戻るルートになっているが、ほぼまっすぐ行く道があるので、地図で示した。

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 国立新美術館を右に見て。
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 六本木ヒルズ方向に進む。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「六本木ヒルズ(ろっぽんぎヒルズ、英称:Roppongi Hills)とは、森ビルが17年の歳月を掛けて行った六本木六丁目特別再開発計画の一環で建築された、超高層ビル『六本木ヒルズ森タワー』を中心とした複合施設である」「主な施設として、ゴールドマン・サックス、J-WAVE、・・・などの企業テナントや森美術館、東京シティビューなどの文化施設が入居する森ビル所有の六本木ヒルズ森タワー、テレビ朝日本社ビル、ハリウッド化粧品本社やハリウッド美容専門学校のあるハリウッドビューティプラザ、ホテル(グランドハイアット東京)、シネマコンプレックス(TOHOシネマズ 六本木ヒルズ)、屋外型イベントスペース(六本木ヒルズアリーナ)、住居(六本木ヒルズレジデンス、ゲートタワーレジデンスなど)、TSUTAYAやルイ・ヴィトンなどを始めとする多数のショップやブティック、レストランなどがある」。

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 テレビ朝日通りに行くには、地下通路を通らなければならない。

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 少し歩くと右手に櫻田神社(港区西麻布3-2-17、03・3405・0868)がある。長寿を授ける「壽老神」を祀っている。15時9分。
 
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 MINATOあらかるとによると、「櫻田神社は、1180年頃に霞ヶ関の地に建立されたといわれ、その後太田道灌が再興し、1624(寛永元)年に現在のところに遷宮しました」「華やかな六本木ヒルズのすぐそばに位置し、六本木通りからテレビ朝日通りに入り、けやき坂通りを左に見ながら歩いていくと右手に鳥居があります」「テレビ局が近い場所がら、芸能人がお忍びで参拝することもあるとか」「神社周辺はかつて陸奥白河藩阿部播磨守(はりまのかみ)の下屋敷があったところ。新選組の沖田総司の生誕地でもあり、総司の墓が近くのお寺にあります」。

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 ここでも資料をいただいた。
 櫻田神社
 御祭神 豊宇迦能賣大神(とようかのめのおおかみ)
 
 御由緒
 今を遡ること800余年、治承4年(1180)武蔵国の奉行渋谷庄司重国が、霞山(現在の溜池から霞ヶ関にかけての小高くなった一帯)に焼狩をしようとした前夜、その夢枕にご祭神のお使いの白狐が現われ、狩りを行えば必ずや祟りがあるであろうと告げた。重国はこれは正夢と、直ちに狩りを中止し、当時東国に力を持っていた源頼朝公にことの次第を報告したところ、同年11月霞山稲荷大明神として、現在の霞ヶ関桜田門外に社を造り祭るよう命を下した。
 後の文治5年(1189)秋、頼朝公は奥州平討奉賽の祭りを行い、神供料として30貫の田地を寄進され、御神田と一般の田地との境界に桜の木を植えられた。この桜が、年毎に咲き誇り、人々が御神田を「桜田」と讃え、付近住民もその住地を桜田村と称するようになった。尚、この桜は当社御遷座にあたり「内桜田」現在の皇居吹き上げの庭に移されたと伝えられる。
 時は下り、文明年間(1461~86)太田道灌公は当社の縁起を伝え聞き、直ちに神殿を改修再興され、地領の守護神として崇敬された。また、当時道灌公は太刀甲冑等を寄進され永く当社の御神宝として伝えられたが、「青山火事」により焼失した。当社は永く霞ヶ関に御鎮座になられたが、徳川氏入国以来、譜代大名屋敷が出来るにつれ寛永元年(1624)に現在の地に御鎮座せられた。
 当社は幕末期から戦前にかけては、新撰組の沖田聡司や、明治の名将乃木希典将軍が、初参りに参詣した神社として知られ、将軍が当日着用した産着は現在赤坂8丁目に御鎮座になる、乃木神社に於て社宝として保存されている(非公開)。
 また、戦前は硫黄島にて玉砕された旧男爵、西竹一帝国陸軍大佐も当社氏子であった。戦前までの当社大祭には、二階屋を優に越す鳳輩(昭和20年空襲による戦火にて消失)を、現在の新橋内幸町交差点付近(当時の氏子地)に設けられたお旅所まで牛に引かせ、丸二日を掛けて当社とその間を往復する盛大な神幸祭が斎行された。又昭和30年代中頃までは、神振行事のお神楽や、境内に櫓を立てて盆踊りの輪が夜更けまで続けられたが、その後の都市化や氏子減少により衰退してしまった。その後の昭和50年、仙台宮司や氏子悲願であった社殿改築も無事終了し、現在の装いとなった。
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 ネット上で資料を調べている時に、櫻田神社宮司のブログを見つけた。神社参拝の作法なども紹介していて、神社初心者にはありがたいブログだ。

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 壽老神はこの稲荷神社に祀られているという。
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 テレ朝通りを下り、警戒厳重な中国大使館の前を通り過ぎ、愛育病院前交差点(交番がある)を左。
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 仙台坂上交差点を左。
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 少し歩くと毘沙門天を祀った氷川神社(港区元麻布1-4-23、03・3446・8796)がある。15時44分。
 MINATOあらかるとによると、「創建は諸説ありますが、万治年間(1658~61)に現在地より300mほど北にある一本松付近から現地へ移転」「江戸氷川七社の一つとして崇敬されてきました」「神社前の一本松坂を挟んで安藤記念教会、アルゼンチン大使館、パキスタン大使館、西町インターナショナルスクールが並んでいて、外国人の参拝者も珍しくありません」「鳥居をくぐるとすぐ右に大きな神輿が収められた神輿蔵があり、その左に立派な神楽殿が控えています。本堂は鮮やかな朱色で、背後にそびえる高層マンションとのツーショットが印象的です」。
 『ウィキペディア』によると、「1990年代の人気アニメ『美少女戦士セーラームーン』で、火川神社の名で登場し、且つ同作品の主要人物の一人であるセーラーマーズ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことで有名である」。ふ~ん。

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 ここでも資料をいただいた。
 麻布総鎮守 氷川神社 由緒
 ご祭神(おまつりしている神さま)
 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)

 ご神徳 厄除け 災難除け 開運 商売繁盛 交通安全

 境内末社 
 應恭稲荷
  高尾稲荷

由来
 天慶五年(942)源経基朝臣が勅命を受けて 天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征したときに 武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現、麻布一本松)境内二千余坪を勧請しました。経基は文武に秀でた人物で、鎌倉幕府の栄華を築いた清和源氏の祖です。社ちかくには 度重なる火災にあった一本松の松木をご神木とし、宮村町、宮代町、宮下町、鳥居坂町等といった社に関連した地名もありました。
 江戸城を修築した太田道灌も 氷川神社を篤く崇敬していたことで関係がある人物です。
 一本松の社は遠く富士山を眺望でき四方絶景であったため武将・貴族たちは鷹狩りで遠出をした時立ち寄り参拝しました。
 萬治2年(1659)の時、方位の関係などで現在地にご遷座 しました。江戸時代以降も 祈願とともに 芝居や能も盛んにおこなわれています。天保3年(1832)のご祭礼の催行図も江戸のいきをにぎやかに表しています。江戸氷川七社の一社になっておりました。
 明治、大正時代を経て 昭和19年(1944) 戦災に遭遇。しかし、千貫宮神輿庫、神楽殿、手水舎は 難をのがれました。
 氏子区域(現、元麻布・南麻布・西麻布と麻布十番・六本木・青山の一部)には 多数の諸外国の大使館があり 国際色豊かな おやしき町のお社として広く人々に崇敬されて 現在にいたっております。

毘沙門天(港七福神) ご神徳 財運 勇気 勝運 学業成就
 福をよび徳をもたらす七福神まいりは 室町時代終りから江戸時代と盛んに信仰されてきました。神社におまつりしてある毘沙門天はまずらしく 勇気と財福寿を授け与える神です。
 善を積む人々の多くの願いを聞き入れ、それらをかなえてくれます。

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 少し歩くと大黒坂があった。次の大黒天を祀る大法寺(港区元麻布1-1-10、03・3451・6039)も近い?

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 大法寺に到着。15時55分。
 MINATOあらかるとによると、「創建は1597(慶長2)年。山門を入って左には、お稲荷様が祀られています」「毎年2月3日の節分の日に開かれる『豆まき』は盛大。境内でにぎやかに豆まきが行われた後、近くの麻布十番商店街の年男を乗せた山車がパティオ通り、十番通りなどを練り歩く『豆まきパレード』が繰り広げられます」。

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 このお寺については説明文が貼ってあったが、達筆なので読み違いもあるかもしれない。
 原文の画像は次の通り。
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(画像をクリックすると大きな画像で見られます)。
 港七福神 大黒天 縁起
当山は栄久山大法寺と号し江戸時代は赤門寺と呼ばれ、甲子の祭日には縁日が盛んで賑わいました。慶長2年11月(1597)、慈眼院日利上人によって創立されました。享保15年(1730)、日舜上人法華経三万部読誦の功徳によって不思議な大黒天尊蔵を感得されました。この御尊像は麻布六本木の旧家伊勢屋長左衛門の秘像仏で伝教大師御作三神具足大黒尊天でありました。ある夜、この御尊像長左衛門の夢枕にが立ち「我れ汝の家にあること久し今法華経読誦の功徳により法華経守護の為め大衆に福寿を授けんことを誓い法華経読誦の地に往かん」と、長左衛門夢さめて翌朝、この秘蔵仏を拝せんとせしが、不思議にそのお姿なきに驚き近隣に法華経読誦の地を求め、一本松に到り日舜上人の法華経三万部読誦を知り、茲に我が家の秘蔵仏あることを不思議に思い上人に霊夢を語り、献納されたました。
 時に当山五世妙乗院日亮上人 この尊像の霊夢を得て大衆に福寿を授けんことを誓い日舜上人より御尊像を拝受し永代当山に奉安し大衆帰依の道を開きました。
 一本松は天慶3年(940)、六孫王源経基公が承平の初め平将門の反逆を察し東征の帰路当地も来り一本松に衣冠を掛け休息せられし処より「一名冠の松」とも呼ばれ江戸名所の一つとなりました。
・三神具足とは御尊像のお姿が大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸をあらわして居られる処からたたえられることになりました。

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 七福神をめぐって、最後の宝船へ。麻布十番の豆源本店の横を通り、道路を渡ったところに、宝船を祀った十番稲荷神社(港区麻布十番1-4-6、03・3583・6250)がある。

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 都営大江戸線の麻布十番駅の入り口がすぐ右にある。こんなところに神社があるのかと思っていたが、この神社が宝船を祀っているのは知らなかった。16時15分。途中、食事もしたが、スタートしてから5時間弱かかった。

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 MINATOあらかるとによると、「七福神を乗せた宝船の石造は鳥居の左側にあり、右側には火傷、防火のお守りとして昔から伝えられる『ガマ池伝説』を物語るガマ親子の石像が置かれています」「古池から突如大ガマが現れ、水を吹きかけ猛火を消したという伝説から、火の災難から守ってくれるといわれていますが、最近では『若ガエル、幸せカエル、落し物カエル、何でもカエル』などのご利益が信じられ、親しまれています」。
 MINATOあらかると、書くことがないのか、七福神めぐりなのにガマのことばかり書いている。

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 こちらは神社と宝船にこだわろう。
 資料をいただいた。
十番稲荷神社御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(商売繁盛・生活守護)
日本武尊(やまとたけるのみこと)(武運長久)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たぎりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
(宗像三女神 学芸 芸能 美貌)

十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)御由緒
 十番稲荷神社は、もと末廣神社(旧坂下町鎮座)及び竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)である。昭和20年4月15日、空襲により両神社は焼失してしまったが、昭和25年6月 復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定された。その後両社は合併し十番稲荷神社と改称、平成9年3月29日に現社殿に建て替え、遷座祭が斎行された。

末廣神社(すえひろじんじゃ)御由緒
 慶長年間(1596~1615)に創建され、元禄4年(1691)には坂下東方雑式に鎮座していたが、同6年坂下町41の社域に遷座された。
 往古より境内に多数の柳があり「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して、扇の形を成していたことから「末廣の柳」と呼ばれるようになり、社名に冠され「末廣稲荷」と称された。その後、明治20年4月に「末廣神社」と改称された。

竹長稲荷神社(たけちょういなりじんじゃ)御由緒
 創建は一説に和銅5年(712)あるいは弘仁13年(822)に慈覚大師の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請したと伝えられている。延喜式内社の稗田神社と目される古社である。その後、弘安2年(1279)に鳥羽氏が社殿を再建、そして寛永元年(1624)3月に永坂町に遷座された。
 現存はしていないが社宝に広重作の宝船の絵があり、戦前は宝船の巡拝所としても有名であった。 
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 十番稲荷神社のホームページでは「港七福神めぐりの沿革」を説明していた。
 港七福神めぐりの沿革は、戦前の昭和8年発足の「麻布稲荷七福神詣」を始めとします。これは旧麻布区内の稲荷神社(境内社を含む)で構成されており、氏神(産土)様へのお参りの励行と、お稲荷様の現世利益の信仰、加えて市電とのタイアップによる地域振興を意図して発足したようです。その後、港区の観光協会の提案により、弁才天、大黒天をお祀りする寺院二ヶ寺を加えて、新しく「港七福神めぐり」がスタートしました。
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 宝船の石造は鳥居に向かって左側にある。神様たちの表情がいい。

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 十番稲荷神社と宝船(ホームページより)
 当社は港七福神の内、「宝船」のおやしろとして知られております。「宝船」を入れて合計8ヶ所巡拝するのが特色となっております。
 なぜ当社が「宝船」のおやしろとして、七福神めぐりの中に加わったのでしょうか?実は当社の前身である竹長稲荷神社(永坂町)が、戦前の麻布稲荷七福神めぐりの「宝船」としてメンバーに入っていたのです。因みにもう一つの前身、末広神社(坂下町)は相殿に宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)をお祀りしていたので、弁才天の巡拝所となっていました(末広神社の弁才天は、江戸時代の江戸百社弁天めぐりの一社として著名でした)。
 竹長稲荷神社には、古くより安藤広重筆の宝船の画像が伝来していたようで(戦災により焼失、現存せず)それに因んで麻布稲荷七福神めぐりの頃は、竹長稲荷をお参りして、木のミニチュアの船を求め、各社寺にて七福神の木彫像を集めて歩く形式であったようです。
 現在、お参りの方に押しております「宝船」の印影は、当時の竹長稲荷神社でお授けしていた御朱印のデザインをそのまま踏襲しております。

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 今日、めぐった順に振りかえる。弁財天。
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 恵比寿。
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 布袋尊。
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 福禄寿。
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 壽老神。
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 毘沙門天。
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 大黒天。

 七福神めぐりを終え、更科堀井に向かった。

 ※来週は日本橋七福神めぐりに行く。

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港七福神めぐり~新旧のコントラストが面白い その1 宝珠院(弁財天)~熊野神社(恵比寿)~久国神社(布袋尊)~天祖神社(福禄寿)

 東京七福神めぐり、新宿山ノ手七福神めぐりに続く第二弾は、「港七福神めぐり」。ダイナミックに変わる港区の新しいビル街と、古い神社仏閣の対照的な光景が楽しみだ。

 まずは下調べ。港区の中小企業や観光情報に関するホームページ、「MINATOあらかると」に七福神めぐりを紹介するページがある。
 モデルルートは久国神社(布袋尊)→ 天祖神社(福禄寿)→櫻田神社(壽老神)→氷川神社(毘沙門天)→大法寺(大黒天)→十番稲荷神社(宝船)→熊野神社(恵比寿)→宝珠院(弁財天)。

 しかし、スタートは宝珠院と決めた。
 理由の一つは集合場所。何人かでこのコースを回る場合、集合場所が必要だ。宝珠院のすぐ近くにザ・プリンス パークタワー東京(東京都港区芝公園4-8-1、03・5400・1111)がある。1階のロビーラウンジが待ち合わせに最適だ。
 そして熊野神社→久国神社→ 天祖神社→櫻田神社→氷川神社→大法寺→十番稲荷神社の順に回る。
 宝船の神社は珍しい。七福神を参拝し、最後に宝船、というのが楽しいではないか。
 さらに、近くに行きたいお店もある。寛政元年(1789年)創業の更科堀井だ。現代と「江戸以前」を行き帰りした後、老舗の蕎麦を食べる。これはいい企画だ!
 行く前から盛り上がっている。

 ただ、回ってみた時に、「MINATOあらかると」の地図では寺や神社の正確な場所がよく分からず、不便だった。熊野神社でもらった地図(平成15年12月作成)が分かりやすいのでその画像を添付する。
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(地図をクリックすると大きな地図で見られます。印刷はA4横で)。

 それでは、港七福神めぐりスタート!

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 都営大江戸線赤羽橋駅下車。9時17分。
 東京タワーとザ・プリンス パークタワー東京が見える。
 ザ・プリンス パークタワーへ。

 1階のロビーラウンジでのんびり。
 ロビーラウンジで本などを読んでくつろいでいたら、2時間くらいたってしまった。(^^ゞ

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 さっそく外に出ると数分で宝珠院(港区芝公園4-8-55、03・3431・0987)に到着。11時21分。

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 MINATOあらかるとによると、「宝珠院は1685(貞亨2)年、増上寺三十世霊玄上人によって弁天堂の建立と同時に開創されました。公園を思わせる境内は、都心にいることを忘れさせてくれる増上寺周辺の木々に包まれ、中央には弁天池が広がり、散策の疲れを癒してくれます」「朱色の弁天堂のほか、高さ2mもある閻魔大王の木彫りの像(港区指定文化財)が収められた閻魔堂があり、宝珠院の縁日は「お閻魔さま」と呼ばれて親しまれていました」。

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 弁天様について説明があった。
 当院安置
 「開運出世辨才天」
 三井寺の開山智証大師が858年
 竹生島で奇縁に依り彫られその後
 源家に伝わり再興に当り頼朝公深く
 信仰し天下を平定される。
 又徳川家康公も厚く信仰され天下の
 平和を築かれ除波辨才天を改め開運
 出世辨才天と改称されました。古来より
 一心に崇敬拝する者に開運出世巳成金
 福壽円満厄難消滅縁結びの利益を
 授けられ現在港区七福神の一つに制定
 されている。
  各種祈願会・人生相談承ります。
  毎日朝10時より夕方5時まで 緊急は随時
  (予約制ご付き前もって当院寺務所にご連絡下さい)
 
 浄土院 宝珠院

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 『東京七福神めぐり』(東京街歩き委員会、生活人新書)に、より分かりやすい説明があった。少し長いが引用する。
 「住職の行方正明さんによれば、こちらの弁財天の歴史は清和天皇(858~76)の代にまでさかのぼる。三井寺の開山、智証大師が遣唐されて帰朝する際、大荒れだった海が突然凪ぎ、空には弁才天女が現れたという。帰朝後大師は、丹精込めてその尊像を彫刻し、「除波尊天」と名づけた。これが現在、宝珠院の厨子の中に安置されている弁財天だといわれる」「尊像は、貞純親王から源家、北条家に伝えられ、数人の上人の手を経たのち、西誉(せいよ)上人に授けられた。西誉上人は増上寺を建て、以後代々の上人が尊像を伝えてきたとつたえてきたという」「その後、増上寺と縁を結んだ徳川家康も尊像を篤く信仰し、江戸幕府の礎がかなったことから、これを『開運出世弁財天』と名づけた」「しかし、増上寺の中に安置されていては、一般人は直接参詣できない。そこで貞亨2年(1685)、増上寺の外に弁天堂を建立。同時に宝珠院が開創された」。
 
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 『東京七福神めぐり』によると、「千数百年の歴史をもつ弁財天はすでに真っ黒だという」。写真はご前像。
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 港区指定文化財の閻魔大王。
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 本堂。 
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 説明はなかったが、弁財天の化身「宇賀神」が巳(へび)の姿をしている関係で、へびの像があるのではないか。
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 お地蔵様を見ていると周りに東京タワーなどがあるのを忘れる。

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 東京タワーの横を通って桜田通りへ。
 次の熊野神社(港区麻布台2-2-14、03・3589・6008)までは、宝珠院から歩いて7、8分ということだったが、勘違いして飯倉交差点を右に曲がってしまい、時間がかかってしまった。

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 正解は飯倉交差点を左折し、麻布十番方向へちょっと行ったところ。12時15分。

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 MINATOあらかるとによると、「熊野神社は桜田通りの『土器坂(かわらげざか)』の途中にあり、この坂名は、かつて坂下に土器職人が住んでいたことから名付けられました」「東京タワーを見上げるように建っている鳥居をくぐって階段を上がると、右側に手水が流れ、さらに階段を上がった正面に本殿があります」「神社の勧請・縁起はとても古いのですが、1703(元禄16)年の火事で記録が焼失しわからないといわれています」。恵比寿神を祀っている。

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 『東京七福神めぐり』によると、「現在は本堂に合祀されている恵比寿神は、もともとは境内左手にある末社の太田稲荷神社に祀られていた。この社はその名のとおり、太田道灌の守護神で、勝手ヶ原で戦勝した際に鯛を供えて感謝したという。その故事により、人々が祈願成就に土製の鯛を供えるようになり、恵比寿神として信仰されるようになった」。

 飯倉交差点を飯倉片町交差点を経て、久国神社(布袋尊)へ。やや距離がある。警戒の厳重なロシア大使館や麻布郵便局の前を通る。

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 首都高速都心環状線沿いの道を六本木一丁目方向へ。クルマで走っているとあまり気づかないが、ここまで坂が本当に多い。行合坂もどんぶりのような坂。

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 高いビルが見えてくる。

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 アークヒルズ。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「アークヒルズは、東京都港区赤坂一丁目と同六本木一丁目にまたがって位置する複合施設である」「アークヒルズは森ビルが開発・設置し、管理を行っている。計画開始から20年近い歳月を経て、当時の民間による都市再開発事業としては最大級の規模の複合ビルとして1986年に完成した。赤坂=『A』kasakaと六本木=『R』oppongiのつなぎ目=『K』notに存在することから頭文字をとってARK Hillsと名付けられた」。主要施設はアーク森ビル(37階建のインテリジェントオフィス)、サントリーホール(パイプオルガンを擁する大ホールと小ホールで構成されるクラシック音楽専門ホール)、ANAインターコンチネンタルホテル東京(東京全日空ホテルとして1986年に開業。2006年にホテル運営を英国インターコンチネンタルホテルズグループと合弁化(IHG-ANA)し、2007年4月より現名称へリブランドした)など。
 久国神社は六本木通りの向こう側。歩道橋で渡るか、地下道を行くか迷ったが、アークヒルズの前から地下道を通って行くことにした。 

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 地下道。地下鉄の地下通路のような感じだが、地下鉄の駅とはつながっていない。

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 赤坂駅方面に行き、最初の道を左。

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 少し歩くと右手に久国神社(港区六本木 2-1-16、03・3583・2896)がある。「布袋尊」を祀っている。13時5分。

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 MINATOあらかるとによると、「太田道灌が鎌倉時代の名工久国作の宝剣を寄進したことで、『久国稲荷大明神』として崇敬されています」「階段を上ると狛犬が出迎えてくれ、小ぢんまりとした境内の右手に大きな石灯籠が二つあり、その奥に本殿が鎮座しています」。

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 この神社には親切な宮司さんがいて、いろいろ教えてくれた。
 「久國神社由緒記」もいただいた。それによると――。
 御祭神  倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
        古来より五穀を始め全ての食物や養蚕の「農業神」「福徳神」として、商売繁盛殖産興業の守り神で         す。

 御由緒
 当社の勧請は年月不祥ながら、古くは元千代田村紅葉(現皇居内)に鎮守されていましたが長禄3年(西暦1457年)太田道灌江戸城築城につき、寛正6年(西暦1465年)溜池に城隍(筆者注=城壁と壕)の鎮守として遷座され、のちに久國作の刀が寄進されましたので久國稲荷神社と称しました。
 永禄3年(西暦1560年)基地が公用に属しましたので寛保元年(西暦1741年)に当初に遷座されました。当時の溜池には神木の榎がありましたが現存していません。昭和2年(西暦1927年)10月25日久國神社と称するようになりました。

 例祭日  6月8日
 御社殿  
 明治7年(西暦1874年)8月の記録には、「先年青山辺ヨリ出火のミギリ類焼ニツキ仮営」とあり明治21年(西暦1888年)5月6日拝殿再建、大正11年(西暦1922年)6月本殿、拝殿、社務所を再建しましたが昭和20年(西暦1945年)5月25日の大空襲で御神輿庫、御水舎を除き全焼しました。
 昭和28年(西暦1953年)8月復興再建し現在に至っています。

七福神
 当社、町会の諸祭事、諸行事などにより氏子の方々始め皆様方に尊崇されております。
 港区七福神の一つ布袋様も合祀されており、港区観光協会主催の「七福神めぐり」が昭和34年(西暦1959年)から発足したのを始めとして毎年正月の初詣には参詣の人達で賑わっております。

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 正面拝殿の額は勝海舟の筆によるもの。

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 布袋様が祀られている。

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 笑顔の布袋様。

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 六本木ヒルズが見える。

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 アークヒルズも。

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 10円でひけるおみくじ。外国人の多い六本木とあっておみくじの裏は英語で記載されている。大吉は「 Excellent」、吉は「Very Good」と書かれているそうだ。
 この時ひいたおみくじは「末吉」で英語では「Good」だった。
  
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 もえ出ずる
 若葉の色ぞ
 美しき
 花さき
 実のる
 末もみえ
 つつ

 How beautiful the color of new-born leaves, very soon are the flowers coming out.

 次第次第に運がひらけて盛になります あまりに一足とびにとんで事をしようとするとあやまります
 時を見て心ながくのぞみを達しなさい
 
 By and by your fortune will be better. But go steadly,or you'll fail. Take your time and realize your wish with patience.

 願事 にわかに事をなさんとすれば災あり
■wish:Don't be irritated or you'll fail.
 待人 おそけれど来る
■expected visitor:He(or she) will come, but late.
 失物 出る 低い所
■missing thing:It can be found on a lower place.
 旅行 よろし さわりなし
■travel:No problem.
 商売 次第に上りて利
■business:It's getting better. You'll get profits.
 学問 早目に目標をたて全力を尽せ
■study:Set your target early. Do your best.
 相場 上がる気配あり
■speculation:It's likely to rise.
 争事 勝つとも損あり
■game and match:You win but you'll make a loss.
 恋愛 誠意を示すことが大切
■love:It's important to show your sincerity.
 転居 十分ならず
■removal:Put it off.
 出産 さわりなし 安産
■childbirth:No problem.  
 病気 弱気にならねば治る
■illness:Have a strong will, and you'll recover from it.
 縁談 叶うともおそし
     さわげば破れる
■marriage proposal:It will be arranged,but later. Be patient, or it will be broken.

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 歩道橋を使うとここにおりてくる。歩道橋を使う場合は右に曲がって最初の角を左。
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 東京ミッドタウンを経て、天祖神社(福禄寿)に向かう。
 『ウィキペディア』によると、「東京ミッドタウン(英称:Tokyo Midtown)は、三井不動産主体で東京都港区赤坂九丁目にあった旧防衛庁跡地の再開発計画により誕生した、複合施設及びその地域一帯である」「シンボルであるミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248mと、東京都庁舎第一庁舎をも追い抜き、都内で最も高い超高層ビルである。日本全体で見ると、横浜ランドマークタワー(296m)、大阪ワールドトレードセンタービルディング(256m)、りんくうゲートタワービル(256m)に次ぐ四番目の高さ」「注目すべき施設としてはミッドタウン・タワー最上層に位置しているホテル「ザ・リッツ・カールトン東京」や「サントリー美術館」の移転、米国の医療グループと提携したクリニックや、テレンス・コンランの「コンラン」ブランドによるレストランなどが挙げられる」

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 国立新美術館への近道を行くと――。

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 右手に天祖神社(港区六本木7-7-7、03・3408・5898)がある。福禄寿を祀っている。14時ちょうど。

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 MINATOあらかるとによると、「『竜土神明宮 天祖神社』と書かれた大きな石柱を通り過ぎ、小さな鳥居をくぐって階段を上ると正面に本殿があります。右には赤い鳥居が三重にたてられ、お稲荷様が祀られています。竜土神明宮とは、創建当時、毎夜のように江戸湾から竜が灯明(とうみょう)をあげに飛んで来たという伝説から、『竜灯(りゅうどう)』に由来するといわれています」。

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 右側の稲荷に福(幸福)、禄(俸禄)、寿(長寿)の三徳を授けるといわれる「福禄寿」が祀られている。

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 この神社でも資料をいただいた。
 天祖神社(龍土神明宮)御由緒
 この天祖神社(龍土神明宮)(てんそじんじゃ・りゅうどしんめいぐう)の御祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)で、今から、約600年前、南北朝の後小松天皇の御代、至徳元年(西暦1386年)8月16日に、芝西久保、飯倉城山(現在のホテルオークラの南側付近)に、はじめて祀られたと伝えられています。
 このお宮に、品川沖から毎夜竜が御灯明を献じたということで、この地を、竜灯山(りゅうどうやま)と呼ばれたと言われています。有名な太田道灌が方五丁の祭田を寄進し、神社の社殿を再建し信仰したことも伝えられています。
 元和の時代、徳川二代将軍秀忠の時に江戸城郭改築の際に社寺の移転があって現在の地に移り、この地一帯を龍灯(りゅうどう)からとって、龍土村と唱えるようになり神社の名前も「龍土神明宮」と称えられ、氏子の町々も龍土六本木、龍土材木町と呼ばれ開けてきました。

 以来代々の将軍家より尊崇篤く、この近くの諸大名わけては肥前蓮池の鍋島藩・宇和島藩(旧麻布三連隊、現ナショナルギャラリー)・毛利大膳太夫の長州藩(旧一連隊、元防衛庁)、幕府の諸役人などの信仰篤く「東都歳時記」の9月21日の条には「龍土神明宮祭」と記されているほどです。江戸三ヶ所の神明又は東都大神宮十八社の一つに数えられており、文・武・官の神様として広く信仰を集めております。
 不幸にして、青山火事に社殿は類焼しました。その後瓦葺き権現造(ごんげんづくり)の社殿、神楽殿などが再興され、明治42年の大修理を経て、威容を誇りましたが、昭和20年戦災にて、手水舎のみを残して、烏有に帰しました。
 しかしながら、境内の石造りのものに江戸を偲ぶよすがの記録が残り、往時の歴史を物語っています。
 現在の御社殿は、昭和32年に神明造(しんめいづくり)として再建されたもので、その木肌の美しさ、簡素にして厳(いが)しい姿は、日本の伝統の象徴ともいえましょう。

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 満福稲荷・福禄寿(港七福神の一)
 境内にある満福稲荷社は、従前、孫太郎稲荷と称えられましたが、近隣の稲荷社を合祀して、満福稲荷となりました。本社の文・武・官に対して、商売・事業の神様として、往古から商業・飲食業・ご婦人方の信仰篤く、霊験効(あらた)かな「お稲荷さま」として親しまれて御参詣の方の後が絶えません。
 この満福稲荷社に、七福神の一はしら福禄寿神をお祀りしてあります。
 福禄寿神は南極星に擬せられ、道標(みちしるべ)の神として、人の生きる道・事業・学業の道を教える神様として仰がれています。又、福禄寿神は泰山府君(たいざんふくん・泰山の神)と一体で、人の一生の福(しあわせ)、禄(おかね)、寿(いのち)を司る神様です。幸福・商売繁盛・子宝・病気平癒を祈願します。
 福禄寿神は、老翁のお姿で杖と巻物を持ち、鶴に乗り、国境を越え、自由自在に世界を飛び回り、道を教える「鶴上の仙人(かくじょうのせんにん)」です。このお姿にあやかって、海外旅行・留学の安全をお守り下さる神様としても信仰されています。

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 「海外旅行・留学の安全をお守り下さる神様としても信仰されている」というのは現代的だ。大使館の多い港区には必要な神様かもしれない。

 MINATOあらかるとによると、「港七福神めぐりは、 7つの福の神様を祀る神社、寺院に、宝船の巡拝所を加えた六社・二寺の8カ所をめぐるのが特徴。すべてを歩いてめぐると3時間ほどかかりますが(約6km)、六本木や麻布界隈の街並み散策も兼ね、半日かけてゆっくりと歩いてみませんか」と七福神めぐりを紹介しているが、4ヵ所で3時間近くかかってしまった。ゆっくり歩くと半日かかる。おなかがすいたので軽く昼食をとった。

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 ここで、今日回ったところの関連知識を――。
 『江戸散歩・東京散歩』(成美堂出版)によると、「赤坂見附から虎ノ門一体の外堀通りには、外濠を広げて溜池が造られた。江戸市民の貴重な上水源だったが、明治期には埋め立てられ、今は地名が残るのみ」「赤坂・六本木・麻布一帯は、坂の多い起伏に富んだ地域。高台の大名屋敷が町を見下ろし、傾斜地に小士邸、低地には町人たちが住んだ。今も残る大きな区画割りは、大名屋敷の広大な敷地の名残だ。多くの著名人が眠る青山霊園は、青山の地名の由来となった青山家の下屋敷跡。話題の最新スポット六本木ヒルズは、毛利家の上屋敷跡だ」。

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